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第21回
菜食 2003.9.23
立ち呑みの串屋の
食べ放題のキャベツ
うどん屋Kの
突き出しに出てくる味のないキャベツ
あれをいちびり食べるとき
妙に情けない
根拠のない挫折感が
私の心を牛にする
卑屈な草食動物の逆襲なり
ベジタリアンという人たちというのがいて、字づらのごとく野菜だけ食べて暮らしている人たちのことで、まあそれはそれでこの際どうでもよくて、どこの誰が何を食って暮らしていようが誰も文句のいえる事柄ではない。
しかしその基本的精神構造というのを想像してみたとき、失礼ながら、結構アホなんだろうな、という予感が我が心に浮かぶ。
動物は食べられないけど、野菜は食べられる、という判断基準がいまいち、日本人の心として理解不能である。
ウシは食べられるけどクジラは食べられない、という話にもよく似て、あまりに自己都合、あまりに自己愛の強い人々の主張は時として客観的に見た場合、稚拙に過ぎるキライがある。
クジラを食べるなんて信じらんない、クジラは人間に一番近い知能を持つ動物なのよ、なんて主張を聞いていると、小学生の時の下校前のホームルームの、「鷲尾くんが浦沢さんに馬鹿って言いました、謝ってください、ごめんなさい」というような非生産的な論理構造を思い出してげんなりするが、実際、クジラを愛護する人間て、たぶんその愛護する自分に酔っているだけで、この世に人が一人もいなくなれば、平気でクジラを殺して食べているような、私的思想拡声頒布器のような、近所のオバハンと大差ない精神構造が目に見える気がする。
だいたい牛にだって高い知能、親子の情があるし、雀や烏なんてつがいが死ぬまでずっと一緒に暮らすというし、人間なんかよりよっぽどヒューマニックな動物である。
さらにいえば植物にだって何かしらの情念というものがある、そこまでいかなくとも生きている一つの生物であるというのは紛れもない事実である。
自分の都合で食べ物、食対象に人格や霊性を付加するのは勝手だけれど、そこに誰をも納得させる普遍性があるかといえば、まったくゼロに等しくて、しかしてそれを他人に押しつけることを不思議に思わない人種がこの世に何人もいるということに、私は絶望に近い慨嘆をもよおす。
こういう人間は自分の価値観が絶対であるから、そのうち自分の子供を食べてみたり、恋人を冷蔵庫に保存したりして、その行動の普遍性を他人に強要し出したりするのも時間の問題である。
そういう意味で、ベジタリアンの場合、動物の命を奪って自らの栄養素にするのと、植物の命を奪って自らの栄養にするのと、どこにその差があるのか、その辺りの心の機微というものを一度うかがってみたいもんだと思っているのであるが、実際問題として、そのベジタリアンな暮らしをしている人たちの食事風景というのは、たぶん殺伐としているのであろうなと思われる。
思うに、ベジタリアン、あるいは偏食する人、という人種のうちに食べ物に対する感謝やありがたみの心、というのは希薄なのではないかと思われる。
動物はかわいそうでとても食べられませんわ・・でも植物だったら安心して、罪悪感を持たず、おいしくいただけますわ・・ということは植物なんかたかが草じゃんという卑視する意識がそこにあるのが見届けられる。
たぶんこれは日本人の原風景として共通する精神構造だと思われるのであるが、諸々の事象に対する、有ることが難しい=有り難い、という感情、つまり感謝の心、というのは幼児期から養われていて、特に食べ物を摂取するときにわきおこる感情というものは、涙さえ浮かぶような、その食対象収穫に対する、作成者に対する感謝の気持ちに満ち満ちていて、他のイノチの犠牲によって生きさせてもらっている、という心の動きというのはそれが植物であろうが、動物であろうがほぼ変わりはなく、その精神的発露としての何でもおいしくいただきます、というポジティブな心持ちと、ベジタリアンというネガティブな精神構造とは相容れない気がするのである。
つまり、食べ物に対する感謝の気持ちが有れば、そんな自分の一方的罪悪感や、自己都合に満ちた動物愛なんてちっぽけな主観にそれだけの敬意は払えないと思うのである。
