海洋空間壊死家族2



第25回

鬼子   2003.10.20



さるをとめ
白昼夢に姦淫して
未通女受胎せり
懐胎すること一千日
眼開き歯生えそろえたるをの子産み落としたり

この子あらなくば
乳首噛み切りたり
この子あらなくば
窩焼きたり
この子あらなくば
村娘うせにけり
この子あらなくば
血肉喰らいて山咋にぞ入る

               〜鬼子双紙より〜



配偶者と聞くとあまり違和感はないけど、オレ今度あの子と配偶するんだ、なんて男がいたらちょっとそれは脳の一部位に異状があると想像されるような、レトロな推理小説の猟期趣味の気配が濃厚である。
あの子とスキャンダル!という歌謡曲が昔流行ったけど、そのちぐはぐな語感よりはるかに生活上の違和感がある気がする。
配偶というのは別に専門分野ではないしあまり知ったかぶりもできないけど、単為生殖に対置される偶数の当事者によって行なわれる遺伝子継続的伝達の一方法のことを指し示すものと思われる。
だからそれが2人であろうが4人であろうが、はたまた8人で行なわれるような密室行為だったとしてもそれはそれで責められるべきものではない。
なんてことをいうと、いろんなことを想像してしまう輩がいて大変なのだけど、その一方で「偶」という字には何かを写し取ったものというような意味があって、例えば、デク(木偶)や、偶像なんてのも、なんらかの対象を象って作られ利用されているオブジェで、つまり配偶というのは己の特徴を、子孫という形で写し取っていくという行為一般を指していて、配偶者とはその目的のための一時利用一時預かりの駐車場のようなものである。
この配偶という生物的戦略は多くの動物で採られていて、ほとんどの人間の知り合いの生物はこの配偶によって後世に自分の遺伝子を残そうと必死になっている。
反対に単為生殖というのは、たとえばアリンコや、アブラムシなんかがよく一時的に利用している戦略で、基本的には単細胞生物の細胞分裂と同じような、自分の遺伝子そのままを受け継いだクローン的継承者を作る特徴がある。
これは人間界でいうと、Aさんという方が処女受胎してそのまま畜生腹気味に子供をポコポコ生んでしまうという、世間一般では「奇跡」とも呼ばれ、宗教をひらけるほどの驚愕の行為なのであるが、これらのアリハチ的集団生物の中ではごく一般的なことなんである。

この配偶と単為生殖という二つの戦略にもそれぞれ一長一短があって、例えば、前者はこの掛け合わせ行為によって、変化に富んだ、ある意味適応性にとんだ継承者を作り出すことができる。
例えば、うちの子でいうと、姉は従順にして素直な性格だがその分応用力にかける、弟はとりあへず人の言うことは聞かずにやりたいようにやっていて時々思いも着かないようなことをする、というような多様性があって、どんな時代が来ようともどちらかは生き残るような感じがして頼もしい。
また、その遺伝子の配偶時に突然変異が起こりやすい、という何となく危険な賭けのような偶発的な事故を利用して、さらなる進化を遂げていく、という副次的な要素もある。
後者、単為生殖は、逆にまったく同じのクローンを量産的に作り出すから、環境の変化で「こりゃダメだ」という事態になると、全員死滅してしまうリスクがあるが、前者のような、交尾やその他諸々のエネルギー消費型のプロセスを踏む必要がないため、その気になれば、大量発生的に子孫を増やすことができるという長所がある。
これを人間で想像してみると、医学的に進歩しているのを考慮すると、一年後にはどえらいことになるのであろうな、という空恐ろしい結末が見えてなんとも言いがたい。
どちらの戦略を採るにしろ、自分の遺伝子を残したいという欲求というものが果たしてどこから来てどこへと向かっているのか、まったく分からない、というところがあまりにスリリングであまりに徒労感に満ちているけれど、さしあたって我々人類も、この内なる司令に従ってむなしくも生きていかなければならない。

