海洋空間壊死家族2



第13回

サティー   2003.7.12



寡婦は身を焼いて死ね

寡夫は胸屠りて死ね


つがいが逝く

その価値の惜しさによって
泣いたり憤ってみたりする

往時血みどろの殺戮
もはやせんかたもなし
やがてうちなる閃光に焼けただれ
業火に身をくべて肉の焦げる匂いをかぐ


寡婦は身を焼いて死ね

寡夫は胸屠りて死ね



世の中には夫婦げんかというものが厳然と存在して、犬も食わないといわれたり、あるいは、離婚する人間のほぼ100%がそれが原因であったりとマア、当然といえばまったく当然ではあるが、実に人間ドラマチックな題材ではある。
しかし、当事者間はともかく、傍観者から見て、そのあまりに生活感あふれるファイトというものは正面から取り上げられることはほぼ皆無に等しく、いわゆる「喜劇」としてしかこの世に存在しない、というような参加者周知の3分クッキングになっておる、というのが現状であろうと思われる。
皿が飛び、金物が飛び、あらゆる家庭内凶器が飛び交う夜があっても、次の朝には、ご近所もその事実がまるでなかったかのように振る舞うという、日本原風景的神隠しの、暗黙の長屋ルールがこの世を支配しているわけである。
しかし、いつも思うのだけど、この夫婦げんかが原因による結果としての悲劇と反比例するように、そのけんかの原因というのは余りにくだらない、実に下卑下卑のどうでもいいことである、という、それがこのけんかを喜劇たらしめる一因なのであるが、ほんと、よく訊いてみる(考えてみる)と、「ばっかじゃないの!」と東京便で口走ってしまうほどしょーもない些細なことが発端だったりすることが多い。
しかし、ここでまた、その当事者たちの主観的には、もう、全ての人格と、プライドをかけた、全面戦争的戦闘体勢に入っているから、その周りの評価や、事後の評価、冷静な観点などは、本人たちが思う以上に目に入らなくなっている。
そのためか、その係争問題上の自己防衛と、相手の主張粉砕への執着というものは、あらゆる人間の渇望の最たるものに膨れ上がって、戦争中のアドレナリン兵士や、ドーパミン兵士よりも残虐な、嗜虐的精神状態になっているといっても過言ではない。
一方、その当事者の中に、比較的、自分では冷静だと思っているものがいて、その当該係争点のあまりのくだらなさにオーソレミーオ・・と空を仰いでいるという感覚を持つものもいるが、しかし、そのくだらなさを、一歩退いた上で決着に持ち込めずに、「こんなくだらないことに何を言っているんだ・・」と相手を蔑んだ上、「そんなくだらないことに何を言っているんだ!」とさらに怒りのボルテージは激昂して、ある意味その「くだらないこと」に本気でかかずらい、係争するという、やはり、どっちもどっちという状況に陥っている場合も多い。

そんで身内の恥をさらすのが好きなわけじゃないけど、うちのような平和で怠惰な一姫二太郎的四人家族の間にも、それはまるでシルバーシートににじり寄ってくる年寄りのように、「トーゼン」という顔をして、案外頻繁におとづれる。
まあうちの場合、双方が意気地もないほうなので、言葉や物理的暴力という方法をとらずに、態度で示すという、ある意味しあわせなら手をたたいてしまう方法で、淫靡に陰湿にやり合っているわけであるが、しかし次の和解の瞬間までの道のりというのは、長くて暗くて出口の見えない退廃的精神状態を呼び込む行程であるという意味で、できれば早いとこなんとかしたほうがいい、というのは幼稚園児童にもわかる道理な訳である。
そしていま、比較的冷静に、「何が彼をここまで追い込んでしまったのでしょうか・・」と公安委員会で見るようなビデオ教材的に思い返してみるにつけて、私の場合、「食べ物の問題が多いなあ」というのがこれまでの紛争内容を貫く一貫した政策的テーマであるように思われる。
そして、ここで勘の良い人は、あんた、もしかしてここで、そのケンカ内容を、相手のいないことをいいことに、自分の都合のいいように正当化しようとしているんじゃあ・・と思われたかも知れないのであるが、うん、まあ、結果的にはそうなってしまったなあ・・という未必の故意を隠すこともしない潔さに許してやってくれい。

