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第18回
メメントモリ 2003.8.30
髑婁抱きて
死を想えども
彼岸の死は
行けども行けども
アールグレイの構造物にて
髑婁より生えし
頭髪のかすれたる臭いが
わが鼻腔咽喉の街道を
棘皮まろび落ちたる
ここちぞして
いとわろし
このあいだ街を歩いていて、「ソフトクリーム巻き放題!」という呼び込みを聞いて、我が耳を疑い、つづいてその人の顔をまじまじと見てしまったけれど、いったいソフトクリーム巻き放題ってどれだけ「巻き放題」できて、そしてそれをどれだけ喜ぶことができるのであろうか?と少しあたふたとした疑問を抱いてしまった。
まずソフトクリームってどんなに丁寧に大きく巻いたとしても10回も巻けないのではないだろうか。
しかも10回巻いたからといってそこに果たして「10回巻いた」という達成感や稀少価値にあふれた喜びと幸せというのが存在するのかというと、どうにもその可能性は薄い気がする。
そこでまた、「巻き放題」というのは、気がすむまでその辺にソフトクリームのうんこの山を盛りだくさんにするという行為なのだろうかと想像してみるものの、それはあまり人間としての快感を生み出す楽しい遊びだとは思えない。
むしろその屍の累々たる光景を想像すると、あまりに徒労的な疲労が、幼児期の砂場を背景とした既視感をともなって我々を襲い来る。
しかし、よく聞いていると、あの街頭に立って呼び込みをしている人ビトというのは実にいろいろな「〜放題」を連呼しているというのに気づく。
最近よく出張っているのはカラオケ関係のお兄ちゃんお姉ちゃんで、「歌い放題」というやつと、「ドリンク飲み放題」というやつ。
もともとカラオケボックスというのは、スナックなんかで歌うのと違ってほぼ歌いたい放題であるような気がするのだが、その辺りはあまり気にせず、嘘は言ってネーダロっという堂々とした呼び込みをしている。
ドリンク飲み放題というのも、なんだか「放題」という割には小市民的で、特にファミレスで最近よくあるドリンクバーというのは、欝が欝を呼ぶアリ地獄のような落ち込んでしまう惨めさがあって、なんだか好きになれない。
夏の暑い日の、よく冷えた麦茶ガブ飲みというのと比べたときに、その陰湿さというのは際立ってみえる。
昔からある呼び込みでいうと、「焼肉食べ放題」、「生ビールのみ放題」という多少油っこい感じの「〜放題」もいまだに街のメインストリートに勢力を持っているようである。
まあ、焼肉食べ放題、というので勇んでみても、実際に食える肉の量なんて人間ほぼ決まっているから、思うほどには放題にならない、残尿感に満ちた屈辱の結末になることは分かりきっているのであるが、それでも、あの「放題」という語感に魅せられてそんな店に入ってしまうというのはよくある話である。
あと、以前「やりたいほうだい」というおもちゃが発売されて、どれだけ「放題」なのであらうか・・とその語感にわくわくしながらおもちゃ屋に行ってみると、実際にはなんだかやりたい放題した感覚にもならない、ネ−ミングとは正反対の中途半端な玩具であった記憶がある。
「今日は彼氏が旅行でいないの・・」といわれてわくわくしてお出かけしてみると、別に期待したようなことは何もなくて・・というような憤懣やるかたないセピア色の記憶ともシンクロして、なんだか腹立たしい「放題」である。
その後「おふろでやりたいほうだい」というのが出たけど、頑としておもちゃ屋に行かなかったねおれは。
まあ何にしろ、「〜放題」というのは人の心を引きつけ浮きだたせる語感を持った言葉なのであるというのは一般的な見方なのである。
ただし、この「〜放題」という魅惑的な言葉というのにも、ある特徴によっていくつかの分かれた系統が存在して、その系統によっては天国とも地獄ともなるような大いなる意味的な開きを持つ、というのは何となくうなづける感覚であろうと思われる。
例えば、焼肉食べ放題と、生ビールのみ放題の間にはある共通した潜伏的事実がある。
それは、どちらも「〜放題」で飲み食いする対象と、そうではない「プロパーな」飲み食いする対象とは、まったく異なっているという驚愕の衝撃的事実である。
簡単に言うと、ある対象を「〜放題」にすることよって、「〜」の質が劣ってしまうのである。
焼肉食べ放題で出てくる肉はたいがい、処分前の寄せ集めの肉に味つけてごまかしてるのであることが多いし、和牛専門店のクセに「〜放題」の肉だけはなぜか某国産の固くて味気ない肉であったりする。
また、居酒屋でのみ放題のコースなんかにすると、なんだか薄くて気の遠くなるような、酸味のある、手早く言うと、日が経って安売りかつ投げ売りされている樽のビールが必ずそこに供されるという仕組みになっているのである。
あのうすうすビールを最初の一杯目から飲まされた日にゃあんた、コチトラ酔いどれる前からクダまいて、逆恨み斜視乱射気味に店員をにらみつけたりしてしまう訳であるよ。
