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2014年5月16日(金)

何でもかんでもロハスだエコだという風潮には辟易しているけれども

人類の技術の進歩とは、大雑把に言い換えると"効率化"である、と言えると思うが、その効率化こそが弊害を生んでしまっていることがある、とつくづく感じる。
殊、それが今顕著だと思われるのが、食の分野だ。

動植物問わず、我々はこれまで、各食材の生産性を高めることに血道を上げてきた。
そのことにより、相対的に多くの人口を養うことができるようになり、また無論低コスト化につながるからだ。
そしてそのような"効率化"のために用いられてきている具体的な方策が、品種改良であったり、農薬や保存料の開発と使用であったり、遺伝子組み換えであったりする。
何世代もかけて形質の変化を促す品種改良は別として、薬剤の使用や遺伝子組み換えに対しては、おそらく少なくない割合の人が生理的なレヴェルも含めた嫌悪を感じることと思う。
遺伝子組み換え食品については、人体に悪影響はないだろう、という見立てで我が国はアメリカなどから既に大量に買い込んでおり、好むと好まざるとに拘わらず私たちの口に入り続けているが、長期的な臨床データがないことなどから警鐘を鳴らす学者も多く、実際にEUなどは厳しく輸入を制限している。
また、反対の立場には倫理的な意味合いも含まれる。
加工から丸一日経過してもまだピンピンしているカット野菜や、賞味期限が数週間にも及ぶ菓子類や穀類製品などは、その製造過程で何が行われているかを想像するだけで背筋が冷えるし、事実、ちょっと調べてみるとその想像が必ずしも的外れではないことが分かる。
虫や雑草は全部殺す代わりに特定の作物にだけは作用しない農薬、なんてものも同様だ。
近年、アレルギーを持って生まれてくる子供がかつてよりも相当の割合で増えているが、環境ホルモン等の影響を含め、このような状況とまったく無縁であるとは考えにくい。
実際に、商品として出荷するものと自分たちで食するものとでは、その育成過程における薬剤使用の手法等を変えている、という農業従事者を私も複数知っている。
加えて、昨今PM2.5を始めとする中国の複合汚染問題を糾弾する議論が喧しいが、もちろん第一義的には彼の国のモラルがあまりに低いということが挙げられるとしても、これまで"世界の工場"として大量の製品を安価に生産することを長きに渡って求めてきた先進諸国の罪、という側面もその要因として少なからずあると言えるだろう。

人類が理屈抜きの本能的な振る舞いとして、"効率化"を目指すのだ、というヴェクトルそのものを否定するつもりはないし、また否定することはできないと思うけれど、あまりにもその箍が外れ過ぎている。
食品をあたかも工業製品と同様に取り扱っていることに関しては、強い違和感を覚える。

といいながら、現実問題としては、ここまで育ってきてしまった経済の仕組みを根っこから覆すことは到底不可能なわけだが、"効率化の追求"とは対極に位置する選択肢もまた、世の中に現れている。
すなわち、健康に悪影響を及ぼす可能性を持つ化合物等を使用せず、でき得る限りナチュラルな過程で作られた野菜や果物や畜肉等である。
"オーガニック"等のキーワードを示す食品やショップ等も漸増している。
必然、広汎に普及している"効率的な"品々よりも、それらは高コストになるが、自分や家族の口に入れるものに多少拘って、結果的に割高な代金を払うことを私は贅沢だとはまったく思わない。
必要なものに適正な対価を支払うかどうか、に過ぎないと思っている。

というようなことを、我が家の常食、"マニパン"生産停止という悲報に接して、ふと考えるのであった。


♪ Speak Like A Child - Herbie Hancock


2014年5月 2日(金)

ハイレヴェルなジャムセッション

今日は私が担当している番組のレギュラーコメンテーターである須田慎一郎さんが、次期西宮市長・今村岳司さんにインタヴュー取材するという撮影を行った。

須田慎一郎vs今村岳司

お世辞でもなんでもなくて、須田さんが客観的に的確に、芯を喰う質問をぶつけてくれたので、西宮市民である私がこれまで何度も読み聞いてきた今村さんの政治哲学が内包する、新たな一面が引き出されたように思う。
レヴェルの高い会話なんだけど、決して難しいわけじゃなくて、誰にでも届くシンプルな言葉。
スリリングなジャムセッションを聴いた時の気分に近い。
もちろん30分以上に及ぶそのやりとりをすべて放送することは色々な意味合いでできないので、それが残念だ。
お二方、ありがとうございます。

晩はスイミングスクールへ。
1500mと、総距離は格別長くはなかったが、なんかとんでもなく疲れたな。
前半はひたすらプルに次ぐプルで腕のスタミナが奪われ、その後に待ち受けていたキック&スイム地獄によって全身余すところなく苛め抜かれたのであった。
最後の50m×4(1分)では、無念のサイクルアウト。
限界を見た。


♪ Emitremmus - Red Hot Chili Peppers


2014年4月16日(水)

心身のバランスを取るために

明け方、4時過ぎにトイレに起きた後、なんだか目が冴えてしまって眠れなくなった。
どうやら、スイムやランなどの運動を行わなかった日、つまり昼間の仕事で脳と神経だけくたびれて、肉体の疲労度が低い夜は、眠りが浅いことが多いようだ。
というわけで睡魔に取り憑かれてはいたが、身体を追い込むために今夜もスイミングスクールへ。
平泳ぎメイン、ちょいちょいバタフライやクロールも挟んで、1450m。
腕の付け根と大胸筋に酷使の跡が残る。
これで今日はぐっすり眠れるかな?


