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第19回
童子 2003.9.6
此岸と彼岸とをつなぐ
境界の橋のたもとより
童子あらわる!
比叡の日吉の山隘より
昏溪の土石にのって
童子あらわる!
すなわち黙して語らず
座して灯とりて
蟷螂捕らえて一握り
莞爾として暗闇に駆けめぐる
素っ裸の童子あらわる!
うちの子が幼稚園に行くのをはたから見ていて、まず、ハテ、と思って次にオヤオヤ、と思って、さらにウーンと考えてしまったのであるが、幼稚園ていったい何するところなんじゃろ。
私は小さいとき保育園に行っていたので、幼稚園というものの実体を知らぬままに大きくなってしまったのであるが、いま私が見聞きする幼稚園というのは、ワガすみれ保育園とはまったく似て非なるもの、コンセプトからテーマから、その親どもの施設接触状況まで全然違うのである。
だいたい、保育園と幼稚園が別ものである、ということに気がついたのが最近のことで、それまで規模の大小やら、運営主体やらの違いがその分水嶺である、つまり「大差ない」と思っていたのである。
しかし、うちの奥さんの必死のレクチャーによって、どうやら子供を預かる時間、事情によってそれは分け隔てられており、幼稚園というのは、教育熱心な良妻賢母のとこの子が通い、保育園というのは、預けておければそれでいい、という、比較的ネガティブな思想のもと、時間や金銭の貧困なうちの子が通うところというニュアンスもそこには繰り広げられているということも独断的には理解された。
たしかに私が行っていた保育園には鼻をたらした昆虫生活的、農村社会的子供達が集っていたような微かな記憶も今思えばある。
まあ、今じゃ社会的にいろいろあってヒトくくりにはできないんだろうけど、しかし、話のスタート地点で、私の中に多少のコンプレックスが生じているというのは正直な話である。
そんで何が言いたいかというと、人間て、この日本で育った人間内において、あくまで幼稚園的な人間と、保育園的人間がいるのではないか、という問題提議である。
そもそも、幼稚園に行くワガ娘をここ数ヶ月見ていて、思ったのは、本当にそんなに行事が目白押しなのか・・という疑問である。
月別、日にち別に行事の概略が記された予定表があって、そこには子供とは思えない、ややもすると、私の仕事上の業務予定表よりも濃密な、殺人的なスケジュール管理がなされているような気配がある。
例えば、ある一日の予定を見たとき、午前中の2時間の間に、まず園児全体会合でおたんじょう会を行ない、さらにその後5クラスがプールに入る、というふうに組まれている。
お誕生会というのは私の子供の頃にもあって何となく想像つくけど、その月に生まれた人の手形やら何やらをプレゼントして例のハッピバスデーツーユーの30分コース、というのが一つの業界の目安になっている。
であるからして、残りの一時間半を有意義に使う緻密で綿密な計画性が必要とされているのは明白なのである。
しかし、そのプールというのは、円の庭の片隅に常設してある、20人も入ればいっぱいになってしまうような広さと容積を併せ持つ、コカコーラ製造プールのような趣のものであるから、1
クラス30人くらい、というのを重ねて考えてみると、実際一人の幼稚園児が入っている時間というのは、]=90/5/30atとして、園児入換え・着替え時間を1/a、一度にプールに入れる人数をtとすると、どう調整してもわづか5分程度のものなのではないか、という疑問が沸いてくる。
そんで、翻って考えてみたとき、ワガすみれ保育園ではどうだったかと思い起こしてみると、夏になるとどこからか出前式の硬化プラスチックのプールが運ばれてきて、園の庭の中央に鎮座おはしまして、園児達はほかにやることもなくなるため、ほぼ半日はプールに入りっぱなしで、大平さやかという5月生まれの太り気味の女の子がそのほぼ半日、水はイヤだけどみんなと遊びたいという、極めて哲学的な悩みでピーピー泣いていた、というような記憶にハタとぶつかるわけである。
さらにもっといろいろ考えてみると、弁当の時間というのと、昼寝の時間というのがあったほかは、ほとんど自由時間で、めいめいがやりたいことを別々にやっていた、というような、うちの子がこなしているタイムマネジメントとは正反対の、子供の時間がゆるやかにそこに流れていた、という記憶も浮かび上がってくる。
そして、うちの娘の哀れなる状況を奥さんに、こんなんでいいのかね、と困惑気味にとつとつとしゃべってみると、あらまあ、じつはどうやら、うちの奥さんはそのタイムリミット被追及型時間管理の申し子のような幼稚園生活を送っていたようなのである。
例えば、それを聞いてびっくりしてしまったのだけんど、野外演習として外に連れ出されて、昆虫を3匹捕まえないと、家に帰れない、という非人道的かつ、官僚的な規制のもと、しかしまあ子供じゃから、楽しくみんなで虫を取っ捕まえて、喜びいさんで蜘蛛や、ダンゴ虫を提出すると、これは昆虫じゃない、と一喝されて、日が暮れるまでバッタを追いかけていた、というような昔話があるらしいのである。
