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 第24回
 
 天動小説   2003.10.14
 
 
 
 
 コバルトブルーの宇宙羅針盤の上にコンパスを何度もひき直して
 行く先を決定する
 
 上も下もなく北も南もない
 極点や支点やセンタァのない
 宙ぶらりんの三次元軸の中で
 目的や目標の座標軸を指し示す
 
 どこに着いても着かなくても
 結果はおんなしで
 達成感という宇宙の波打ち際は
 いつでも心の際にあって
 コバルトブルーの冷たい水が音もなく
 打ち寄せているものである
 
 
 山村美沙という推理小説作家がいた。
 昔この人のうちの近所に住んでいたことがあって、なんだかウソかマコトかおもしろい近所のオバハンの話もよく聞いたけど、まあそれは死んだ人のことをどうこういっても仕方ないのでこの際どうでもよい。
 しかし正直言ってこの人の書いた本というのはまるっきりおもしろおかしくない、というより、違う意味ですごすぎる。
 まあ出版社も事情があって大変だったらしいけど、ここまですごいのはいまだかつて見たことなく、コバルト文庫のような異空間文庫を除いて、きちんとした出版会社で出ている推理小説としてはまさに文字通り群を抜いた、圧巻のすさまじさである。
 とりあへずこの人の書くのは京都の観光地がその舞台になっていることが多い、というよりも、それがこの作家のすべてだから、よく京都殺人ツアーとか、若女将嵯峨野殺人案内とか、そういう下世話なタイトルの2時間サスペンスドラマとして仕立てられて放映されるのを我々はよく目にする。
 そんで私もそういうB級C級サスペンスドラマというのは嫌いではないから、どれどれ・・という恐いもの見たさにも似た好奇心から、その決定的に無駄な2時間というのを意図的に費やしたりしているのだけれど、その火曜サスペンスとか、土曜ワイド劇場とかのハキダメ(すまぬ)の様な番組構成の中でも、山村美沙もの、というのは夜のサスペンス界に粲然と輝く、くだらなさ、業界ナンバーワンの、やっぱりDHCだね、という安心のくだらない内容で一部のマニアの絶大な支持を得ている際物なのである。
 
 小学生の頃から、母親と一緒に、眠くて耳鳴りのする土曜日の夜中に、目をこすりながら南條玲子とか片平なぎさ、河原崎長一郎とか、あるいはゴールデンから流れながれてきた哀愁ただよう旬を逃したアイドルたちのめくるめくサスペンスドラマを見てきた私は、はっきり言ってストーリー展開の強引な、時代劇にも似たその2時間サスペンスには日本で五本の指に入るほど慣れ親しんでいるわけである。
 やっくんが時代劇で同心をしていたのも目撃しているし、川嶋なおみが火曜日に死体で発見されるのも見たことがある。
 そういう意味では、どんな度肝を抜く脚本にも、どんな安直なトリックや急ぎばたらきの結末にもたじろぐことのない歴戦のツワモノであるこの私も、山村美沙ものの結末というのは予想もつかないし、いまとなってはつきたくもない、それ以上のエキセントリックな脱力感に襲われてしまう。
 しかしそれもある意味才能ではある。
 4歳の子供でさえもう少しマシな言い訳とつじつま合わせを考えつくような気がするのである。そういう意味では誰も思いつかない着想を持つ希有な人材であったのであろう。
 あるとき、密室トリックのタネが「合い鍵」だったときの脱力感と徒労感は、今まで生きてきた中で最高のびっくり日本新記録ではなかっただろうか。
 密室トリックというのは、いままでにも歴史的に著名な推理小説作家たちが取り組んできた、ある意味その作家の真骨頂を見せる、緻密な考証と伏線的練り込みを必要とする、見る側としたら見応えのある、気分の高揚するお題である。
 しかし山村美沙ものではそのような期待や謎解きは不要である。
 最後の最後に犯人が合い鍵を作る場面が挿入されてそれでおしまいなのである。
 推理小説という分野において、ハナシの最後にその人間関係や、過去の出来事を明かす、という手法は下の下とされているのであるが、山村美沙ものではその常識はまったく通用しない、というより、「合い鍵」ってあんた、あたしゃそのトリックあかしを見たとき、しばらくからだ全体が金縛りにあったように、音も消えて辺りが真っ白になるような、精神状態になっちまいましたわよ。
 そして味を占めたように山村ものの結末には、謎解きというよりは、誰も知らなかった事実のタネ明かし、犯人は誰某の妹だった!とか、昔の恋人が殺されていた!とかそんなことまったく触れられていなかったことがとつとつと語られて、犯人はパトカーで連れ去られていくという、考えるだに恐ろしい、当事者内部事件性を秘めているのである。
 逆にここまですごいと、今度はどんな手法でオレを呆然とさせてくれるんだ!脱力させてくれるんだ!?という後ろ向きの期待が高まってきて、山村ものがあると、9時までに用事を済ませて結構いそいそとテレビの前に座って、山村紅葉(山村美沙の娘ですな)の名演技と、衝撃の脱力エンディングへの期待にグフフと微笑んでしまったりする自分がなかなか魅力的である。
 
 まあ山村美沙に限らず、現在の日本の推理小説というのはどこも似たり寄ったりであまり読める代物はないのだけれど、それ以前に私の肉体的、思考的需要として、「小説」って最近読めない。
 