♪ Blue - Tommy Lee


2014年2月 8日(土)

市政報告会と漢方相談

積雪の中だったが、何とかコケることなく急坂を歩いて下り切り、今朝は今年4月に行われる西宮市長選挙に立候補を表明している今村岳司市議会議員の市政報告会(今村さんの言うところでは、ライヴツアー)を聴きに、甲陽園市民館へ行った。

今村岳司議員による市政報告会

小学校と公立病院の窮状、そして防災政策の遅れを例に挙げて、今村さんが目指す"文教住宅都市・西宮市"のヴィジョンに的を絞った説明が1時間余りなされ、その後に質疑応答が30分ほど。
話の内容そのものはもちろん、漫然と日々暮らしている我々市民の死角からガツンと襲い掛かってくるような、意義深い教示だったが、それ以上に、そもそもこのような"報告会"を支援者に限らない全市民を対象に、毎週土日を潰して文字通りヴォランティアで精力的にこなすその行為自体に頭が下がる思いがする。
彼のウェブサイトを見れば分かるように、2か月で市内全域を2周し、実に50回以上もこのような"ライヴ"を敢行している。
国政、県政、市政問わず、"政治"が一体何をしているのか、確かに私たちが能動的にその情報を探して取りに行けば、知りたいものは手に入るのかもしれない。
それをすることなく、「代議士はちゃんと志を持って仕事をしているのか?」とか「選挙前に公約していたことって本当に実行されてるのか?」とか不満を抱き、あまつさえ「政治家のやっていることが見えない」などと口走るのは、有権者の怠慢だ、と指摘されればその通りかもしれない。
しかし、それらの情報は意図してのものなのかそうでないのかは知らないが、あまりに遠く、深いところに収められているようにも感じられる。
平日の昼間に行われる議会を傍聴したり、賢い役人たちが記したドキュメントを首を捻りながら読解しなければ分からない事柄も多い。
つまり、特定の政党や議員の支援団体に属しているような立場でない限り、"政治"を最も必要としているいわゆる現役世代にとって、その"政治"を知るためにはとても厳しい環境であると言っていいと思う。
皮肉なことに、毎日の暮らしにとって不可欠で、深く結びついているはずの政治が、その日々の営みに精を出さねばならぬが故に、遠いものになってしまっている。
今村さんは、そのように政治に対して怠惰な市民である私たちに向け、少しでもその中身、現状、問題、必要な対策を伝えようと、限りある時間と経費と手間を注いでこういったサーキットツアーをしているのだ、と思い至ればこそ、彼の政策に賛同するか否かなどとは無関係に、感じるのはまさしく謝意である。
おもねるとか媚びるとかへりくだるとかいうのとはまったく違った次元で、ここまで市民に歩み寄る代議士が他にどれほどいるだろうか?
3年近く前に聞かせていただいた考えがさらに進化して具現化している、そんなことを実感した市政報告会であった。
選挙が終わったら、甲山一緒に走りましょう。

「花ゆう」で目にも舌にも体にも優しい、抜群の昼食を頂いて一旦帰宅し、午後になると雪もほぼ溶けて水になっていたので、車で花隈まで移動し、「咲美堂漢方薬局」を訪ねる。
最近、薬膳にもハマっている妻がいつもお世話になっているところなのだが、私も20年来、重度の花粉症を患っているし、それ以外にも改善を期待したい症状がいくつかあったりしたので、本日は初相談。
子細な面談を経て、私に合う漢方薬を処方してもらった。
即効性のあるものではないが、まずは1週間様子見。

晩飯は西宮に戻って、「ディップジョティ」でカレー。
ラム肉とナンが実にマッチして、美味い。


♪ The Juggler - Weather Report


2014年1月25日(土)

笑福亭鶴瓶落語会

朝のうちに水槽の掃除と水換えを済ませてから、兵庫県立芸術文化センターへ笑福亭鶴瓶落語会を聴きに行ってきた。
鶴瓶さんの落語を聴くのは仕事も含めると4~5回目ぐらいだと思うが、さすがに安定して上手い。
演題は、「堪忍袋」、そして中入りを挟んで「たちぎれ」。
もちろん枕を始め、真骨頂であるところのフリートークが笑いどころ充分なことも言うまでもない。
鉄板のタクシー運転手ネタや、ハワイのゴルフ場でオバマ大統領と遭遇した話とか。
他、前座は弟子の笑福亭べ瓶の「真田小僧」、続いて東からのゲスト・三遊亭鬼丸の「新・巌流島」が演じられた。
べ瓶は弟子の中でも最末端とのことだが、なかなかどうして、滑舌も聞きやすいし、間の取り方なども上手かったように思う。
そして地元・埼玉では帯でラジオパーソナリティーも務めている人気者だという鬼丸、枕はやっぱりちょっと上方のリズムには合わんかな、という感じだったが、そのままの流れで入った本題になると客席もバッチリつかんで、聴き応えがあった。
ただ、演題の中身はもはや創作落語ですらもなく、実体験をベースにしたっぽい、いわゆる"すべらない話"。
こんなやり方もあるのか。


