海洋空間壊死家族2



第23回

感冒   2003.10.9



脊椎の髄液の逆流にまきれて
破傷風なりやしふてりやなりや
関節の微細に入りて
我か活動こそ蝕みたれ
常態化したる痛覚は
ヒト皆その症候ありと聞く
冒されし流感も安穏たる同質も
身動きの取れぬ鉄の処女のうちのことく
川面に浮かぶ蓬にも似たり



流行という言葉にも二通りの捉え方があって、「今年は白が流行色である」あるいは「セガより任天堂」なんていう、その流れ行く全体主義的=草食動物的趣味嗜好に身を委ねるという意味で、「任せて安心」という保険屋の常套句にも似た、ある意味ポジティブな波乗り的流行がある一方で、「みんながやってるから恥ずかしい」という、その流行にブレーキをかける役割を担っているアンチテーゼとしての流行、という意味が厳然とそこに存在し、その両者のせめぎあいが流行という人間心理を取り巻く楽しい文化を彩っているわけである。
例えば服飾の歴史を見てもフォーマルというのは今でこそフォーマルだけれども、ある歴史上の一時点ではまったくの異端であって、そこへの草の根の支持から一般的かつ全体的統一王者へと駆け登っていった、というようなことはよく知られているし、音楽でいっても、クラッシックの復権やハードロックの循環的流行を見るにつけて、栄しものが滅びてそのあと伸長したものが没落し、また滅びた以前の栄光が日の目を見て蘇るというような、かつ消えかつ結ぶうたかたのごときその興亡は人間のサガというものをあからさまに示していてなんだかうれしくなってくる。
そして私のような、世の流行というものに周回遅れして挙げ句ボーッとつっ立っているような人間にとっては、その流行のうねりを造り出す、先端を突っ走るヒトというのはまったく想像もつかない、あくがれと羨望の対象であるのだが、しかし、その流行の中核にいる人々にとってその源流、源泉というものは、実はまったくネガティブな、何か汚くてえげつないものを覆い隠す目的によって生まれ出てきた、と信じるに足る証拠を我々はあちこちに散見することができる。

特に女子高生というものが、マスコミのある一部のおじさんたちによって崇められ、流行の先端に祭り上げられた頃が一時期あったけど、その時そこで流行っていた(とされる)もの、というのをよく見てみると、それは己の醜悪さを隠し、その本質を曖昧にして誤魔化してしまう手立てそのものが「流行」としてあったのではないかという確信がわきおこる。
例えばルーズソックスというのはたぶん今でも使われているのだろうが、あれは足の太さを見えなくするための矢来のようなものではないか。
その昔、女子高生の足はなぜ太いか、というテーマを研究していた頃、「あの足首の部分には乙女の夢、幼さが詰まっているのである」という大胆な仮説を打ち立てたのだが、そのすぐ横で友人のO君が、「あれはホルモンバランスの具合だわ」と気の抜けたような声を出して、私のきらびやかな夢を粉々に打ちのめすという事件があった。
どちらの説が正しいのか、今でもよく分からないが、実際の問題としては、あの靴下を見ていると、足首からふくらはぎの全体を脚袢のように覆い、その上、だぶだぶにして中身の直径を推測せしめない、という、海老フライのコロモ的ないかがわしさに満ちた意図はおおいに感じられるところである。
そしてその靴下に組み合わせられているミニスカート、というものもよく考えられた上での誤魔化しグッズである。
例えば、あのルーズソックスに普通の丈のスカートを想像してみると、だいぶ不格好である。
あの重い質感のルーズソックスにはあの丈のスカートの組み合わせが一番見目良く、さらには、ヒザを折り返しとした上下10〜15センチメートルの空間のみが外部閲覧を許されている、というところ、つまりその女子生徒の脚部の中で、実質見えるところはごく限られた一部分だけである、というところがミソである。
そして、どんなに太った人間でも、膝の関節、というものはほぼ、足の中で一度くびれてまた広がっていく、というパナマ運河的な事実をあわせて考えると、そこをサブリミナルの様に印象的に見せておいて、あとの太いももや足首は霧の中、というパラパラ漫画的作戦は人類の叡智といっても過言ではない。
機動戦士ガンダムに出てくる「ドム」という十文字の目玉をしたモビルスーツ(ロボット)がいるのだが、それを見ると、無意識に私は女子高生を思い出してしまうのである。
そしてその「ドム」の特徴として、極端にくびれたヒザ関節と、極端に膨れたブーツカットの足首(クビレはない)、という特徴があげられるのである。
あのバランスの良さは女子高生の知略を尽くしたイメージ戦略に通じるものがあるのである。

