海洋空間壊死家族2



第20回

齷齪   2003.9.14



ピンホールカメラの原理で
月の光の向こうの世界を思えば
さかしまにうごめく正義の私が
ヒトリガの幼虫を脚ですりつぶす

こちとらひねもすよもすがら
詐欺と欺瞞に満ち満ちた
平身低頭のワルダクミ

霧の霞の月の夜
いちにちひとつ消えていく
塵綿の星を眺めては
歯ぎしり歯の端われ欠けて
ひとり腕折り扼ぐ



突然だけど、何事にもサマになる人間と、サマにならない人間というのがいる。
それはその人間の外見の優劣や身長の高低という身体的特徴よりも、もっと深いところからにじみ出てくる態度や立居振舞、身のこなしによるところが大きく、従って本人がどう考えようがどう行動しようがそれはほぼ影響はなく、行動主体の主観を廃したまわりの判断によってサマになる、ならないが区別されている。
そして、そのサマにならない人間を見たときヒトはそれをブザマと呼ぶ、ということは広く知られた事実である。
ほんで、そういう判断基準やら何やらはともかく、その辺を歩いていていつもブザマだなあと思うのが、ガムを噛んでいる人間。
ガムを噛んじゃあいけないとは言わないが、あれは電車の中や公道で無目的に行なう行為ではなく、トイレのような密室個室や、夜中にどん詰まりの和室なんかでしめやかに秘めやかに執り行なわれる行為の一つである。
それをヒト様の前で堂々とくちゃらくちゃらと音をさせて口を動かしている人間を見ると、マナーというよりも、「しつけ」という飼育学的言葉が浮かんできて、その人の全人生がまるでアホのように見えてくる。
ガムを噛むという行動って、先入観なしに見たらほんと純粋に不細工だと思うのは私だけなのであろうか。
人間の行なう営為作業の中で、例えば、オナラするのやウンコするなんてのは、文化習慣的には恥ずかしいけれど、実際の行動としてはそれほど醜い、ということはなく、逆に私などは、ウンコする人間の顔やスタイル、というのをはたから見ていると(いやそんなに見てるわけじゃないけど)、なんだか憧憬というのか淘然というのか、そういう美術館スタイルの哲学的感動が小さな胸に去来したりする。
一方で、鼻をほじるのやケツの穴ぽりぽり掻くという行為は、その行動の含意や、漫然たる怠惰な心の動きなども含めて実に不細工だと思うのだけれど、ガムを噛むという一連の行動は、それらを凌駕する醜悪さを放っていると思うのである。
特に厚化粧の熟年タイプのオバちゃんなんかが、口を半開き気味にガムをかんでいる図というのは、正視に耐えない、都会の秘境シリーズのような趣があって、見ているこっちがあやまりたいようなすまない気分になってくる。
しかし、中には見ていて、ガムを噛んでいても苦にならない、サマになる人種というのもたまにいて、それは確実に外国人、特にアメリカ人というのが典型である。
これはどうしてかとその理由を考えてみると、少し失礼だけど、牛や羊というのはほぼ常時反芻と言われる行為を行なっていて、ひっきりなしに口を上下左右にくちゃらくちゃらと動かしているけれど、それを見るのに近い既視感が彼らを見ると我が心にわきおこる。
つまり、我が思想、生態体系と相容れない人種がそのような行為をしたとしても、それはそういう文化、慣習、生きていく上での生理的必須運動なのであろうなあという瞬間的な判断があって気にならない、というのが分析的解答である。
まあ日本人はそのような家畜的行為を公衆の面前でやってはいけません、というのが日本政府の公式見解であろうと思われる。
しかしいい機会なのでさらにいうと、欧米人に似合って日本人に徹底的に似合わないのがサングラスである。
いや、厳密にいうと、日本人の中でもサングラスが似合うヒト、似合わないヒト、というのが明確に分かれていて、悲しいかな、似合うヒトというのはほんの一握りの少数部族に限られている。
この運命の分かれ目は、私の経験測からいうと、鼻の稜線から額への掛け橋、簡単にいうと、目と目の間の空間というものが果たして隆起しているかどうか、という一点につきると思うのである。
うちの奥さんや、マダガスカル島にすむアイアイなんかの顔を見ていると、その空間というのはほぼ右から左へ偏平につながっており、極端な話、右目で左目の様子が見えるのではないか、という興味津々な感嘆が沸くほどマッタイラになっている。
そして、たとえば眼鏡をかけると、3秒もしないうちにずり落ちてしまい、古本屋のオヤジや、やくざのオッサンの様に眼鏡のウエっ側に開いた空間からチラリと窺い見るような卑屈なイメージになってしまっているということがママある。
そのような平野的な顔をした人間がサングラスをかけると、一言でいってあまりに情けない、滑稽といっても過言でない醜態を周囲にさらけだす事態となる。
これを形容するたとえがなかなか思いつかないが、アブラゼミを裏側から(脚のついてる側)見たときの印象によく似ている。
しかも、なぜかそのサングラスをかけた人間の80%程度はそのサングラスをかけた自分というものに酔っているような、別人になって気が大きくなったような勘違いをしているから、その仕草振るまいというものはさらにおかしみの度合いを増して、動物園の客寄せパンダのような、キュリアスジョージのような好奇の目を集める対象になっているという結果に陥っていることが多い。
特にそのアブラゼミタイプのサングラスは、サングラスにかけられてしまっている雰囲気が濃厚で、それを自分でも知ってか知らずか、挙動が決定的に怪しく、ブザマの粋を極めている。
ああいうのを観察していると、人間て業腹な生き物だなあと思うけど、それとは別に、もっと客観的に、人間としてブザマな顔というのが厳然と存在する。
これは不細工という判断基準を通り越した、もっと人間的醜さを表わす形容の一種なのであるが、例えば、選挙告示ポスター掲示板なんてのが、よく駅前に特設されたりするけれど、その見事なまでにブザマな生首のウスラ笑いの連続的モンタージュを見ていると、心理的吐き気がこみあげてくる。
ここまで人間の顔を卑しくさせる何かがこの世に存在するのであろうか・・というくらい卑しい、高脂血の顔面羅列は、この世のものとも思えない嫌悪を、我が心根にがたぴしと呼び覚ます。
そういう似たような感覚がどこかにあったな、といま考えて、はっとしたのは中学生の時の卒業アルバムである。
例えば小学生の卒業アルバムはかわいらしくて楽しく見ていられるし、逆に高校生の時のは、なんか吹っ切れた、糸の切れた凧のような雰囲気の写真でなかなか味のある顔をみんなしているのだが、その中間に位置する中学生の卒業アルバムというのは、どこの中学のを見ても、ほとんど病的なおぞましさに満ちていて正視に耐えない気がするのは私だけなのであろうか。
女の子はそうでもないのだが、中学生男子の、あの自己都合に満ちた、自意識過剰な、自己主張の激しい蛇のような、それでいてなりふりかまわず媚を売っている狡猾で打算的な顔を眺めていると、冗談ではなしに死にたくなってくる。
いつか来た道ともいえるあのゾゾ気走る寂寥感というのはわかる人にはわかってもらえると思う。
逆にいうと、その感覚が分からない人、というのは、今でもその中学生の気分の抜け切らない、自分一辺倒の世界に住んでいる人間なのであろうと推察される。
そして実際に、そういう自分の周囲3メートル以外に世界のない狭い了見の人間というのを見ると、特に、いい年をしてそのような気配のある人を見ると、そこにまず座らせて火のついた煙草を食べさせたくなる。