♪ Colony - Joy Division


2014年1月17日(金)

偏狭

今夜のスイムレッスンは個人メドレーのドリルとスイムで、1200m。
やっぱりバタフライは特にレッスン後半、腕がしんどくてたまらんが、全身心地よい疲れに包まれた。

丸19年が経った。
人の想像を超える大災害の記憶を風化させることなく語り継ぎ、また今後同じような天災に見舞われた時に被害を最小限に抑えるべく、何が起きたかを科学的に検証し、教訓として活かすことは必要不可欠だと思うが、殊更感傷的なレヴェルを広く拡大して描くことに関しては、個人的に全面的な賛意は覚えない。
そこに、被害規模の大小が拘わっているように見える、さらに端的に言うならば、死者の数の多寡がメディアでの扱いの大小に結びついているように見えるから。
身近な人を不慮の出来事で亡くした者にとって、その事故あるいは事件が、15000人を呑み込んだ津波であったとしても、もしくはニュース番組で放送すらされない1対1の交通事故であったとしても、悲しみの質や大きさに差異はない。
月並みな表現だが、一人一人、すべての死者に纏わるストーリーがあり、ドラマが存在する。
確かに大災厄の場合は、その悲哀を共有する人の数もまた多い、という特徴はあるけれど、これまた使い古された陳腐な言葉を使うようだが、人の死の重みというものは須らく等質であるはずだ。
報道媒体にとって、卑しくもこのような大きな災害や事故は、題材として"使いやすい"、という一面があることは事実だ。
そして同時にそれはおそらく、"伝わりやすい"。
どこまでいっても"マス"を対象にするメディアである、という枠組みから逃れることはできない以上、これは宿痾なのかもしれない。
繰り返すが、未曽有の大災害をいろいろな角度から分析、検証し、それを伝えていくことはメディアの重要な責務であることは重々承知の上、客観性と合理性を失うことのないよう、努めたい。


♪ I Believe I Can Fly - R. Kelly


2014年1月10日(金)

パソコンごときに悩まされて連日寝不足

Internet Explorer 11のJavaScriptが悪さをしていたようで、Movable Type 5.04で記事投稿することができないという罠に掛かり、その対処法に至るまでに時間がえらく喰われてしまった。
ブラウザの互換表示を触るだけでよかったとは。
WordPressへの移行も検討してみるか...。

Windows PCを買い替え、遅ればせながらOSを8.1に変更して数日が経った。
少なくともデスクトップPCにおいては、慣れ、という次元を超えてWindows 8は使い辛いことこの上ない。
従前のデスクトップメニューが残されてはいるので、それですべて済ませればいいという選択肢は示されているが、タイルが並ぶスタートメニューは、タッチパネル対応のモニターとはいえ、モバイル用途ではないデスクトップPCではちょっと使う気にならない。
誰が21インチの画面をフラットに置いてタッチするというのだ?
完璧にタブレット、あるいはスマートフォンに向けて特化した仕様だ。
Appleでいうなら、OS XにiOSの機能を無理やり搭載してしまったようなイメージ。
だからなのか、実機のパフォーマンスは向上しているのに、起動時&操作時のレスポンスはWindows 7以前に比べて明らかに鈍くなっている。
単純に、AppleのようにモバイルデヴァイスとデスクトップマシンのOSを分ければよかったのに、と思うんだが...。

それと、これは現代に生きるほとんどすべての人々の日常生活に遍くコンピューターというものが入り込んできている、という状況とも関わっているのだろうけれど、アプリケーションやファイル等について仕組みや構造、階層等をしっかりと理解しながら操作をしていきたいユーザーにとって、それを行うことがますます困難な作りになってしまっている。
表現は穏当でないかもしれないが、難しいことが分からない、あるいは興味がないPCユーザーは余計なことを考えず、我々が用意したボタンをポチポチ押していなさい、と開発者側から言われているかのような感覚を持つ。
使い易くなることは大いに結構だが、その方向性が間違っているんじゃないかな、と数世代前からOSアップデートの際にはいつも感じてしまう。
そう考えると、改めてOS Xの完成度は高いなあ。
でも世の中全体がどちらかというとWindowsに向けて設計されているから、Macだけではなかなか快適に生きてはいけないんだよね。