私が言うのも何だけど、この私の面倒見てるという点だけでも本当、うちの奥さんてできた人だと思うのだけど、しかし、彼女の手がけるある一部の料理に関して、厳然と、敢然と、粛然と、「おかしい」方法論、特徴嗜好があるのである。

まず季節はずれな料理で恐縮ではあるが、「鍋」に関して、私にはどうしても許せない行動が彼女に見受けられる。
比較的この「鍋料理」というものは、新婚家庭、あるいは、初陣カップルが迎える始めての冬に、彼らにとって最初の異食文化との邂逅、さらには紛争、危機をもたらすものである、というのは一般的に肯んじられる所ではないか。
そもそも、育った家庭、イエ、それぞれに、鍋文化というのは、ほんとバラエティ豊かに繰り広げられている。
ギョウザを鍋に入れるイエや、ウインナーを水炊きに入れてしまうイエなどもまま見られるところである。
そういう歴史と、血脈を背景にハグクマレタ固有の文化、というのはその人の人格といつしか同化している、というようなことがあって、人はそれを否定されたとき、あるいは、それとはまったく相容れない様式文化に遭遇したとき、ほぼまちがいなく怒りに近い、子供の赤いオタケビを心のうちに発する。
まあ、私の場合、比較的自分では心が広いほうだと思っているから、たいがいのことには薄笑いを浮かべながら、煮えくり返るムチ打ちの心を抑えつつ、内なる代償行為にてドラフトすることができるが、しかしこんな私のようなホトケの化身にも耐えられない、「鍋」という料理の成立要件を無視した、とんでもない料理方法を彼女はするのである。
ぐつぐつとムセカエル湯気とともに出汁のいい匂いがしてきて、私の酸性リトマス試験紙の赤く染まった胃のヒダが嬌声をあげ、いまマサニ、できましたよーとフタを開けて、いただきまーすの挨拶ももどかしく箸を伸ばした瞬間、彼女は何と次の第二弾の具材をその鍋に投入してしまうのである。
いま何が起こったか理解できたであろうか。
簡単にいうと、茹であがった鍋に、間髪入れず、生の白菜やら、肉を入れてしまうのである。
彼女の言うには「分けて入れてあるから、こっちのところは食べれるよ」ということらしいのだが、しかし、たとえ宴会旅館の鳳凰の間のようなダダ広い私の心が許したとしても、私の呆然と立ちつくした右手と、さっきからあまりの出来事に唖然としている胃や十二指腸のほうがそんな理不尽は許さない。
イスラム教徒が豚に対するように、ヒンズー教徒が牛に対するように、わが内臓関連団体は、えづきをともなったタブー冒涜感を表明する。
それと同時に口や肛門の外郭団体は非政治的武力闘争を宣言する。
つまり、そんな生の肉やらの入った、ぐつぐつ感の消えた鍋から、食物摂取はできないということである。
この時はほんともう、「この人とはやっていけない・・」という場末のキャバレーに夕方出勤する妙齢の女性の背中のように、やるせない、突き放したような絶望が私の心に去来した。

初めて刺身を食べたときもびっくりした。
うちの実家では買ってきた刺身を、あのスチロール容器から出さずに、その舟形から食べていたから、奥さんがお皿に入れ替えて出してくれたのを見たときは、正直、お、やるな、という感じがして、ミリ単位の幸せがそこにあったのだけれど、しかし食べてみると、いやに、何だか、妙に水っぽいのである。
なんかこの刺身は失敗だったねーという話をしているうち、次第に明らかになった事実に我々は衝撃を受けることになる。
刺身を水で洗ってから食べるという文化らしいのである。
一度、刺身を洗って食べてみてほしい。
そのスカスカ感と、水っぽさ、旨味の無さは、やる気のないくたびれたスポンジのようである。

