海洋空間壊死家族2



第22回

果実   2003.10.2



母親をば呪いて
己が叫びに目覚めたるアシタ
内蔵の込み上げ這い出して
地べたに染みわたれば
やがて生じたるワクワクの木陰に
秘密の人形たわわに実りて
収穫の果実に
われ
所有と呪いの刻印を
鈍赤色の焼き籠手もて
鉄肉の焼ける鼻腔の悦びにうち震えてぞ
おしあえぬる



果物で何が好きかといわれれば、まず一番に私はいちじくを挙げると思う。
いまだ若かりし頃、盆のあたり、それとも夏の終わりくらいだったろうか、ともかく暑さの照り返しの候になると、よくいちじくを買ってもらった記憶がある。
母親の何か買ってあげたくてしょうがないという貧乏の反動的衝動を、なんとなく「じゃあイチジク」というやや不良な受け流しでやり過ごしていたというのが事実なのだが、今となっては好きな果物がいちじくと言ってもそれほど不正確なこともあるまいと思われる。
あのねっとりとした舌触りと、濃厚であるがゆえに、逆に食後すがすがしい味わいはまさに恍惚の団地ヅマとしての我が欲望の方円にピッタリとくる感覚がある。
そしてその「無花果」といわれる、花の咲かないまま実のついてしまう、というよりは、果実のウチなる秘部にその花芯を横たえていて、外部からの浸潤におののきわなないているという扇情的かつ酔狂な生態も親近感がわいていい感じである。
また、それとは正反対の感覚の果物であるナシというのも昔から好きな果物である。
スリ小木でスリスリとすりつぶしたら果汁成分以外はほぼ何も残らなそうなあの水っぽい感じが仏教的無常感を呼び起こして、果物といういかにも徒花的な本質を感覚させる気がするのである。
だいたい果物って人間が喜んで食べるほどには果物側としては喜びの度合いが低い気がする。
昔でいうなら、種子を運んでもらうとか「種の保存」的な意義があったであろうからまだ救いがあっただろうが、しかし今となってはタネ無しブドウ、スイカなんてのも広く流布しているし、食べ残しのタネも地面に蒔き落とされることはほぼなく、残飯として生ごみの袋に入れられて、最後はゴミ処理場で火葬されている。
その上、たまにタネごと食べられる果物があっても下水道がかっちりしているから、そこから這い上ってくる敗者復活戦というものもなく、ただただナスがママになってこの世から消え去っていく、というのが現状である。
つまり果物の主観としては、利用されて、髄までしゃぶり尽くされて捨てられた、歓楽街の幸薄い女という感じで、見ているこちらとしてもなんとも申し訳ない気持ちで心が塞がる気がする。
しかしなんやかんや言ってはみたものの、実は私、果物が食べれないのである。

いや、正確を期そうとするならば、果物自体は大好きで、機会があれば腹いっぱい食べたいと渇望する身でありながら、その身体的抵抗、免疫的自己排撃により、食べるとエライことになってしまうのである。
具体的には、食べたその瞬間から、果汁の触れた粘膜器官、あるいは継続的連絡性を有する器官、喉、鼻、耳などに水泡がずばばばばぁんと一気呵成に広がって、はげしいカユミ刺激にのたうちまわる結果と相成るのである。
あのノドに手を突っ込んでかきむしりたくなる衝動というのは、ある意味、性犯罪的な狂疾にも似て、その非実現性の壁はさしあたって死ぬまで無理という分厚さに阻まれている。
つまり口では偉そうなこと言ってるわりには何もしたことのない思春期の中高生のようで面目次第もないわけである。
そしてその免疫過剰を呼び起こす物質が何であるか、科学分析的には分からないのであるが、その食対象別ケロイド症状の強弱で見ると、みかん<りんご<もも<びわ、とヒドクなっていくところから、何となくその感覚はわかっていただけると思う。
そして、その体質を公表すると皆さん勘違いして、それは生まれつきカワイソーねー、あんなにおいしいもの食べたことないのねー、という、いま子供達のあいだで大流行のアトピー的アレルギー症と同一視する反応をされるのであるが、おっとドッコイ、ことはそれほど簡単な話ではないのである。

