海洋空間壊死家族2



第17回

携帯電話   2003.8.14



神は死んだ
自分を操る人間に
もはや神など存在しない

腹話術師に神は存在するか
人形が惨たらしく破壊されても
腹話術師はチューイングガムを噛みながら
少し困ったような
ウスラ笑いを浮かべるだろう

万物に宿る神は死んだ
おまえはもう死んでいる



最近、「携帯電話」という文化もようやく落ち着いてきた。
一時期、よっこらしょうと電車の座席に腰掛けると、まわりの座っている人間全員が携帯をかちゃかちゃやっていた、というような異常な時代は何とはなしに過ぎたようで、いまではそんなんしてるのは、携帯を初めて買ってうれしがってる、天王寺系のカラオケオバちゃんやオジちゃんぐらいである。
その昔「たまごっち」というこれまた不思議な玩具が一時期流行ったことがあるけど、その熱中の過ぎ去り方によく似て、今ではそんなもの持っている人間は軽蔑されてしまうというところが、急流を流れくだる、あるいは、気づけば周りに仲間はいなくてその後の職員室での説教3時間半、という感覚に似て非なるものではない気がする。
つまり、携帯電話の原初的なその機能に対する信仰に近い意味での、オーギュストコントのいう「神学的」携帯時代はすでに過ぎ去って、その携帯の持つ利便性をようやく純粋に人類は利用し始めたのである。
そういうと、いかにも携帯電話というものに慣れ親しんでその中身を熟知している、通信会社の論理武装部隊のような雰囲気があるが、実は私、いまだに携帯電話を持ったことがないのである。
実家のフタ親でも、個別にひとつづつ持っているという事実からして、社会生活を営む30歳男性としていまだに携帯を持っていない、という前近代的な私的事実に関して恥ずかしい気持ちがないと言えば嘘になる。
実際持ってたら便利だろうなあという予感と予測は多分に持っているのである。
しかしいくつかの理由において、携帯電話を持つことに抵抗と乗り越える壁を持っている老年世代のような、錆ついて軋む空間を、私はひたすらに彷徨っているのである。

歴史的電話機能変遷途上において、留守番電話というのがあった、というか今でもあると思うけど、あれも考えれば私にとって敵性機能であった。
勝ち誇ったように「ピーッとなった後になんかしゃべれ」という命令を下すその機能に対して、私はあからさまに敵意をむきだしにして、しかしその反抗はあまりに庶民的かつ深謀遠慮的ではあるが、げっぷの音を入れてその対抗手段としていた、というのは今考えるとあまりに情けないレジスタンスであったな。
そしてまたキャッチフォンというこれまたそれ以上に腹の立つ機能が開発されて、人の電話中に「あ、今キャッチ入ったから」という、呆然自失、目の前にそいつがいたら張り倒したろか、というくらい失礼な電話機能が当然のように世の中に蔓延して、それ以来、あまり電話というもの自体かけなくなってしまった。
そして現在、携帯電話でしゃべくりながらデートしている、お互いの存在を無視したかのようなカップルなんぞを見ると、何のために一緒に歩いているのであるかという根元的疑問にはたとぶつかってしまう。