落語家がヨーデル風の「食べホーダイ飲みホーダイヨルレイヒー」という歌を歌うのがあったと思うけど、実体としてはあんなに朗らかで希望に満ちた青い山脈気味の晴天ではなくて、このように淫靡で邪悪な意志にまみれた欺瞞的仕打ちがなされているのである。
そういう意味ではケーキバイキングや海鮮バイキング、朝食バイキングなんてのも、したたかに海賊の豪快さをその語感に紛れ込ませたりしてあやふやにしているが、その実体は、悪の「放題」の一味なわけである。
一方で、そういう手垢にまみれた「〜放題」とは一線を画した、心踊る、原初の「〜放題」の特質を残した放題も中には存在する。
鉄道一日乗り放題というのがある。
青春十八切符という、口にするも恥ずかしい一日乗り放題JR乗車券があって、昔それを使っては遠い国へ遠い国へと向かっていた、というような純演歌的な日々が個人的にはあったけど、あの遠くへ行き放題という感覚は、今ではマボロシの懐古情緒的な感覚である。
しかし地下鉄や市バスで乗り放題、といわれてもそこまでの心の昂ぶりは感じられないのは、あれはある地域でぐるぐる回っているという地域循環型の、夢も希望もロマンもない運行体系であるからだね。
遊園地一日乗り放題というのもある。
結構子供の時はわくわくした響きの放題ではあるが、現在ではそううれしくもない。
それはなぜかというと、あまりに肉体的な、老衰にも似た理由で恐縮なのであるが、大人になってみると、あの浮遊感覚が苦手というのか、回転による三半規管の障害が顕著というのか、簡単にいうと、ブランコに乗っただけで気持ち悪くなるような軟弱な脳味噌になってしまったのである。
そんな肢体で遊園地に行くと、そこには、嬌声を上げながら、カップに乗ってくるくる回っている年若いアベックや、妙につやつやとしたお馬さんに乗って同じところをくるくる回っては光惚とした表情を浮かべる少女なんてのがいて、それを傍観者として見ているだけでフラフラと気持ち悪くなってくる。
そんな中、比較的、観覧車というのはお年寄りにも理解されやすい、時代劇のようなスローかつ明快なコンセプトで、安心できる乗りものである。
観覧車って遊園地ではわりと好きなほうで、というより、小学4年生の時、豊島園の立ち乗りジェットコースターで気絶悶絶のよだれをたらしたことのある私としては、観覧車くらいしか乗るものがないといえばないのであるが、一個人として観覧車に気のすむまで乗ってみたいという切なる秘めたる思いがある。
観覧車に乗っていつも思うのは、「一周が早い」という素朴な不満と、「一周じゃ足りない」というかきむしるような渇望と、「一周の割には結構運賃高い」という費用対効果への根元的疑問、の三点セットである。
観覧車に乗ろうなんて人はたいていそこでゆっくりしたいと思って乗るのである。
若いアベックはその2人の閉鎖的密室空間がいつまでも永遠に続きますように・・と思うだろうし、年寄りは遊園地という騒がしくケタタマしい狂乱の喧噪を、しばしの間忘れたいと思っているのである。
それをどんなに長くても10分くらいで一周してしまい、下に降りてくると仏頂面したお兄ちゃんが待ちかまえていて、その穏やかなひとときの喜びを掌でそっと包んだようなしあわせの扉を、いとも簡単かつ強制的にこじ開けてしまうのである。
そして、喫茶店でコーヒー飲んで30分くつろいでも500円が相場のところ、統計的に奴ら1500円から2000円も巻き上げている、というのはどうしても許せない所行の最たるものであると言えるのである。
そんな人間のささやかな望みをもてあそび、コケにしたような風俗街的状況の中、あれを朝から晩まで、弁当と水筒持参でくるくるくるくる、日がな一日回転し続ける、というのも、なんだか文学叙情的、あるいは科学実験的おぞましさがあってなかなかに楽しそうである。
しかし、遊園地乗りもの乗り放題ってのは、観覧車除外というところは多い気がするのだ。
つまりこれは実際には存在しないけど、あったらいいなできたらいいな、という狸パンダ的願望の入り混じった「放題」であるな。
そういう意味では、もし何かひとつだけ「〜放題」してもいいのなら、ある人間を一日じーっと「見たい放題」というのを一度やらせてもらいたい、と私は思っている。
そしてそれはできるなら、妙齢の上臈にしてほしい、というのはこういう場合、少しハズカシ気味にいやらしいであろうか。
確かにそういう観点から見ていたいというのもあるけど、純粋に見た目の美しさ、すがすがしさという点できれいな女性をお願いしますといっているのである。
僕だってできるなら高脂血症のオジサンを見ているよりは白い肌の日本美人を眺めていたい、見目麗しい、こころからほっとする視覚的対象を見つめていたい、というのは健康的な考え方でしょう(ちょっとしつこいかな)。
とにかく、ある人間をじっと見つめていられる時間というのは人間にとってそうたやすく延長できるものではなく、例えば、電車の中で、ものすごく興味のわく人間に出会ったとしても、失礼かな・・とか、怒られちゃうかな・・とか考え出すと、そのシャッターチャンスの大きさ、希少価値の高さほどは見ていられないということは多々ある。