そんなこんなで、3日前の火曜晩は今年初英会話スクール、そして一昨日、水曜日はスイミングスクールにて初泳ぎ。
緩め、と言いながら結構疲れた1150m。
今夜もスイムレッスンに行き、4種目のドリルを織り交ぜて一昨日と同じく1150m。
やっぱり間隔が大きく空いた前回よりは、感じはマシだった。

実に3か月も預けていたことになるが、ベルト交換及びオーヴァーホールに出していた時計が手元に戻ってきた。

戻ってきたパネライ

ポリッシュ仕上げもしてもらい、新品に近い輝きで帰ってきたのはいいんだが、メンテナンスの総費用がしめて89250円ナリ。
これだけで結構ええ時計買えるがな...。


♪ Let's Ride - Q-Tip


2013年11月27日(水)

烏合の衆

今晩のスイムレッスンのメニューはガツンとバタフライ。
距離は1100mと少なめだったが、劇的に疲れた。
中盤以降は結構な本数をクロールに変えてしまった...。

さすがに朝日新聞・ANN以外でも連日喧しく伝えている、特定秘密保護法案。
秘密指定の基準等について明確な客観性がまったく担保されていない、為政者にとって都合の悪い情報は永久に闇に葬り去ることが容易い、などの問題点は今更ここで改めて述べるまでもない。
与党と野党の修正協議なるものがこれまたまったくの茶番で、低俗な三文芝居を見せられているようだ、というのも、過去幾度も繰り返されているデジャヴそのものだ。

数日前、橋下徹氏が「このような法案が通るのは、自民・公明を支持した国民の責任だ」という主旨の発言をした。
彼が今の立場で、しかもその会見のタイミングおよび文脈の中でこれを言うことは、それはそれで大きな問題だが、しかしこの発言の中身だけを取り出してみれば、実はその通りだ。
先の選挙で文字通りの圧勝を導き、ねじれのない今の二院体制を創り出したのはまさに日本国民であるから、大局的に見れば現在進行中の政治は民意なのだということになってしまう。

まったくもって情けないのは野党だ。
特にみんなの党の迎合ぶりたるや、自民党を飛び出した当時の渡辺喜美氏の気概に期待を託した人にとっては、いくら歯噛みしても足らないほどなのではないだろうか。
この修正法案を以てして、「みんなの党の案を相当呑んでもらったので賛成」とは笑止極まるし、渡辺氏の言動の裏には、党内で対立を深める江田憲司氏への牽制が多分に含まれているなんてことは、誰にだって分かる。
自民党・渡辺派か。
そして彼に対する叛意露わに、党議拘束に従わない江田氏もまた余りに子供っぽい。
ちょっと前の民主党の如く、利害、あるいは思想すら異にする者たちが同じ船に乗っているということが、馬鹿馬鹿しく思われる。
野党分断が進めば、それこそまさしく圧倒的多数与党の思う壺ではないか。

他の野党にしても大差ない。
「うちの修正案を丸呑みしてもらわなければ」と言った舌の根も乾かぬうちに、「相当なものがとれたので」と合意に回った理由を説明した日本維新の会の松野頼久氏。
無論、修正法案のどこをどう読んでも、相当なものがとれた、に当たる箇所は見当たらない。
前出の橋下氏に至っては、「国会議員団がやったことなんで今更言っても」と党の共同代表とはとても思われない言い草。
昨日の採決欠席にしても、世論調査でこの法案に対する国民の抵抗が強いことが分かり、どうせ賛成多数で可決するんだしポーズ見せとこか、といった程度のことなんじゃないか、と確信を持って疑う。
民主党はこれら2党よりは強硬に、反対の意を声高に唱えてはいるが、これまでのレゾンデートルから判断するに、そこに高邁な政治思想がある可能性は皆無で、国民の皆さん、民主党は反対しましたよ、というアリバイ作り以上の何かがあるとは到底感じない。

巨大与党に負託するという行為は、常に諸刃の剣となり得る。
今、表裏両面を味わいつつある国民が次の選挙で下す判断はどのようなものになるのか。
少なくとも、今の野党たちは、筋の通った価値観を打ち出した堅固なパーティーであらねばならない、それは絶対条件だ。


♪ Do It - Q-Tip


2013年11月26日(火)

6kmやや重ペース走

業務終了後、ラン。
約6kmを5分20秒~30秒程/kmで刻んだが、一昨日の疲れが少し残っているようで、脚は重かった。
あと、今日は昼に肉中心、野菜少なめの食事を摂ってしまったんだが、そういう日の方が体の動きは悪い。
水泳などでカロリーを大きく消費した後はタンパク質がガッツリ欲しくなるが、運動前は野菜や魚を中心としたメニューを食べた方がパフォーマンスは上がる、ということが私の場合、経験上確かなこととして感じられる。
スコット・ジュレクに学ぶ必要があるようだ。


♪ セイシェル~海の聖者~ - サザンオールスターズ


2013年11月14日(木)

