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第26回
獣蹊 2003.10.28
血糊の臭いのするほうへ
灌木に閉ざされた蹊を行く
須臾にして叢ひらけて
そこには吾妹の白き裸体が横たわる
冥い天蓋に仰けて肋骨が赫く牙を剥き
故目のあった二つのウロが旋風に漠たる音を管吹いている
私はその生暖かき開け放たれた腹の口に
頭を突っ込んではらわたをあじわって
ふと顔をあげもと来た隧を振り返れば
その先末に横たわる無限の屍骸が眼窩に迫って
くつくつと笑いがこみあげてくるのを抑えきれない
場所柄をわきまえるとか、立場をわきまえるとか、昔から何かをワキマエルということについては得意ではない。
小学生の頃には飯塚寿美子先生の授業に突っ込みを入れ続けて怒らせて退出させたし、高校生の時には、放課後毎日入りビタって騒ぎ続けたファーストキッチン連雀町店がつぶれてしまったこともある。
また、最近でいうと、結婚式の披露宴では最後まで記憶があったことがないし(つまり飲んだくれて彼岸へと旅してしまっている)、会社員になっても飲み屋で上司の頭をドツイたりしてしまう、という、ある意味よく考えると、もう少しワキをマエテもいいのではないだろか・・という人生を歩み続けているわけである。
しかし今思ったのは結婚式の披露宴て、私のような飲んだくれにはホント、すべての調度が整えられた「据え膳食わずは男の恥」的拍車傾向の前のめりのシチュエーションであるのよな。
なんだか薄暗い照明の中、つまり自分のペースや儀礼マナーを守り続けることができるという温室メロン的状況の上に、アテ(料理)は頼まなくても皿が空になれば次々盛られ、酒もビールから水割りまでなんでも好きなのを間断無く飲み続けることができる。
つまり、フォアグラを作るアヒルさんの経口飼料自動流し込み工場のような、第一次衝動的欲求を感じさせない、快適な満足持続装置がそこに完結しているのである。
そのうえ、多少の質の高低はあるにせよ、間断ない余興、だしものが目白押しに企画されていて、浦島太郎の竜宮お座敷遊びってこんな感じに過ぎていくのではないだろうか・・という脳震盪的高揚感がそこにはある。
まあそのようなユートピア空間において、何かをわきまえて分別つけろ、というほうが間違いであって、そんな人参を鼻先にぶら下げて馬に走らすような強制というものは、なにかチョウチンアンコウやツツモタセのようないやらしい意図を持つと言われても反論できないはずなのである。
しかし、ここで話は大きく転回するけれど、私けっこう心の棚は広いほうなので、自分のことは棚にあげつつ声を大にして「場所柄をちったあわきまえろ!」といいたいことがある。
群馬県に藪塚スネークセンターという蛇の動物園(のようなもの)がある。
子供の頃から生物大好き!昆虫大好き!の典型的自然山林ヨゴレ児童であった私は、若いアベックがデートに決して選ばなそうな閑散とした軟性粘性動物博物施設であるそういうスネークセンターとかワニ園とか熱帯園とかはノガさずカカさず観覧する性質がある。
とりあへずそのスネークセンターというのはひなたに蛇が何十匹もからまりあってひねくりあってウネウネとしているという、考えるだに魅惑的なところなんだけど、その傍らの食堂ではなんと蛇丼がメニューに載っていて、さらには蛇(まむしだったかな)のフレッシュ生き血ドリンクバーなんてのがある。
これは何かに対しての冒涜ではないか。
その何かというものが何なのかはよく分からないが、おまえらタイガイにせーよ、という道徳や倫理が顔をだすワキマエ式の反駁心がわきおこってくる。
人間の肉というのを食べたことが無いけれど、それを食べる人間を見たときって丁度こんな感覚ではないか。
だいたいそこ(蛇センター)を訪れる人間は、蛇に対して共感・愛玩に近い心持ちをもって訪問しているのである。
蛇が憎い人間の群れがそこに集結し、血祭りにあげた蛇どもを集団凶暴心理で食らうなどという文化大革命的カニバリズムとは最大限の隔たりがそこに存在するわけである。