例えば、今でも、JR京都線で、謎の吹田市の歌を歌い続けていたあのオバちゃんは一体なんだったのか・・いまどうしているのだろうか・・と後悔してみても始まらない、あの時どうしてもっとちゃんと観察しなかったか・・という絶版廃盤的な悔恨と惜陰が、私の心に去来する。
そして、そういう「過ちは二度と繰り返さない」「もうしません」というホームルーム的反省と改心より何より、私、人間を観察するの本当に大好きなのである。
人間て自分も含めて、見られてないとき、そうでないときに拘らずなんだか途方もなくおかしなことをしているというのは本人が思う以上に客観的に見て間違いない。
そういうのを飽くことなく、何にも制限されることなく見ていられたらどんなに楽しいだろう・・というのは多少精神異常が入っているのであるか。
一般的欲望の外れをはみだしてしまっているのか。
一般的欲望、という点でいうと、「〜放題」の際たるものは「生き放題」であろうと思われる。
古くは秦の始皇帝が永遠の生を求めて徐福という道師を東方に派遣したり、パラケルススの錬金術や、エジプトのミイラもそれに近いコンセプトを持っている。
現代で言うと、クローン人間が生まれた!なんて宗教をはじめとして、他人の臓器を移植して、あるいは豚で培養した臓器を移植して、自らの延命を図るなんてのも、ある意味「生き放題」という途方もない企ての一種であろう。
そしてこの生き放題が成就したときそこにあるのは、果たしてどんな種類の感慨なのであらうか。
これはもう、浦島太郎や八百比丘尼の例をひもとくまでもなく、日本人的な回答としては、無常とワビサビに染まった模範回答がそこにあるのだろうが、しかし、その安易な答えを出す前によく考えれば、「生き放題」というのもなかなかに魅力的な「放題」対象ではある。
子供を持ってみてよくわかったけれど、人間てホントつきつめて自己愛の塊であるなと思うのであるよ。
子供や孫をかわいがる心理というのは完全に自己愛そのものである。
親子や恋人間での無償の愛なんてテーマがよく世間的には語られるけど、胸に手を当ててよーく考えてみると、やはりこれは自分をかわいがる心理であることに間違いも大差もない。
自己犠牲というのは究極の自己愛である。
自分が犠牲となって守り抜いたその対象が生きながらえる、という、自己犠牲時点の幸せと陶酔の一瞬というものは、自己愛以外のなにものでもない感情である。
そしてその究極の状況が、一回こっきりの限定解除、幕切れ的犠牲を払わずに保持できるであろう「生き放題」というのはまさに人類の永遠のテーマなのである。
しかし、である。
そんな人間臭い魅力にあふれた「生き放題」が、無常観や倫理観から否定されるのは我慢ならないけれど、しかし実際問題、生き放題の人間ていうのがいたら、たぶんそいつは真剣につまらない人間であろうことが予測されるのである。
例えば、私が30年間生きてきてみて、死にかけた人間、というのはどんな意味においてもおもしろい、逆にいうと、死と隣り合わせた経験もなく、安穏と暮らしてきたようなボンクラ人間て究極的につまらない人間であることが多い、というよりほぼ間違いない、というのが経験測上の結論である。
これは私の思うところであるが、たぶん死を直観できない人間というのは、物事のつきつまるところを予測できない、つまり想像力が決定的に欠落しているような気がするのである。
そういう人間と空間を同じうする30分間というのは息苦しくも耐え切れない、ゲヘナやパロマの火に炙られるような、地獄の逼迫状況である。
そういう意味でいうと「生き放題」という、観念的、視覚的楽園も、ありそでなさそな、海上の蜃気楼のようなものであると言えるのであらうか。
そう考えてみれば、焼肉やビールも、概念的出発点としては最初は正しい「放題」であったに違いないのだ。
しかしその終着点としては、その対象が魅惑的に過ぎるという横やりから、とんでもない醜悪なところへと雪崩れ込んでいってしまっているというのが正しい理解である。
生き放題も同様である。
つまり、「生き放題」というアトラクションも、玉手箱の蓋を開けるまで、人魚の肉を口にする時点までは、楽しくてしょうがないけど、蓋を開けてみれば、なんということもない、後々その質が落ちて、薄まったビールのような味気ないものになるような予感がするのである。
まあ、私としては、主体的な意味では「生き放題」という放題に興味も羨望もないから、どうでもいいっちゃどうでもいいのだけれど、今フと思ったのは、「死に放題」という言葉があったとすると「生き放題」とほぼ同義であり、すなわち生と死は、アンビバレンツに同じものことを源流としているのだ、ということに、やや錯乱気味の慨嘆を禁じえない。
死ね虫けらのように。
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