結論から言うと、大学二年生のある時期まで、私は果物を普通に食べていたし、逆に実家が群馬県という山国であるから、果物関係の知り合いというのは予想以上に多くて、おいしい果物を大量に摂取できるぜいたくな境遇にいたのである。
そしてそれを当然のように思っていた若き日の私にその日は突然おとづれた。
月日が百代の過客であった頃、まあ、平たくいうと、九州に旅をするのだ!と思い立って、男4人でひと月弱くらいの西征に、トヨタ・ハイエースで出かけたのであるが、その途上、日も南中しかけた岡山の国道沿いでそれは起こるべくして起こった。
岡山といえば、桃太郎以来の歴史をもって、はっきりと「桃」なのであるが、よく国道沿いでスイカや桃を売っている人たちというのがいるでしょ、そのありがちな段ボール蛍光ペンの手作り看板に惹き寄せられて、左ウィンカー点灯させるももどかしく路側帯に駐停車した私が、さあ、桃やで!と弾む心で後ろに搭乗中の友人どもを振り返ると、そこにはただ、「怠惰」という言葉を絵画にしたような、19世紀初頭の抽象画のような世界が広がって、つまり大口を開けて眠りこける二匹の動物が横たわっていたのであるよ。
そしてかえす刀で助手席を見ると、まあつまり私が運転してたのであるが、そこにはTF君というイガグリ坊主が、あきらかに高揚したスマイリーな表情でダッシュボードに転げた財布をチラリと見やるのである。
その財布は午前中ずっと運転していた、今は後ろでアホのように泥眠るKQ君が置きっぱなしにしていた黒っぽい汚い財布であって、それが汚いという事実は何の言い訳にもならないのであるが、その財布と、TF君の黒い瞳と、私の白濁した瞳との間で0コンマ03秒の素早いトライアングルネットワークでのコミュニケーションが交わされた後のことはもう言うまでもなく、次に車が発進したときには二人の手に大きくて甘い桃が握られていたのである。
そしてその後のことは想像にお任せするのであるが、車内に漂う隠しだてしようのない芳醇な香りと、私の口内に残る違和感というのがそこに繰り広げられた全てを語っていたのである。
これを歴史上俗にKQの呪いという。
このことがあって以来、私は果物を食べられなくなってしまったのである。
このKQ君というのは人間生態学的に非常に興味深い対象であって、いろいろ言いたいこともあるのだが、まあここで何を言ってもその桃の一件の責任転嫁、言い訳のようになるので一切言明しないが、しかしこのKQ君というのはほぼ怒りというものを持たない種族に属しており、この時も明確なおとがめの意思表示はなくて我が心根を増長させたのであった。
よく知らないヒトが見たら宗教のヒト?と勘違いするのでは、というくらいある意味できた人間であるのだが、ときたまそれをカサにきてやりたい放題する人間というのが現れるのは仕方ないといえば致し方ない。

例えば「寝耳に水」という言葉がある。
この生活空間的ことわざも、実際にはしたりされたり見ることはないという、つまり、いつかはどこかであのひとと・・というような好奇心と向上心をくすぐる日本叙情文学的4文字である。
そこに、ある日、「できた人間KQ」という二足歩行動物がすこやかに横たわり眠っていたとする。
その2つの事実ABを足してコングロマリットに割ったとき、やはりこの時もTF君の瞳はきらきらと輝いていたのであるが、「やかんでその耳に水を注ぐ」というような行為が偶発したとしてもそれはそれで責められることではないのではないか?それが人間のサガ、人間を進歩させてきた生物学的マックスファクターではないか!?というのは客観的に見て言い訳に聞こえるのであろうか。
しかしこの時は、あれほど温厚なはずのKQ君が、創世以来の驚愕の表情の後に苦悶、続いてすさまじく不機嫌な表情へと三変化し、口も利いてくれなかったところを見ると、やはり寝耳に水とは、人間という動物にとって最高に衝撃的な災害なのである、ということが身をもって理解されたのである。

まあ、なんか悪いことやってその罰があたる、というシステム自体は、それを受け入れる大人の余裕があるから別段かまわない。
しかし果物にだけは手を出してほしくなかった。
もともと果物を好きでない人間であればこれほどの渇望を感じないのであろうが、私は群馬の山育ち、海のものより山のもので育った人間なのである。
本当においしい果物を食べて育った山国の人間である。
それを、ヒトが指をじっとくわえる横でおいしそうに食べる妻子供の憎たらしさといったらないですぜ。
魚を食えない漁師や、健康診断前でビールを飲めない宴会、あるいは、合コンにいったら彼女の友達がいた、というくらいのみじめさとくやしさとひもじさがそこにある。
大好きなことができない恐ろしさというのはその状況になってみて初めてわかる、病気になって初めて健康の有り難さがわかる、なんていう教科書じみた役人の唱えそうなお題目そのままに、わが心に迫ってくるものがあるのである。

「呪い」といえば普通京都は貴船の丑の刻参りなんかが普通一般的に思い起こされるのであろうが、私の個人的思い出としては、呪い、というよりは、神罰、という意味で、三千院の横、正確には北西に位置する勝林院が鮮やかに思い出される。
これまた昔の話で恐縮であるが、もう10年も前になるか、夜中にその辺の神社仏閣に潜入してくつろぐ、という内省的あそびがブレイクしたことがあって、今では焼失した寂光院、紅葉で有名な曼殊院なんかに、カンヌキはずして、あるいは横ちょの竹林を潜り抜けたりして勝手に入っていっては縁側や賽銭箱の上で昼寝(正確には夜寝だけど)をするという、ある意味アウトローを気取った、今思えば無意味な綱渡り的行為をしていたのである。
しかしあの寂光院焼失は、テレサ・テンが亡くなったときくらいの衝撃があったが、気の毒だけど、やはり警備が甘過ぎた。
素人でも難なく潜入できるし、お堂の中でお経を唱えているヒトがいるわりには私たちがまわりで騒いでも出てこないし、当時から、悪意ある人間に狙われたらどうしようもない感じであった。
まあ、それはともかく、毎晩のように社寺に繰り出してはその内領を踏み荒らして、そしてある晩、調子に乗って三千院の右下、勝林院で男女4人組が賽銭箱にのって星を眺めたりしていたとき、ふっと近くで物音がして、一人が逃げ出すと、のこりも逃げ出す、という孫子の兵法のような雪崩をうった逃走劇がひとしきり、その騒動の中、石燈篭を倒してその下敷きになり、ころびまろびつウチに帰った私は全身血みどろだった、ということがあって、それ以来、神仏への尊崇というものを多少なりとも持つようになったというのは殊勝な心がけである。
この場をお借りして、過去の不信心ご迷惑をお詫び申し上げる。
もうしませんもうしませんもうしませんもうしません。
小学生時代の放課後を思い出したわ。
呪わしくも稚きこの身かな。





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