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第14回
気功法 2003.7.20
ぬむがおいうつらあがふぁあら、
んぐぃうかぐあっいっらかしゅべ
ずぐ「あぎえぃちょふりあうじゃ、
ろろひゃいいらされじょぅぅっしゃ
是々非々
胡乱茶
「信じる者は救われる」というが、まあ、どんな場面でもその真理のお題目というのは証明されることが多い気がする。
例えば、病院に行って、「風邪ですね」と診断される風邪をひいた人間を一歩ひいた目で見ていると、ほんと救われてるなあという気がするし、電車の中でカガミを片手に、瓢箪山から難波まで片道30分ぐらいのあいだ、ずうーっと絶え間なく化粧している女というのも、ある意味、信じているものによってすべてが覆い隠されているというところが、まったく救われている。
ほんとあれだけ自分の世界に入り込めるというのは一種の才能で、そのままどこか消えていなくなってもおかしくないという江戸川乱歩的情景の一種である。
まあ世の中の人間を観察していると、人間というのは、その信じることの正統性を追求してうごめいている動物なのである、というのは、納得性の高いバリューセットであろうと思われる。
何か事象が起こったとき、何か行動を起こしたとき、自分の中での心理の動きを高性能ピクチャーサーチで再生して見てみると、どんなときでも自分の正統性を証明しようと躍起になっている自分がいる、つまり簡単にいうと、「言い訳」しているというところに突き当たる。
自分に非がある=ごめんなさい、という心のアヤも、実はそれを知る自分の正しさを主張している、つまり、無知の知、みたいないやらしいといえばいやらしい卑俗な考えがオオモトにあるのである。
そして、その集団狂信的・言い訳シンドロームによって、人類はその肥大化した知恵と思考を制御して、精神破綻もせず、死なずに生き延びてきていられるわけであるな。
その一般人類的性向を貫いている特徴を噛み砕いて言うと、「救われている」というのは個人個人の中での問題であって、他人からの評価はいっさい関係ないし、客観的事実や、グローバルな物流ステーション、というのもさしあたっては関係がない、ということがいえる。
ヒトんちの玄関で小便したり、アパートの二階の窓から小便したりするのも、本人の中では完結した理論構築をともなう確信犯的行動なのである。
そして、この私めも、あまり物理的にも精神的にも信じる所はないようであって、実は信じることによって救われる、人類のプロトタイプにずっぽりとはまっているのかも知れない、ということにこのあいだ、はっと気づかされたのである。
むかし、私は家具屋をしていたことがあって、大川栄策ばりに、と言っても分からんかも知れないけど、栄策といえば、なぜかタンスを担いじゃ「サザンカの宿」をガナってたあのおっさん演歌歌手ね、それはともかく、私は今でも荷造りや、タンスを包んだり運んだりするのは得意なのであるが、その頃、ちょうど期末催事か何かの家具の撤去をしていて、若気の至りか、一人でアンティークの茶箪笥を運ぼうとして、かの悪名高きぎっくり腰になったのである。
あの腰骨が前方へと地滑りする感覚というのは、今でも夢に見そうなほど「ぎっくり」な感覚なのであるが、それはおいといて、そういうパワーリフティングな仕事というのは確実に人間の腰というものをむしばんで、その当然の帰結として、私は立派な職業病たる腰痛持ちになったのである。
ほんでこの腰痛持ちになると、何をするにも腰が引けてしまい、朝起きるのさえ壁づたいに起きるというような、カタツムリもびっくりの平面依存的なスローライフになってくる。
それは一般的にいうと、「みっともない」という若年性痴呆症のような様相をおびてきて、まあ人並みに世間体や衆目を気にするお年頃の私としては耐えられない状況になっていたのである。
どーにも仕方ないので、それから私はいろんなヒトの話を聞いて、いろんな医者を巡り、いろんな治療を施されたのであるが、結論から言ってしまうと、最終的に私は「気功」で腰痛を治したのだ。