120分帰宅LSD

昨晩のスイムレッスンはトータル1100mながら、バタフライのメニューが中心だったので、相当参った。
あまりにも腕が疲れたので後半は脚も積極的に使ってしまい、いつも以上に下半身も疲労を感じた。
だから今夜は尼崎からの短縮ヴァージョンにしようか若干迷ったんだが、今週はあまり走れていないので覚悟を決めて天満から西宮まで、完全版帰宅ランとした。
約18.5kmで、信号待ち等込み込みで2時間ジャスト、走っている時間のみだと1時間50分ほどのLSDに近いジョグ。
脚筋は程よい疲れに留まったが、またも右の腓骨筋腱が終盤に強く痛み出した。
まだ完治していない段階でこの距離はよくなかったかな。
でもそうこうしているうちにハーフマラソンはすぐだしなあ。
健康、万全な状態で練習を続け、大会に参加することは実に難しい。

さきほど放送していたNHKの「地球イチバン」でヤップ島の特集をしており、私も3年前に行ったことがあるので、おおここも行った、ここも行った、と興味深く観ていたのだが、途中、これも我々が現地で直に見た、ヤップで2番目に大きな石貨が去年落書きの被害に遭っていた、というシーンがあり、少しショックを受けたのであった。
やらかしたのは外国人旅行者などではなく地元の少年で、新年の到来を祝って"2012"と書きつけたんだとか。
外来文化のしょうもない部分が、こんな辺境の地までをも蝕んでいるのだ、という証左か。


♪ That'll Be The Day - Buddy Holly


2013年11月 7日(木)

使い分けの始まり

昨晩は久々に英会話の個人セッション。
まだまだ喋りたいことが言葉となって口から出てこないので、ウ~となる。
脳内翻訳はアカンと分かっていても、それを止めることが難しい。

そして今晩は、比較的家の近くにある別の英会話教室に、体験レッスンを受けに行ってみた。
20分ほどの短い時間だったが、連想ゲームのような遊び感覚を取り入れたりしたやりとりは楽しく、あっという間。
そして小さいながらも教室だから、ティーチングのノウハウも色々ありそうだ。

日常会話の即戦力となる語彙や言い回しは後者で、社会の動きなどを反映したちょっと難しめのフリートークは前者で、という上手い使い分けができればいい。

昨日、ついに意図的な偽装であると初めて認めた近鉄旅館システムズ社長の記者会見は確かに見苦しく滑稽で、腹立たしくもあるが、ある程度正直に心情を吐露してしまったと思われる口ぶりには、ある意味納得した。
景品表示法違反、場合によっては詐欺罪にすら問われかねない危険性はもちろん充分感知していたはずだが、にも拘わらず偽装であったと明言した姿勢には、よく言った、と感服しかけてしまったぐらいだ。
翻ってどうだ、今が好機とばかりにどさくさ紛れに、うちもでした、とこそこそ発表しながら、あくまで誤表示です、と嘘を言い張る数々のサーヴィス企業群は。
一連のこの動きの口火を切った阪急阪神ホテルズや、偽装を白状した近鉄旅館システムズなんかよりも、そういった企業の方が悪質性は格段に高い。
しかし哀しいかな、こうまで数が増えてくると、今さら、うちもでした、と発表する会見を行っても、メディアでの扱いは相対的に小さくなっていってしまう。
彼らの方がより糾弾されるべきなのに、心証として目立つのは嚆矢であり、完落ちした者である。
さらに言うなれば、もっと以前、既に今年6月に同種の問題が明らかになっているオリエンタルランドやプリンスホテルに関してはほぼ無視されてしまっているような有り様だ。
非力な個の心の裡にある"公正な報道"というものを実現することは、実に難しい。


♪ Unfit In Love - 平井堅


2013年11月 5日(火)

左翼的思想の洗礼、という通過儀礼が元凶なのか

大阪マラソン後、初めてちゃんと走った。
ガーミンがGPSを捕捉するのが異常に遅くてランに充てられる時間が少なくなってしまったこともあって、5kmペース走を約5分15秒/kmで。
足部の痛みもほぼ感じられず、そこに関しては安心した。
来月にハーフマラソンを走る予定があるので、また距離も伸ばしていかないと。

恐らくはいじりやすい存在であるだろうから、山本太郎議員がこれでもかというぐらいに槍玉に挙げられているが、国益を損ねるという観点において罪が大きいのは、どう考えてもアントニオ猪木議員の方だろう。
もちろん山本氏が為した行動は常識外れであり、国会議員という立場を鑑みれば批判されて然るべしではあるが、彼自身の頭の中には、政治利用のせの字も欠片もなかったはずだ。
良くも悪くも彼は直情型だから、自分の言動が引き起こす影響を二歩三歩先まで読む、という習性はない。
真っ直ぐな振る舞いがその思慮の浅さによって問題を呼ぶことはあっても、計算ずくのものでは決してない。
これを"政治利用の意図があった"と言って突き回すのは、ひとえに彼が無所属で知名度が高くて、先ほど述べたように"いじりやすいから"に他ならない。
2009年に小沢一郎氏が行った会談セッティング、あるいは今年の沖縄主権回復式典の万歳三唱は、では政治利用に当たらないのか。
憲法違反ではないのか。
充分に議論は尽くされたのか。
大局的に見るとそんなことはだからどうでもよくて、これからの"世界の中の日本"というものを考えた時にもっと強く足を引っ張っている行為をこそ糺すべきだと思う。