まあ今じゃNTTなんぞに金払ってたまるかよという基本姿勢のもと、あまり電話を利用しないわけであるが、しかし電話文化というものを顧みたとき、その発展途上推移を考察していると、なんとかしてその対象(人間)を「電話機能」で取っ捕まえたいという欲求の延長線上に電話の進化はあると言っても過言ではない。
昔は留守だったらまたかけ直さなければならないところを、なんとか工夫しつつ、留守番電話でその当該時点の互いの情報を押しつけあい、キャッチフォンではその自己都合の瞬間の情報を押しつけあい、とりあへず、私はこうなんです私はこうしたいんですという自己主張をけたたましくも電話線を通じて行なってきたというのが人類の電話歴史である。
そしてさらに携帯という究極の超時空機械によって人間は人との継続的な連なりを意識しつつ、刹那的充足感安心感を手に入れたのであると言っても過言ではない。
しかしさらにいえば、携帯というのはひとまわりも次元が違う革命的進化であったといえる。
対象を取っ捕まえたいという基本欲望は同じであるが、その方法がまったく従来とは異なる、つまり、今までが双発的な三次元的フィールドであったのが、携帯というのはあるフィールドを互いに塗りつぶしていくというような双作業的二次元フィールドメディアになったと考えられるのである。
そしてこの革命的事実によって、決定的に人の気分と言うものは変わった、と私は思う。
いつでもどこでもつながるからなんとかなる、というような気分が人間の心を支配しているため、走り出してから考えるコーカソイド、ラテン的楽天感をもとに、何か行動を起こし、そしてその根拠、裏づけがないために、中途半端に終わるという、なんだかいらいらするフライング多発気味の社会になっているように感じるのである。
例えば、おしっこをやろうとトイレに行ったものの、ついでにうんこをしてしまった、つまり、うんこをやろうと思えばおしっこしながらやってしまえる洋式個室便所的感覚にもそれは似ている。
和式の便所に行ったとき、かなりの決断、論理的転換がなければ、あのうんこ用個室トイレのほうに入ることができないというのとはまさに隔世の感がある。
一つの行動を自己完結する意識に欠けているというのがあの洋式便所の特徴であって、それはまるで携帯を持つ人間のやりっぱなし、言いっぱなし的な、それ自体で完結する力を持たない特徴によく似ているのである。
言ってみれば、何かを決断する機会が決定的に減っているのではないだろか。
なんでもかんでも「先延ばし」にしてしまう時代背景というものがこの辺りから流れ出てきているような気がする。
そういう意味では女の人はあまり変わっていない、というのもなんとなくうなづける従来型事実である。
女の人は子供の頃から、中に入ったら何をしているのかまったく分からない淫靡な個室トイレの中で、ややもすればおしっことうんこをその流水音の闇に紛れて一緒くたに行なってきた!さらにはもっとすごいことを行なってきた!(いや知りませんけど)という歴史は、男がその個室トイレに入ることで起こる数々の醜聞、排撃など、信じがたい阻害要因を乗り越える、一世一代の苦渋の決断とはまさに天地の開きがあるのである。

ちょっと話が抽象的に過ぎるので、もう少し具体的な話でいうと、私は携帯文化の人間、つまりは大多数一般人たちとは待ち合わせを極力しないようにしている。
最近、何か飲み会や、集会がある場合、その店や現場の名前を知らない限り、私はその姿を公の場所に見せないことにしているのである。
これは一般的に首肯される事実であるが、待ち合わせにちゃんと来る人間というのは平成15年8月現在の日本において、ゼロ、まったくいないと言っても過言ではない。
例えば、私のような人間も含めた集合が決定されるとき、一応時間と場所というものが提示されるのであるが、それは携帯を持つ人間にとっては、あくまで大体の目安という意味でとらえられている。
だからその時間にその場所に現れるのは私だけ、ということになり、そこから苦難に満ちた、携帯電話と公衆電話の通信というぐったりしてしまう、気の遠くなるような、宇宙人対地球人のような遠大かつ無謀な傍受合戦となるわけである。
そして双方の言い分を総合して考えてみると、文化が違うからどちらも正しいという結論が導かれてくる、というところも異文化、異空間交流の要と相似である。
結局、少数派の私が、「早く携帯持てよ」といつも怒られて終わる、というなんだか納得のいかない結末になるのであるが、そこは私は大人であるから異文化の退廃を責めることなく、冷静にその集合方法を自分で改革してすりあわせを行なっているわけであるが、とにかくその異文化人間たちは曖昧な欺瞞的な思想、行動に染まっているというのは紛れもない事実である。
そのデタトコ勝負の思想は、それはそれでいいとは思うが、私の考える日本人的美質とは相容れないものがあるのである。