オジサンたちが「禁煙パイポ」で煙草をやめ、「小指」で会社を辞めたりしている間に私は「気功」で腰痛を治していた、というところは痛快ですらある。
気功というのは、テレビなどで見る限り、あまりに怪しく、あまりに中国四千年の白髪三千丈謝々的な印象があって、もっというと、新興宗教のようないかがわしさをその周囲に発散させているというのが現状である。
気功で人を吹き飛ばす、という驚愕の木曜スペシャルのような番組を見ても、吹き飛ばされる人は、吹き飛ぶ前に足を屈めて跳躍しているのがまる分かりであって、まるで八百長と催眠のはざまで揺れる、晩年の馬場の十六文キックみたいなものである。
由美かおるという人がいて、周りの人間が何人(何代)か死んでも、いまだにテレビの前で風呂に入っているという、つまりいつまでも若さを誇示している、八尾比丘尼のようなおかしな女忍者なんであるが、これも西村式気功法の使い手である、というところからみても気功って怪しいというイメージの元になっている。
私も例に漏れず、気功なんて、占い好きに属するようなキワモノ人がやるもんと決めつけていたのだが、しかし、おとづれた鍼灸院の先生は、私の腰をひと通り見ると、こともなげに、うん、これは気功で治るな、と静かにのたまったのである。
この時点では、「まずいところに来てしまったなあ」というのが実感であった。
例えば、どこか旅館に泊まろうとして、玄関またいで三和土に入って、ごめんくださいと叫んでも、受付の人が出てこないときなんてのにも、これから続発するであろう、料理やサービスの劣悪さを予感させ、「まずいところに来てしまったなあ」という感慨は起こってくるのであるが、しかしここでの「まずい」は、昼間っからフランス人形のような服を着た若いむすめや、人の頭に手をかざそうとするような人間につかまってしまったときのような、あへて言うなら、真のアホに関係してしまった、つまり、一刻も早くこの領域から脱出すべきである、と大脳新皮質がポコペン型緊急避難命令を出すような段階の「まずい」である。
しかし、一方で、私の側頭葉付近では、これは話のネタ的にはおもしろいのかも知れないゾォという、オロカナル好奇心もむくりむくりと隆起して、脳内局部セクショナリズムがせめぎあい、まあ結局最終的にはやってもらったのであるが、これがタメ五郎もびっくりのめざましい効果を生むことになる。
それまで、温熱療法や、西洋医学のじっとしときなさい療法や、鍼など、いろいろやって、あまり効果のなかった腰痛が、その一回500円の気功によって治ってしまったのはいまでも不思議な感覚である。
その気功の先生は二等辺三角形を人間にしたような、太ってはいないのだが重心のどっしりとした、見るからに柔道、という感じの人で、商売っ気のない、フランクでカジュアルなところが、高校時代に通った「オリタ」というやきそば屋みたいで、親しみやすいといえば、親しみやすい感じであった。
話はそれるけど、そのオリタの焼きそばは実にシンプルな威厳に満ちた焼きそばであったなあ、といまさらながらに感慨にひたってしまう。
値段は200円。
その値段と裏腹にその皿に盛られて出てきた焼きそばは、量にして3玉4玉はあったろうか、金のかかってなさそうな、コクのないソースの香ばしい匂いが、さっき弁当食ってきたのに、スデにして圧倒的臓器内喪失感をともなってうごめく思春期の胃を刺激して、そしてたまに、ごくたまーに麺の中から現れるキャベツのキレっぱしなんかがその興奮を更なる高みへといざなっていくのであった。
現在、あの麺オンリーの焼きそばを3玉食え、といわれても困ってしまうくらい、自己中心的に「麺」たる食べ物であったのだが、それはそれで過ぎ去った栄光の日のララバイである。
それはともかく、さっそくその気功の先生は、うれしそうに私の腰の上に謎のセロファン風シートを乗せると、自分の頚動脈のあたりに左手をあて、なんだか非生物的なピッピッッという音を発しながら右手をそのシートの梵字のような文字に沿って、つまり、私の腰に手を翳した。
そのあまりに滑稽な姿に反して、施術が終わり、大地に降り立った私は「おやまあ」というのか「あらまあ」というのか、それとも「およよ」というのか、まあしつこいけど本当にびっくりするほど腰が軽くなっていたのである。