その他にも、広いプールにつれていかれて、親連中が作った手の輪のループの中を泳ぎ切るまで水泳反復練習させられたり、あるいは本を3冊読み切らないと外で遊んじゃダメだったり、まさに管理社会、官僚的無意味縛り規制社会に育ってきたようなのである。
そしてその結果かどうか、個人的な見解でいうと、うちの奥さんて、応用力なくて、パニックに弱い、という自己判断・決定能力のない性格で、決められたモノ、コト、ルール、レール、世間の常識に捕われた考え方をする、というあまりに日本郵便貯金的な非主体的思考方法をする人種である。
そしてそれは過分に、幼児期のその管理されて、他律的な行動様式が影響しているのではないかと思うのは自然な論理である。
ただ、保育園児童代表の私が現在、自律的に行動して、考えた通りの人生を送っているかというと、少し疑問が残るが、しかし、幼稚園児的な考え方というものと相容れない、保育園的感覚というか、ある種の違和感がほかの人を見ていると際立つ気がする。
結論から言ってしまうと、幼稚園児的な幼児生活を送ったものは、一生幼稚園児的なものの考え方、行動をとるようになってしまうような気がするということである。
逆に、比較的、「てめえら勝手にやっとけよ」という大胆な権限委譲型社会である保育園における大人の放任こそが、自力本願的な知恵を生んでいくのではないか。
思えば子供の頃、親、大人、という存在は同じフィールド上には存在せず、ツチグモやダンゴ虫、ハサミムシなんぞが友達で、それを追いかけて脇目も振らず遊んでいた、地面すれすれの暮らしというのは、今思うと幸せの極致だった気がする。
そこでの感覚として、いまでは大人の汚さやずるさを知ってしまったので、なんとも言えないが、ある種、大人の世界というのは、子供世界とはまったく別の、彼岸にある神の領域、思考行動上の調整弁のような役割を担っていたといえる。
つまり、大人の世界というのは自分たちの領域と、あるときは敵対し、あるときは暖かく見守る、うかがい知れない畏怖の対象領域であった気がするのである。
反対に現在の、うちの娘の幼稚園の姿勢というのをみてみると、子供も大人もまったく同じ土俵の上で、「一緒にがんばって行きましょう、成長していきましょう」という相互不可分なピッタリベッタリ家族の思想で突き進んでいるのである。
そこでは、子供と子供同士という関係は希薄で、親子、家族を一つの単位とした関り合い、という集団結合の場であるから、子供達の自主的、というより自分勝手な、子供だけの社会というのが見えてこない。
そして、これまたありがちな、親同士のエゴや見栄、というのが大きな顔をしてのさばっているから、子供としては大人の幼稚さやコズルサが小さいときからあけすけに見えすぎて、それを畏怖したり尊敬することができず、自然や人間や社会をコバカにした、タガの外れたしつけの悪い子供の異常繁殖のもととなっていく。
現実問題、うちの子を見たとき、天を仰いでしまうような気分があって、つまり、あまりに大人社会に依存して、あまりに親のしつけや感情の介入の激しい現在の状況は、子供の精神衛生上ワルイ以外の何者でもない。
だからといってまわりに子供を受け入れる自然や友達状況、道路交通状況というものが用意されているかというと、それはあまりに心許なく、幼稚園の言うなりになって父親参観なんぞという行事に参加している自分が情けない、という羽目になっていく。
そして、私の知らないところでそのような幼稚園状況が続いてきた、という痕跡は確かにそこかしこに現れつつある。
例えばパラサイトシングル、という言葉も言い古されてきたが、これも図体だけ大きくなった子供と年老いた親がいまだに共同で成長しようと切磋琢磨している、継続的幼稚園の図なのだと思えば納得できる。
やはりというかやっぱりというか、幼稚園的思考法では、20年以上かけてもこれらの親と子供は一緒に成長できなかった、という証左である。
また一方でディンクスなる、子供を作らないと決めた共働き夫婦の話があるけれど、これも突き詰めれば、幼児期に幼稚園児的な親子一心同体の人生を送ったため、そこでの親や社会に対する、あきらめというのか人間に対する絶望にも似た負の感情というものを引き摺って大きくなったために、子供という第二の自分を作るのが、恐ろしくて、かつウットオシイという、ネガティブな意味での幼稚園被害者の会グループではないか。
こう考えてくると、これは幼稚園か保育園かというよりは、その園の基本方針というか、運営主体、方法でだいぶ変わってくるんじゃろな。
官営の幼稚園(うちの娘が通うような)というのは比較的管理型だろうし、私営でもお受験のあるような高級幼稚園(うちの奥さん通ってたような)なんかは、集団高等?教育的、寺や宗教団体(うちの妹通った)なら集団催眠的(いや想像ですけど)、私の通っていたすみれ保育園は高橋さんという道楽でやってる人の園だったから、そのまま道楽的なずさんな管理だったのだろう。
それでこのような道楽よっぱらい男ができあがったと。
そして横に犬のように座っている奥さんを見ると、さすがは幼時高等教育・・。
うーん、まあ、どうでもいい話だな。
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