なんだか収拾の着かない感じになってしまったけれど、このように思いつくままにサマにならないというのをかきつらねても、一つの類型的文化のカオリがそこに介在することに気づく。
それは圧倒的に自分に酔いしれて、圧倒的に世界をバカにして、圧倒的に他人には威圧的である、という圧倒的にイタイ特徴である。
しかもそのイタイ人間というのは、まれに姿を現す玉虫やオオクワガタというよりは、ゴミムシ、ゴキブリのようにいつでもどこでも頻繁にその姿を現実社会に表わすけったいで迷惑な生き物なのである。
サングラスをかけて、ガムをくちゃくちゃかんでいる中学生、ここまであからさまな「ブザマ」はなかなかお目にかかれないけれど、具体的にはそれをしていなくても、そういう自己弁護自己陶酔型文化の人間というのが、電車なんかに乗ると、乗客のうち確実に2割くらいは存在する。
雨の日に乗り込んできて、さしてきた傘を自分が濡れないようにヒトの前に立てる奴とか、脚を組んで座り、泥だらけの汚いクツを周りのヒトの服や体に当てても気にならない奴とか、ほんと自分がAC公共広告機構の宣伝に出演しているかのような錯覚を覚えるほど、たくさんのイラツク場面というのに遭遇する。
中野浩一の声が裏返るのも仕方ないといえば仕方ないのである。
そういうブザマタイプ人間の顔をじっくりと観察すると、サングラス、ガムをくちゃくちゃ中学生という類型の顔、簡単にいうと、無意味に威圧的で、かつ世の中をバカにしくさった幼稚顔であることが多い。
そしてそいつらの特徴として、自分の傷つかない、閉鎖的、類友の群れの中から外の世界をバカにし、弱そうな個人を攻撃している、という事実が根本にあるのがあまりにくだらないといえばくだらない。
このあいだ、これまた電車の中の話だけど、中学生3、4人組が座っていて、その斜め向かいに座っていたヒトのことをひそひそと、しかしあからさまに聞こえるように中傷している場面に出くわしてしまって朝からワタシぐったりしたのであるが、そういうクソバカの手前味噌な群れ的閉鎖感覚というのが、最近一番ハラワタにもたれる。
世の中や人間というものは、大まかにおおらかにバカにする、特に自分も含めてバカにする、というのが醍醐味であって、本当の最低レベルのバカがそれよりは若干高いレベルの社会を理解できずなじめずにバカにするという行為は、見ていてホント情けない、哀れみを誘う心象風景である。
そしてその感傷というのはまさに中学生時代の自分を見ているようで吐き気がする。

つきつめて考えれば、「ブザマ」というのは内面指向の極致であるような気がする。
もっというと、極端な内向き姿勢からの発露たる威圧的態度を、客観的に見たときの呼称である、ともいえる。
そしてブザマに生きるよりは死んだほうが良いと考えるのが正しい日本人的サムライの生き方である。
つまり、ブザマの対義語は有様ではなく誇りであろう。
なにがしかの誇りを持って生きている人間というのは美しい。
逆に、誇り、矜持を持たない人間ほど貧しくブザマなものはない。
この場合の誇り、というのはそんな立派なものではない、このラインを超えたら人間として生きる資格がない、というくらいの自らの線引きのことである。
例えば、私は自分が空缶をその辺に捨てるような行為をした場合、あるいは自分の子供が食べ物を捨てるような行為をした場合、迷わずそこで死ぬべきだと考えている。
自動車の窓から煙草の灰をわざわざ外に向かって落としている人間も死ぬべきだと考えている。
ちんちん出してオモテを歩いても恥とは思わないが、そのような想像力欠落行為は大いなる恥である。
恥を知れ、誇りを忘れたブザマなる群れ的日本人どもよ。
一ぺん死にたまえ、中学生的日本人の群れよ。





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