極めつけはガングロ、そこまで行かなくとも、焼けた肌。
街で見かける女子高生はみんな小麦色だったという時期があったけれど、あれはたぶんどこかの女子高の仲間内で実力のある一人の女子校生の肌が地グロであったのだな。
そして、よくある話だけれど、本人や回りが気づかないままにそのコンプレックスというものが、集団ヒステリー気味の会員制地グロ集団を形成して、ある朝気づくとアンレマアみんな日焼けサロン化しているという状況になっており、その後は似たような悩みを持つ血色の良くない女子児童が追随して一つの文化を形成した、というのが事実ではないか、とまったくの想像ではあるが、かなりの自信をもってそんな気がするのである。
なぜかというと、それは地グロって、焼けた肌って、それほど美しいと個人的に思えないのだよな。
つまり、北欧的な日光渇望、バカンス的ステータス信仰、あるいはシャリバン赤射的需要がない限り、あの茶色の肌を本気で美しいと思って追求するなんて、まあできないと思うのである。
たしかに飲み屋に張ってあるポスターの、ビール片手に日差しを浴びて弾けそうな小麦色の肌のオネイちゃんというのは美しいとは思うけど、例えば、その隣に同じようなレベルの美しさの色白のオネイちゃんが浴衣でうつむき加減に正座なんかしてたら、どんな反論もむなしくそちらのほうが美しい、と思ってしまう。
同じ日本人女性であるなら、白いほうがひとまわりもふたまわりも生態学的に美しい。
以前青森を旅したとき、北の海辺のバス停で見た一人の女性はほんと海の向こうまで透き通ってしまうほど白く美しい肌の色をしていて、その妙なる姿に逆上した記憶も、その女性の顔容は思い出せず、しかしてその白の記憶はいまだに鮮明に心に残っている。
それほど色白というのはオスにとって魅惑蠱惑的な性徴なのである。
また、昔から、色の白いの七難隠す、というけれど、よほどマニアックな顔をしていても、色が白いスラリズムの人であればそれはそれで絵になる風景になってしまう、というほど、その色彩的特徴は決定的な要素を持つのである。
逆にいうと、色が黒くてマニア向けの顔の方、というのを見たとき、ほぼ目を逸らしたくなるほどの斥力パワーをその顔面に感じてしまうという事実は、鳩などよりも早く、小刻みにうなづける事実である。
そして残念ながら、往時、街にあふれたうす茶色の女子高生たちのほぼ9割はこの顔面酵素パワーのトップ型であったといえる。

このように見てくると、これらのひとむかし前の女子高生主導の「流行」というものの欺瞞的くだらなさというのは、突き板家具や、イオンコート2や、お墓のような一時しのぎ的な隠匿、表面繕いと同様であって、その下には陰惨たる屍の山が累々と横たわっていたわけである。

女子高生だけでなく、ほかに目を転じても、例えば、若い男がしているあのケツが見えそうな、股ぐらがどこにあるのか分からないほどズボンをズリ下げて履いている文化は、つまり、足の短さを言い訳してあやふやにして分からなくして、その割りには虚勢を張る態度が見え見えでなんとも情けない心持ちになってくるし、ほかにも、阪神優勝ってどう見ても騒ぎ過ぎだけど、それは不景気、社会、個人の自信喪失の裏がえしである。
またラーメンがこれだけ流行るなんてのも、バブルの反動をラーメンの高質化、蘊蓄化によってまぎらわす一派の蠢動というものが想定されて目にあまる。ラーメン一杯800円の時代はどう考えても異常ですぜ。
やはり、流行というものが後ろ向きな姿勢から、何かを隠し立てする目的で生まれてくる、という推論は正しいのであろうか。

話は変わるけれど私異性のどこが好きか聞かれると、迷わず「かかと」と答えることにしている。
あのかかとの部分が、ちょっと過密スケジュール気味の歩行運動により、つまり歩きすぎてうすピンク色に染まっているのなんか見た日には私、その場で卒倒してしまいそうになるので、上りエスカレーターでは要注意なのである。
夏の季節になると私の心はうきたって毎日が何の意味もなく楽しくなってくる。
それもこれもミュールやサンダルが流行したおかげなのである。
流行っていいな。





戻る

表紙