そういう意味で「場所柄を考えてわきまえてほしい=蛇センターで蛇食わすことないだろ」という一般的感想が導きだされてくるのは当然である。
しかし、世の中においてこれに似たものを探すのはたやすく、例えば海遊館横にあるシーフードレストランというのもある意味同族経営であるし、城崎シーワールドの海辺のレストランでやむなく食べた乙姫御膳はほとんど味を覚えていないけど、一言でいって悪趣味というよりほかはない。
水族館をぐるりとひと回りしてきて、魚の生態っておもしろいね、かわいかったね、という平和な穏やかな感想的心情の中、出口にででんとあるシーフード海鮮レストラン、とれとれのぴちぴちの刺身定食!なんてのを誰が食えるというのであろうか。
この事実を敷衍して邪推するならば、水族館というのはその海鮮レストランに付属した、実物を品定めできる壮大な有料の水槽式メニュー、つまり「イケス」ということなのであろうか。
そういう位置づけならば、逆に我々もそういう視点で水槽をかけずり回って血眼になって品定めして、「三番水槽のカツオDをたたきのレアで・・」などと指名して料理していただく、というある意味楽しい休日を過ごすことはできる。
しかしそうはいっても水族館てのはやはり魚を純粋に愛し、楽しむ娯楽施設であるというのは言を待たない事実な訳である。
そのような中うれしそうな顔をして家族4人でそのSFレストランに足取りも軽く入って行く人の群れというのは決定的におかしい気がする。
ほかにもワニ園でのワニの唐揚げとか、ダチョウ園でのダチョウのステーキとか、日本人てこんな民族であったのか・・というような残虐かつ酷薄な文化がはびこっているというのがなんとも絶望的であって悲しくなってくる。
そして、たまたまこの間ディズニーランド横のホテルで結婚式があって、ディズニーランドのパンフレットというものをもらってきたのだけれど、そこにあるレストランというのはいったいどういうもんを出しているのか?ということが純粋な疑問として妙に気になったわけである。
ディズニーランドって一回しか行ったことないけど、私の中ではミッキーやドナルドやダンボやバンビがはねまわっている遊園地、という理解なので、極論するならば動物園の動物をもっと身近にして彼らと触れあう場所のような気がするのである。
そのような場所にあるレストランでいったい何を饗応しているのであるか、というのはなかなかに興味深い問題である。
特にディズニーシーって人魚の乙姫のいる竜宮城みたいな感覚だから、そこで魚料理なんか出てきた日にゃあ、浦島太郎も吐瀉噴飯の、血と怨恨のスプラッター料理の雰囲気が濃厚なわけである。
一般的にいっても、そこで食う棒棒鶏やステーキなどにごくミリ単位の疑惑というものが思い浮かばないとは言い切れまい。
そして思うにそこにはアヒルやネズミの肉を使用したメニューがあるのではないだろうか。
ミッキーの手こねハンバーグや、ドナルドびっくり北京ダックなどというメニューがあったとしたらこれは教育委員会も日教組も押し黙る疑獄事件に発展するのではないか、というのが私の大いなる懸念なのである。
そして、そんなわけないですよ、大丈夫ですよ、ホント大丈夫大丈夫!送っていくからさ、なんて言われても納得できないある例の存在をあげて、いつまでも疑いの晴れないこの項を終わりにしたいと思う。
それはコアラのマーチにはコアラエキスが入っている、という驚愕の事実である。
コアラのマーチのパッケージの原材料欄を見ても、お口の恋人お客様サービスセンターなどというあからさまに風俗街的な電話口に電話してみても、「そのような事実は存在いたしません」という厳然たる否定がそこに横たわっているのであるが、しかし、女のカンと私の鼻はごまかせない。
コアラのマーチの臭いをかいだときのあの独特の獣(ケモノ)臭というのは、やはりコアラ以外の何者でもない気がするのである。
(コアラの臭いをかいだことはないけど)
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