♪ Praise - Pat Metheny Group


2013年10月16日(水)

精神の疲れから肉体の疲れへ、そして停滞

ちょうど1か月前の台風18号の時も修羅場だったが、今日の台風26号もそれに負けない鉄火場となった。

そんな困憊の夜、眉間に寄ったままのしわを、筋肉を疲労させることによって和らげるべく、スイミングスクールに行ってレッスンを受けてきた。
4泳法に渡り、1300m。
最後のスイム100m×3がなかなかきつくもあり、気持ち良くもあった。
ただ、ランニングについても同じことが言えるが、私はやっぱり距離が長くなればなるほど相対的に遅くなる。
どうしても持久系ポテンシャルが瞬発系のそれを上回る、あるいはそれに迫ることはないようだ。
思えば子供の頃よりどのスポーツに関してもそうだった。
自分に向いていないことに取り組んでいる意味についてハタと考え込んでしまった、40歳目前の秋の夜。


♪ Yummy House - Kory Clarke


2013年9月21日(土)

第63回定期演奏会

兵庫県立芸術文化センターで、第63回定期演奏会を聴いてきた。
演目は、ワーグナーの「タンホイザー」序曲、ピアソラのバンドネオン協奏曲、そしてブラームスの交響曲 第4番。
開演前のプレトークで佐渡裕芸術監督が仰っていたが、オープンより8年、昨日の公演で、来場客が400万人を超えたとのこと。
これはかなりのハイペースだそうだ。
思えば私もこけら落としの第9に始まり、何度聴きにいったものか。
今日ももちろん満席であった。
そもそもは、バンドネオン協奏曲ってどんなんじゃろか、と興味を抱いてこの公演のチケットを買ったわけだが、ワーグナーとブラームスの方が正直よかった。
前者はオペラの序曲、後者はシンフォニーということで性格は違うが、弦楽と管楽のアンサンブルを堪能するという、オーケストラ本来の魅力が強く表れていたと思う、ともに。
ワーグナーの序曲には目を覚まされたし、ブラームスの4番の第3楽章はガツンとかっこよかった。
コンチェルトの方は本物のバンドネオンの代わりにアコーディオンが充てられていたんだが、そのアコーディオンを弾く御喜美江氏が実に超絶技巧。
プロなんだから当たり前といえば当たり前だろうが、小柄なヴェテランの女性奏者とは思えない迫力だった。
兵庫芸術文化センター管弦楽団(PAC)は、今公演が年度始まりということで、新メンバーが11人ほどデビューしていたようだが、そのせいかまあ若干不安定だったかも。
コンチェルトの時のギロというパーカッションのズレは特に目立ったような...。
それにしてもいつも思うことだけど、演奏は超一流ではないかもしれないが、佐渡裕氏の指揮を4000円で観られるなんて、本当にリーズナブルな幸せだ。


♪ See You in Hell, Blind Boy - Ry Cooder


2013年8月22日(木)

よりによって一番暑い時間帯にやらんでも

今晩は8km余りを6分30秒/kmほどでのんびりジョグ。
全身の筋肉疲労はこれで若干抜けたと思うが、毎度のことながら日が暮れても暑さが尋常じゃない。
今日は特にだな。

あくまで印象だが、今年の夏の高校野球は例年に増して好ゲームが多かったような気がする。
そして、もちろんそれほどたくさんの試合を観戦することができたわけではないが、審判の挙措もまた例年のように話題に上った。
まったくもって仕方のないことではあるものの、プレイヤー同様に審判もまたプロフェッショナルのそれとは技術レヴェルが違うから、どうしても視聴者や観戦者が首を捻りたくなるような判定がしばしば見られることになる。
タイムがかかっているのに気がつかなかった、などといった大層なケースでなくとも、例えばストライク・ボールの判定一つ、アウト・セーフの判定一つで試合の流れがガラリと変わってしまうことは多々あるから。
しかも、高校野球という世界の性質上、そのような判定があったとしても、テレビ放映の中で殊更実況アナウンサーが取り上げたり、スロー再生が繰り返されたりすることはない。
その場の"運"が勝負を支配するだけであって、条件は全チームにとって等しい、と見做せば、審判もまた試合の一部である、という綺麗事で片付けることはできるが、ね。


♪ Drive You Home - Garbage


2013年7月10日(水)

背泳ぎドリルにやられまくり

特に今のような選挙期間中、テレビの報道においてはある特定の候補者や政党を利することがないよう、また不当に貶めることがないよう、その表現には細かい注意が払われる(といっても、たとえ見かけ上の尺や画づらの上でいくら"公正"を心掛けたとしても、そこに恣意的な"編集"や"演出"が介在する以上、完全な不偏不党は無論ありえないわけだが)。
ところが同じマスメディアであっても、紙媒体はそういった縛りが緩やかなような気がする。
確かにテレビの場合は、放送法や民放連の放送基準に則っている側面もあるから、そこらへんはペーパーメディアとは異なる部分があるのだろうが、公職選挙法にははっきりと新聞や雑誌という文言が明示された上で、偏向報道をしないように定められている。
にもかかわらず、新聞はまだしも週刊誌などに至っては、選挙期間中であってもまったく平時と変わらず、候補者や政党を名指しした際どい記事がバンバン並んでいるのはなぜだろう...、と朝から頭を抱えてしまった今日。