そうはいっても、だいたい携帯が普及してなにがうれしいて、留守電やら、キャッチフォンという非人間的仕打ちに無縁になったという点でも携帯に対する私の評価は非常に高く、携帯を社会的に排撃する心は微塵もないのだが、それでも自分では携帯を持つ気にならない。
それではなにかというと、最終的には一番の阻害要因は、物理的、肉体的要因なのである。
わたしは腕時計をするのもイヤ、カバン持つのもイヤ、傘を持つのもイヤ、という、幼稚園では絵本にまで出てきて、こうなってはダメよーと集団攻撃される「ヤダモン」の様な人間なのであるが、それはともかく、何かしらの性能を自分につけるというのを極端に嫌う性質がある、と思う。
だいたい、私は手に持っているものをことごとく捨てるという性癖を持っている男なのである。
昔から傘など雨が降らなければA地点からB地点まで運びおおせたことはなく、小学生の時は背負っていたランドセルまでどこかに置いてきたという歴史も持っている。
さらに、クレープか何かを買おうと行列に並んでいて、持っていた千円札をその辺にポイと捨てて、メタメタに怒られたという過去も持っている。
その上、肉体的にいうと、腕時計をすると左右のからだのバランスがくづれて、からだのロレツが回らなくなるような気がするし、カバンを持つと、何か緊急事態が発生したときに咄嗟の第一アクションが決定的に遅れる、というような気がするし、それより何より、その機械、機能を身に付けたら最後、その辺にぶちゃって(うち捨てて)はいけない、なくしてはいけません!という母的強制力というのか、呪いの指輪というのか、そういう縛られる感覚が堪らない。
そういう意味では、時空を超えた、究極の自縛四次元道具である「携帯電話」というのは、私にとって、持ちたくても持てない禁断の悪魔グッズなのである。

これまた少し話は飛ぶけれど、実質基本使用料というのをよく聞く。
携帯の料金体系というのは、私にとってまったく空をつかむようで意味不明なのだが、しかしこの実質基本使用料というのは、群を抜いてよく分からない。
この「実質」というのは一体どういう意味か。
「本当はいい奴なんだけど・・」の「本当」と同じ意味で、結局、最終的に、つまるところ、「いい奴ではない」という解が導き出される、オモテの意味とかけ離れた、言い訳にも似たあやふやな言葉であると極私的には思われる。
つまり、実際に支払う使用料は実質基本使用料とは違います、という詐欺のような言葉である。
その上、「基本」というのもよく分からない曖昧な言葉であるため、「実質」の「基本」などといえば、何億通りも考え方があるような、あって無いような最大公約数的な概念にならざるを得ない。
日本政府の発表する実質GDPという経済の成長率を示す指標があるけれど、現在それを見て何か行動を起こす人間は皆無に等しく、その数値の元となった名目GDPというほうが実体の経済にあっているというところが、あまりに皮肉であってあまりに象徴的である。
古今東西、実質が実質を表わしているためしはないのである。
それはまるで、人間が「信頼」という言葉を口にした途端、その人の信頼というものは灰のように崩れて風に消えてしまうという類例によく似て、まさに砂上の楼閣のごとき危うい均衡の上に成り立つ言葉の一種である。
そして案外、この「実質」という言葉が携帯文化の本質を言い表しているのではないか。
携帯を持つと、「実質のオレ」という実体のない仮想的な、いつでもリセット、機種変更可能な、浮揚する自分表示が出てくる感じがする。
そして普段では考えられないような大胆な行動、あるいは小心もの的な行動をとる。
そしてそうしようがそうしまいが、それを自分とパラレルかつ「実質」的自分であると錯覚、知覚して楽しんでいるというのが現代日本人の姿なのである。
しかしてその自分と、肉体的物理的自分とは乖離して、その後者は安全なところにヒッソクしているというところが、人形使い、ドラクエをやる人、戦争をする権力者のようで、まったくおろそかである、と私はこう思うのである。
実際に会って話すことばの重さと、固定電話で話すことばの重さと、携帯電話で話すことばの重さ、というのはきれいに負の二次関数になっている、つまり急激なデクレッシェンド風に軽くなっていくような気がするのは、このあたりに原因があるのではないか。

以上、いろいろ言ったけど、実際NTTの固定電話がなくなれば、携帯電話を持つ(家に置いとくだろうね私は)ことになるようになるのだろうと思うと、気分はハッピーになってくる。
以前にもどこかに書いたけど、NTTの徴収権に対して、私は大いなる疑問と怒りを抱いているのである。
社会的風習と、安定性、インターネット状況から、あくまで「仕方なく」NTTの固定電話を使用しているのである。
この、働かざるものが食っている、という狂った世界に終わりを告げる携帯時代、あるいはそれに代わる電話の時代を、「実質」の私が私の右斜め後ろのほうの次元で手グスネをひいて待っている。
NTT以外の通信会社のヒトがんばれ。





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