それから何回か通って、ほぼ回復したときに、思い切って先生にこれはいったいなんなのデスカと訊いてみた。
すると、先生はぐふふ・・と横隔膜ウラあたりからの低い含み笑いをもらしつつ、待ってましたとばかり、さまざまな実験を私に施し始めた。
まず、これは誰に言っても信じてもらえないけど、弘法大師の書いた文字(藁半紙のコピーなんだけど)を見ると、体が柔らかくなる。
自分で書いてて怪しいなあと思うけど本当なんである。
実験方法:
@医者によく置いてある回転式マル椅子に座り、足を固定して限界までくるりと腰を回し、そこをベンチマーキングする。
A元に戻って、座ったまま弘法大使のわけわからん文字を眺めて、その後先ほどと同じく限界まで腰を回すとあら不思議、さっきより1割2割、目に見えて腰がよく回っている。
という寸法である。
また、気功で風邪を治すことができる。
実験方法:
@風邪をひく。
A梵字の書かれたシートを背中にあて念じる。
するとあら不思議、風邪が治ってしまっているのである。
これはフィクションではない。
もちろん私はおかしな新興宗教の導師でもない。
しかし、腰痛と風邪が治ったのはまぎれもない事実なのである。
そしてこの不可思議はいったいなんなのであるか、と考えてみたとき、やはり、なんやかんや言っても、自分の心の奥底では気功というものを信じていたのかも知れない、という追憶がかすかに蘇ってくる。
気功なんてそんなアホなことが・・と思っている自分の心に、その心の疑惑と抵抗の強さに反比例して、そんなアホにもすがりつきたくなる逆しまのアマゾンのポロロッカのような心が沸き起こってきたのでは・・という、自分を信じ切れない謙虚な感覚が存在する気がするのである。
それは例えば、見てはいけない見てはいけない・・と思う心に反比例して、その視線は見てはいけないやわ肌のオドロ世界にくぎづけになっていくオトコの心、という事例にも通じるものがあるし、便意をしのぎ切るほどに、そのほとばしる肛門への欲望の波は強さと激しさをいや増していくという感じにも似ている(ちょっと違うかな・・)。
また、三日三晩責め続けられて、ほんとふざけんなよ・・と精神的にまいってきているところに、刑事さんが差入れてくれたあったかいカツ丼に、ついほろりと来て、刑事さん実は俺・・という状況下にも通じてくる。
さらにいうと、洗脳の常套手段として、その人の人格を否定し続けて、おまえは駄目な奴だ、生きていても仕方がない、何のために生まれたんだ、この屑が!と罵り続けて、まいってきた頃合を見計らって、一転優しくすると、どんな人間でもコロリときてしまう、というような手法にも通じてくる何かがそこにあったのではないか、という気がしてくるのである。
つまり冒頭で言ったところの信じるものは救われるの伝で、客観的な腰痛の症状や状況はなんら変わりがないのに、何かのきっかけで、自己催眠にかかってしまっているのではないかということである。
実はこの鍼灸院、うちの奥さんも一緒に行ったのだけど、まったく効かなくて、彼女はここと違う鍼灸院に行き何万円もする治療でパキッと良くなった、というところが、人間の価値観の違いをあらわしていておもしろいのであるが、そういう意味では、私は、腰痛を治すのにそれまでかかった金額を、深層心理下で累計計算していて、ここらが潮時やでー、と貧乏性そのままに、そこで自らの意思で治らせてしまった、というのが真実に近いのかも知れないのである。
信じる力か、真の力か、どちらにせよ、「腰痛が治った」という事実は、私に更なる人間的飛躍をもたらす可能性を覚醒させるに十分であった。
信じればなんでもできる。
気功の力でなんでもできる。
そして私は子供時代を懐かしみながら、シカシテその目はやや真剣に、時間よ止まれと念じてみたり、奥さんに穴が開くように凝視してみたり、きれいなおネエちゃんのスカートのハシをじっと見つめたり、スケールは小さいながら、今でも神秘の人類史革命的実験は続けられているのである。
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