夜はスイミングスクールで、背泳ぎ中心のレッスン。
水ガブガブ飲みまくり、鼻からも入りまくりで大変だった。
スイムはまだ何とか形になっていると思うのだが、ドリルが苦手過ぎる。
距離は確か1000m(ウォーク入れて1100m)と少なかったが、疲労度はいつも以上だ。


♪ Dreams - Boyz II Men


2013年6月17日(月)

足掻き中

朝は整骨院で治療して、夜は5.03kmを32分余りでジョグ。
まるでランニングを習慣として始めたばかりの当時を思い出して重ねてしまうほどに、走る体力はまだ戻っていない。
それに加えて、珍しく走った、昨日の草野球での2盗塁が影響しているに違いないが、大腿四頭筋が疲れていた。
情けなさ過ぎる。
普段やっている水泳もランニングもエアロバイクも全部持久系、有酸素運動の要素が強いから、ちょっと赤い筋肉が弱っているのかもしれん。
子供の頃からどちらかというと瞬発系の運動の方がまだ得意な方だったんだが、このままではその小さなアドヴァンテージさえもなくなってしまいそうだ。
苦手な持久力を鍛えていくことも無論大事だが、速筋を刺激する無酸素系のエクササイズもちょいちょい入れていかねば。


♪ 50,000 Miles Beneath My Brain - Ten Years After


2013年5月 3日(金)

プールに行かない祝日の夜

コデマリも美しく咲き開いた5月3日。

アプローチに咲くコデマリ

40年にも満たない我が半生に基づく判断に過ぎないが、憲法そのものにこれほど関心が集まっている中で憲法記念日を迎えることは、最近ではなかったのではないだろうか。
とりわけ、憲法改正の手続きを定めた第96条の改正を現政権が目指しているということが、最も大きく取り上げられている。

本質的な内容についてどうしたいのか、という議論を待たずに、先に改正手続きの方に手をつけようとしていることは本末転倒ではないか、という指摘も多いが、それ以前に、それこそ中身云々に関係なく、現行の日本国憲法は日本国民が定めたものではないので、そのことを以てそもそも正当性は担保されているのか、という疑問を抱くのは当たり前のことだと思う。
戦勝国による統治下にあった時代に、戦勝国が主導して定め、そして施行された憲法であるのだから、例えば戦争放棄を謳った素晴らしさとはまったく関係なく、その出自にこそ問題はある。
そもそも1945~1946年当時の連合国が、純真かつ高邁な思想に立脚して戦争放棄の条文を日本国憲法に入れたとは到底考えられず、別の意思に基づいて制定したのだろう、と見做す方が自然だ。
政党のみならず各新聞社等も独自の憲法試案なるものを発表しているが、確かにそれらには首を傾げざるを得ない条項もいろいろ含まれているものの、自分たちで創出するのだという出発点としては何ら間違っていないと思う。
だから政府も現行憲法に違和があると感じ、変えたいと思うのならば、元々自主憲法の制定を党是と言ってきた自民党なのだから、堂々と「新しい憲法を日本人の手で作る」、とブチ上げてはどうだろうか?
ちゃんと説明しさえすれば、改正発議のハードルを下げる96条改正から始めるなどという言い分よりもよほど賛意を集めると思うのだが。
あるいは、自主憲法の制定こそを目的とした96条の改正でもしあるならば、それを理路整然とプレゼンテーションすればいい。
ただそれと同時に、ともすればネオファシズムにもつながりかねない、現政権が理想としている憲法の中身にまつわる致命的な問題点についても、もし議論を深めていけば鮮明に浮かび上がってくることになるだろう。
まさか、96条改正の具体的な中身として、国民投票の在り方にまでもしも手をつけるのだとしたら、相当危ないと思った方がいいはずだ。
近々の安倍晋三総理は、若年層を中心とする新興人気に乗っかってなのか、より先鋭的な言動に走りがちなのがとても気にはなる。

しかしながら、今の時勢を形成しているより現実的な"改正"論議に改めて目を向けてみると。

そもそもが、憲法とは言うまでもなくすべての法律や条例の礎となるもので、いわば国民が国家を規定し、縛るべきものだ。
つまり、通常私たちが法律と聞いてまず思い浮かべる刑法や民法などと違い、私たちが国会議員や官僚などの公務員の行動規範を定め、三権を始めとする公権力の在り方を制限するという、逆方向のヴェクトルで働く効力を持つことをも、建前としては意味する。
であるから、その規定される対象であるはずの国会が憲法改正についての発議権を唯一持っているのは果たして合理的なのか、という単純な疑いは当然生じてくるのだが、それについては我が国が間接民主制というシステムを採り、国会議員を国民の代表としている以上、おかしくはないのだろう。
そして現行日本国憲法は、立法府である国会に憲法改正の全権を委任しているわけではなく、あくまで発議を行う権利であって、最終的に改正を承認するのは国民投票である、と明記しており、この点については憲法という存在の本質を外していないのが救いではある。