初めてサンマを食べたときもびっくりした。
というよりは、3度目くらいに気づいたのである。
サンマという食べ物、特に焼いたのは、あの旨味の白身と、ぱりぱりの焼けた皮と、内臓の苦みと、それをまとめあげる大根おろし、という黄金比率の組み合わせによって、二代目中山流石もびっくりの相須効果をともなって、1+1=3、いや、それ以上のゲッターロボ的なおいしさの激烈なる高みへと我々をいざなう食べ物である。
秋になると、そのおいしさと、出回る量はシンクロして多くなるから、うちでも秋の夜の酒の肴に何度か出てきたのだな。
そんで、何度か続くうちに、この辺りのサンマはこういうことになっておるのかな、と疑問を持って、その後、スーパーの鮮魚売り場などに行ってみて、あれ?やっぱり、普通のサンマじゃけんど・・もしかして・・と思い、「覗いてはダメ」とあれほど言われていた台所を、見たらいかん見たらいかん、とつぶやきつつ、しかし体は意外とさっそうと動いて、戸の隙間からチラリと覗き見ると、やっぱりおめえは・・というおじいさんもびっくり、奥さんはサンマの内臓を捨てていたのであるよ。
私に言わせりゃ内臓のないサンマなんて、星のない夜空か、クレマトップを入れないコーヒーみたいなもんである。
あの内臓の苦みが旨味の引き立て役となっていて、スイカにかける塩のようにじわじわと大人の時間を浸食していく幸せのひとときなのである。
この時は自分でもびっくりするくらい怒ってしまった気がする。
食べ物を捨てる行為というのが、私一番許せないのだけれど、図らずも奥さんはそこの琴線に触れてしまったのであるな。
まあ、食べない人にとったらあれはただの生ごみかもしれないが、それにしてもあのうまさを知らずに死んでしまう人間がいると思うと、ここでも私は脱力感を感じてしまう。

上の三例は、衝撃の大きさでいうと、上位陣なのだが、それよりも私が危機感を持っているのが、白ご飯の食べ方である。
自分でもなんでこんなに危機感があるのか、いまだによく分からないのだが、奥さんが白ご飯をおかずで食べられない、つまり、ご飯の友、フリカケ、漬物、が無いと、ご飯を食べきれないということが、嫌悪感をともなって信じられない。
うちの奥さんは、今ではそうでもない、と主張しているのであるが、しかし、どんなにおかずがあっても、おかずをまずぱくぱくと食べてしまって、最後に白ご飯が茶碗一杯残っている、それを塩辛いご飯の友でやっつける、というような行動原理を基軸に生活している生物なのである。
その慣習、文化が子供に移らないはずもなく、うちではみんなでおかずを食べ尽くして、その後、フリカケを出してきてご飯を食べている、という状況が常態化しており、それに対する自分の中の反駁する感覚が抑えきれない。
よく考えると、べつにフリカケでご飯食おうが塩辛でご飯食おうが、個人の好き勝手自由であるのだが、これだけ腹立つのも何の理由か、といま冷静に考えてみると、父親と、祖父の厳しい教えがもとになっているのかなあという曖昧模糊とした記憶が蘇ってくる。
そして往時、その叱られ、強制されていたとき、なぜ、おかずがあるときにフリカケでご飯を食べることがいけないことなのか、という理由については、思い出せない、というより、聴かせられなかったような気がする。
それはたぶん、私が子供に対して、強制している行動と同じく、何の根拠もなく、言うなれば、代々、引き継がれてきた、農民としての血がそうさせていたのではないか、というのが今思うことである。
まったく感覚的なことであるが、フリカケでご飯を食べるという行動には、お米を卑下する要素がケシ粒ほどのわずかさで介在するような気がするのである。

この間、シェ、田村だか木村だか、そんな料理人の出す昼飯を食いに行ってきたが、そこでは、まず、パンとスープが出てきて、まあうまかったんだけど、それを食べてしまうと、次にローストビーフのワインソース風みたいのが出てきたのである。
その料理群をワインも飲まず、ビールも飲まず、ご飯もパンも食わずに食っていたら、どんな料理もこんな食い方うまかねえなあと思ってしまった。
欧米人が一皿づつサーブされてくる料理を文句も言わずご飯無しに食っているのを見かけると(特に酒も飲まずに)、根本的に違う生物なんだなと思ってしまう。
そういう意味では、うちの奥さんは欧米風の食物味覚生物なのかも知れない。
しかし彼女の名誉のために言っておくと、というか私の保身のために言っておくと、私の奥さんは料理が上手である。
あ、あと、この場を借りていっておくと、人の食べてる食べ物に調味料を勝手にかけないでほしい。よろしくー。
さらに、この場を借りていっておくと、子供ができると、ピラフやカレーライスはモチのロン、味噌汁でもビールが飲めるようになる。本当よ。





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