逆にそれだけの、他者に対する遠慮、申し訳ないという罪の意識、それに対する心構えが有るならば、その人は何も食べずに、人間としての生を早く生き絶えるべきだと思うのである。
動物だけといわず、植物も水も体内に取り入れないで、潔く自決の道をたどるべきであると思うのであるがどうなのであろうか。
そういえばイタリアではボナペティ、中国ではマンマンチーという、これまた当然の日本で言うところのいただきます的な食事の挨拶というものがあるけれど、アメリカでいただきますというのはどういうのか、調べてみたけれどよく分からない。ごちそうさまというのも多分無い感じである。
モルモン教徒的には食前のお祈りをしているのかな。
しかしアメリカ映画なんか見ていても、食べ物をホント粗末にするし、ピザとポップコーンばっかり食っていて自分で料理する気配もないし、まあ食べ物に対する心持ちなんてのを期待するほうが愚かであるのだが、ここから導き出される予感として何となく、アメリカナイズドされた人間には、「食べ物なんつーもんは自分の力によって獲得した獲物で、それをどうしようが誰にどうこういわれる筋合いはない」という意識の気配が濃厚で、つまり食べ物に対する感謝の気持ちがないから、そのうち何かの拍子で欝時期、バイオリズム低下状態に陥ったときに、不安になってベジタリアンへの道を歩み出すというプロセスができあがっているのではないかという気がする。
つまりアメリカンな思考というのはベジタリアンを生みやすい気候風土になっているのではないか、というのが私の大胆な想像である。
マイケル・ジャクソンという人がいて、その人の心理状況、コンプレックスの度合いなど、なかなかに興味を引く対象なのだけれど、あの人もベジタリアンとして有名な人である。チンパンジーと暮らしてみたり、子供を窓の外にぶら下げてみたり、言ってみれば自己都合と自己愛の権化のような性格なのであるが、まあ大なり少なり人間なんてそんなもんだからこの際どうでもいい。
そして話は、今までの話は何だったんだという驚愕に満ちた展開をするのであるが、ジョージ・マイケルという歌手?がいる。
ワム!とカタカナで書くとこれまた釣りの餌のような得体の知れないアーティスト名で、ラスト・クリスマスとか80年代にワールドワイドなヒットを飛ばしていた2人組の片割れである。
この人のこと、ずーっと不思議だなあと思っていたのであるが、どちらが名前なのであるか。
ジョージもマイケルも、浅はかな知識で恐る恐る考えてみると、どちらも姓名でいうところの「名」ではないのけ。
例えば、マイケル・ジャクソンはマイケルが名前でジャクソンが姓という日本人の中学生的な判断でそう判断がつく。
しかし、まずジョージ、は名前だよな。
ジョージ・ブッシュという、口に出して言うとなかなかに味わいのある姓名の人もいるように、まあジョージは名前ということがあからさまに理解される。
悪魔としての中世イウロペのドラゴンを退治する聖者の名前が確かこんな名前だったといううろ覚えがある。
マイケルも名前だわな。
聖ミカエルにその名の源流を持つであろうマイケルは由緒正しい、日本語でいうなら猿田彦君という感じの名前であろう。
そして、その二つを合わせたジョージ・マイケルっていったい何者なのだ、という疑問が我が純真な心に浮かんだとしても不思議はない。
日系隠れキリシタン三世の城島イケル?という推論もあるがこれはどうも可能性が低い。
ということは、この名前を冷静に分析的に考えてみたとき、名前を二つ並べているという事実から、日本でいうところの太郎坊次郎坊?染めの助染め太郎?いくよくるよ?という疑問が沸き起こるのであるが、しかしそこはジョージ・マイケル、滑稽なおかしみなどはつゆほども見せずに、本人はいたって冷静に、深刻に眉を顰つつ、メローなラブ・バラードをがなっているのだから世の中不思議なものである。
ベジタリアンとジョージ・マイケル。
どうにも収拾のつかない文字通りの散文になってしまったが、強いてまとめようとするならば、どちらも名前を聞いても第一印象はそれほどおかしくないけど、突き詰めて考えるとなんだかおかしい(アホっぽい)んでないかい?という結びはちょっと無理があるかなあ。
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