さて、この二つの性格的に正反対の繁栄方法というのも、よく見れば、ほぼ同じ構造によってその遺伝子を育んでおり、つまりDNAと呼ばれる二重螺旋上の遺伝子設計情報を基本に、その生物的特徴、主体性を伝えていくという仕事をしており、実際その戦略採用の選別、というのも、わりあい曖昧な線引きがあって、その両方を取り入れてうまくやっている、という生物も多々存在している。
そして、そういう意味でこの戦略、つまり現世生物のとっている繁栄方法には、明確な統一的コンセプトがあって、言ってみれば、安定性、恒常性、というところに尽きるのではないか。
とんでもない間違いや、人為的作為が加わらない限り、ある生物から出生した新たなる生命というものはその出身生物と大差ない、というよりはほぼ同じ生き物がそこに生まれ出るという仕組みになっている。
クジラとゴリラを掛け合わせたらゴジラが出た、とか、暴れん坊と将軍を掛け合わせたら暴れん坊将軍が出た、とか、一部の例外を除けば、かえるの子はかえる、という大自然の摂理がそこに横たわっているのは紛れもない事実である。
これは高速道路を走っている自動車の感覚にもよく似て、多少のハンドル操作と、アクセルの強弱によって目的地へスムーズにスピーディーに到達するというのが一般ルールとなっていて、そこでは急に右にハンドルを切ったり、急ブレーキを踏んだり、逆走したりすることは、つまり死を意味していて、その方法論から外れた進み方というのはまったく認められない、という常識に満ちている。
また、この高速道路に乗っているかぎり、たどり着くところはほぼわかりきっていて、名神高速に乗っていたのにスーダンのハルツームに着いてしまった、というようなことは断じてない、というところが当然といえば当然であるがつまらないといえばつまらない。
そしてこの常識は、我々生物がDNAというある意味短絡的な延命装置を使う限り、打ち破ることはできない、というのは残念ながら否定できない絶対的価値観である。

しかしこのあいだある書物を見ていて、これだ、と思ったのであるが、たぶんこの退屈な時間に満ちたDNAの轍(ワダチ)というのはカンブリア後期には未だ常識的一般傾向ではなくて、つまり、それ以降にほかの生物延命法との競争に打ち勝ったのではないか、と信じるに足る事実があったのである。
その書物によると、というか、一昨年くらい前にNHKでもその時代の生物アノマロカリスなんてドキドキしちゃう扇情造形生物をコンピューターグラフィクスで動作再現するという興味深い番組をやっていたけれど、一言で言うと、カンブリア後期の大爆発、というらしい。

その時代の生物というのはもちろん化石でしか確認できないのだけれど、その多様性、というものは、現在の常識では考えられないほどのものなのだそうである。
つまり、誤解を恐れず誇張的に例えて言うならば、100見つかった化石がすべて異なる100種類の生物であった、というような、多品種多種目の生物が百花繚乱的に爆発的に生まれ出た時代なのである。
これは何を意味するかというと、冷静に考えれば、ある生物が生んだ子供が、親とはまったくといっていいほど異なる生物であった、ということにならないか。
その書物ではその時代になんらかの環境的な好況期が来て、あらゆる生物が栄え繁栄したのではないか、というような推論を述べていたが、それでは説明がつかない、ということもまた述べていたようであった。
たしかにDNA的思考法でいうならば種が爆発したという考え方になるのであろうが、しかしその考え方を離れて冷静に考えるなら、生んだ子がまったくの鬼子で、親とは似ても似つかない種が生まれる、という変則的単位生殖、あるいは細胞分裂的多細胞生物のような戦略、方法で生き延びる種族があったと考えるほうが自然である。
ミジカな所でいうとイザナギとイザナミの間に生まれた子がヒルコ、というおぞましい生物でそれが淡路島だ、というような神話的遺伝方法が太古の昔には存在したのである。
そこでは二重構造のDNAどころか「遺伝」という目的概念も存在しなかった可能性がある。
そしてその種族が主流の時代は、遺伝子の二重写し取り機構の相似型安定子孫維持的DNA生物の「常識」から見ると種が爆発したように見えるようにできているのである。
最大の疑問としてその種族がなぜ現存しないのか、絶滅したか、というところが残るが、これはDNA代表霊長類の「人間」である私の経験からいっても、世の一般的感覚としても、例えば、やはり、「執念」というところから推論するより他はない。
詐欺や謀略暴力をはたらいてまで自分と同形の子孫を残そうという執念、この内なる指令に打ち勝つものはこの世に存在しえないというのは、その辺の盛り場を歩いてみるまでもなくよくわかる。
そして、ある意味今の世に残っているその敗残種族の残滓として、ウィルスというのがあげられる。
この変則的に変貌していくDNAともつかない遺伝情報の塊は、絶滅した鬼子種族の呪いのようにいつまでもDNA生物を悩まし続けるのではないかという気がする。

たとえ話ばかりで恐縮ではあるが、自分がその種族の一員だったらどうであろうかと考えてみると、例えば、何が出てくるか分からないガチャガチャのようなわくわく感はあるだろうが、しかし、実際に、さあ単為生殖(分裂)するぞ!という段階になったとき、まったく自分とは違う生物が自分のからだから生み出される、という事実はあまりに恐ろしい気がして、出そうだけど出ない、というような、肛門のひくつくような状況が容易に想像できる。
そういう意味で女の人ってすごいなあと思うのであるよ。





戻る

表紙