 昔から読んでみたい小説というのがあって、本屋で文庫になって出ているのを見つけたりして、おぉっ!と手にとってはみるのだけれど、パラパラ・・とめくった時点でもうすでにため息の交じった「もうだめだ・・」という若者にあるまじき諦めの心が沸き起こって、1ページめくる前にその本を棚に戻してしまう。
 とくに最近楽しい本屋を発見して、今昔フランスノアール系の作家の訳本なんかが積んであってそこにいると何時間でも過ぎてしまうのだけれど、しかしそのような興味対象領域においてさえも、小説というジャンルの本というのは、もう駄目である。
 インポテンツというのは身近かにはそれ気味のが一人いるだけで、その実体はよく分からないけど、小説に対する今の心境というのはまさにそんな感じなのかなあ・・というほどに昂ぶらない、あせればあせるほど萎えていく心神耗弱気味のアテ馬(?)の心境に似ている。
 そしてその一番の原因は、というと「 」に代表される小説内会話である。
 この「 」に囲まれた会話、とくに2人以上で行なわれる会話の数行があっただけで、私の小説侵入心理は一気にベクトルを変えて、その本を閉じる、という衝動へと転換されてしまう。
 そしてそれにはいくつかの理由があると思われるのだが、まず、言葉が嘘っぽい。
 例えば、「それってどういう意味?」と小説内に書かれていたとする。
 しかしまずそんな言葉使っている人っていないような気がするのである。
 「それって」というところがすでに前回までの粗筋を冗舌にしたり顔にしゃべくる近所のオバハンの様なデバガメである。
 またこういうものはその社会やグループ、仲間うち、文化などの要因によってマチマチのはずで、この会話を書いた人の「普遍的にわかる言葉で書こう」としている意識が、すでにその言葉に没入する私の熱意をそいでしまっている。
 つまりどんな言葉で書いてあってもそこには私が入っていく隙や溶性がない。
 だからそういう意味では、最初から最後まで告白調で書いてある文章、小説、というのは割合、その人の言葉、主観が書き連ねてあるから、安心して没頭できる。
 論文みたいなものだからな。
 
 次に、例えば小説内で異なる3人の人間が一緒くたに会話する場面があったとする。
 「ほんとおまえコーヒー好きだな」
 「それはそうなんだけど・・」
 「おまえはどうなんだ」
 「いやこのあいだクツのヒモ結ぼうとしたら耳からこぼれちゃってさ・・」
 最後にしゃべった人間がアメリカ人であるという事実以外は、この会話からはほぼ明確な人間関係を汲み取ることはできない。
 まず、果たして誰が誰に何を言っているのかさっぱり分からない。
 いや、強いて分析していって、これはAがしゃべって、それに対する反応の強弱からいうとこれはCの返事、それに突っ込んだのはBでそこにAがチャチャを入れたんだな・・と読み進めることはできるが、そういう小説の展開とは無関係なところに気を遣っていて果たしてそのストーリーに入っていけるのか、という問題である。
 ロシアの小説(もちろん訳)なんか読んでいて、名前がたくさーん出てきて、えーとこれは誰だったかな・・なんて巻末の登場人物相関図に目を通して、ああそうかそうか、などと言いつつ読み進めていくと、終盤に入ってから、実はタレンスカヤという女の子と、ソーニャという女の子が同一人物だった!なんてことが判明することがあるが、そういうあまりの自分のアホさ加減と、その今まで読んできた徒労に呆然とする様は、買い物に出かけて財布を忘れるサザエさんの喪失感にも似ている。
 そこまで読んできた私の理解とはいったいなんだったのか、もう一度最初から読み出さなければならないのか、よしんばもう一度読んだとして正しい理解の中読了することができるのであろうか・・という、自分自身が世の中で一番信用できない人間へと変化していく心理的過程がたまらないのである。
 つまり、会話の主体を気にしたり、名前を気にしたり、そういう話の筋とは関係のない集中力拡散、眠るときに出てくる蚊のようなウザッタサが、小説を読む気力を萎えさせる一因である。
 
 しかしなんやかんや言っても、私が小説を読む気がしない最大の原因は、やはり「おもしろくない」というのがそれであると思われる。
 これはおもしろい小説がなくなった、というよりは、私の中で、「小説」という文学的ジャンルが「死」を迎えた、あるいは、一つの区切りを迎えていま山から転げ落ちている真っ最中である、ということのような気がする。
 いろいろ考え方はあるであろうが、小説というのはある一つの世界、人格の中に自分を溶け込ませていく作業、文学であると思われる。
 ある意味登場人物になりきる器量がないと小説は読み進むことはできない。
 その小説の書き手の思惑に乗ってしまうだけの勇気と、無邪気さがないと、小説というのは読める代物ではない気がするのである。
 そして現在の自分に立ち戻って考えてみると、他の人格や世界に入り込むという小説的な手法を拒否する自我が強大になって、逆に自分のまわりをめぐる世界や人格に対置される自分というものを必死になって造っているような感覚がある(いや普段はないけど)。
 つまり「われ思うゆえにわれあり」というような絶対的存在の自分というよりは、比較相対的な自分というものが本来の自分であるような気分、といったらいいのか、つまり「キミがいてボクがいる」というような、地動説的な、昔の感覚でいうとまったくくだらない卑俗な人間に成り下がっているのである。
 そういう人間にとっては「ドキュメンタリー」や「図鑑」「ものがたり」というような自分と相対して格闘できるような分野のものが自然と好ましいものになってくる。
 そういう意味では「童話」なんてのも小説的でありながら、実はものがたり的な、突き離し、離された寓話性、客観性があって、子供に読みきかせているうちに、ふと気づけば子供はいなくて無言で読み進んでいる自分がものがなしい、みるくがなしい実体なわけである。
 というわけで、なんかそういうもの憂い傾向を吹き飛ばしてくれるような小説があればなんか教えていただきたいなあと思っている昨今ではあるが、実際にそんなもん持ってきた奴はなぜか本気でぶっ飛ばしてしまいそうでこわい。
 
 
 
 
 
 
  
 
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