そういった前提はクリアしたとして、改正手続きについて定めた条文を改正する、という命題に対して、なんだか大蛇が自分の尻尾を呑み込んでしまうかのような、パラドックスめいた奇妙な感覚を持ってしまうことが別なる問題だ。
96条ももちろん日本国憲法に内包される1項目であるから、自らが謳うその手続きに従って自らをも変質させ得る、というのは理屈として通るのだが、一方で鳥瞰してみると、その時点でもう日本国憲法そのものが効力を失うんじゃないの、という疑念も同時に感じてしまう。
96条以外のすべての条文は、必要が生じた場合のその改正手続きにおいて、96条が制定当時から述べる取り決めに従ってこそ、初めて有効になる、と考える方がどうもしっくりくる。
少なくとも、憲法の本質的な内容そのものに関する議論よりも先に、96条改正を急ぐ様だけがクローズアップされる現状にはやはり大きな違和感を覚える。

ほんのちょっと前まで私も96条改正議論の表面的なところばかりに囚われ、発議要件を国会議員の2分の1以上にまで落とすのはハードルを下げすぎじゃないか、政権与党が代わるたびに都合のいいように改正する発議を行うんじゃないか、3分の2以上の国会議員が賛意を示すぐらいがいいんだろう、などというズレた感想を持っていたわけだが、それからいろいろな人の意見を知ったり、また自分でも考え続けるうちに、多くのことに気付かされることとなった。
たまにはこんな憲法記念日もあっていいかも。

そんな今日から妻が名古屋の実家にフライング帰省(世間一般的にはこのタイミングが普通か)しており、咳をしても一人状態なので、後輩たちを誘って晩飯は「だしや」にて。
思えば移転以後、晩に来るのは初めてだ。
火鉢の炭火で焼くあれやこれやに、旬のタケノコやホタルイカ、こしあぶらと行者にんにくの天ぷら、だしの効いた唐揚げ等、優しい味に満足だ。
もちろん最後はぶしたまんまと味噌汁で締めて、これは佳き哉。

これに勝るクローザーはなし


♪ Money - Pink Floyd


2013年5月 1日(水)

経済協力って何やねん

おお、これは手応えがあるじゃないか。
ひょっとしたらひょっとするかも。
よし、もうちょっとだけお金使ってみよう。
向こうも「次は期待してね」って言ってるし。
うーん、色よい返事が来ないなあ。
後少しだけ待ってみようか。



以下繰り返し。

北方領土返還を巡る交渉における日本の立場は、出会い系サイトでサクラに騙され続ける阿呆のそれによく似ている。


♪ Poison - Alice Cooper


2013年4月 3日(水)

山桜満開

いわゆる「一票の格差」というやつを巡る高裁レヴェルでの判決が少し前に出揃い、以降、それに関連した政治的な動きや有識者の解説などを目にする機会が増えた。
メディア上の扱いだけ見ると、さぞや世の中を席巻する大ニュースのようであるし、まあ実際瑣末な出来事では決してないんだが、市井に暮らす大半の人たちがそこから捉えている相対的なインパクトは実はそれほどでもなくて、露出度合に比して関心度は低い、という現実も感じられる。
確かに、私は清き0.48票を持っています、と言われても、なかなか広く一般には響きにくいのだろうと思う。
投票者側から演繹的に辿っていくことが分かりにくいのだとしたら、反対に当選者の側から帰納的に考えてみたらどうだろうか?
ある国会議員は有権者50万人を代表しているが、別の議員は25万人の代表である。
しかし2人が国会で行使しうる権限は(少なくとも建前上は)同等。
こう考えてみると、ちょっとおかしいのかも、と思い至るに易くなりはしないか。
さらにこんな出発点に立ってみると、じゃあ選挙区と比例区の使い分けはどうするのだ? 一票の重みを限りなく等価に近づけたとして、過疎地を代表する為政者の声がなくなってもいいのか? そもそも格差が2倍以内であればOKなんていう基準は本当に有効なのか? といろいろな論点が浮かび上がってくることと思う。
表層的な数字をあげつらって伝えることだけに血道を上げるのではなくて、その根っこにある有機的な問題についてもう少し時間と労力を割いて議論を張ってもいいと思うんだが...。

やっていない我が身に対する自省でもあります。

などと言っている間に、うちの山桜が満開かこれは?

トップライトから山桜を見ると満開


♪ The Last Time - Boyz II Men


2013年3月18日(月)

京都・東山花灯路

昨日の昼は、実に16日ぶりとなるスイミングスクールへ行った。
傷めていた左の腓骨筋腱は、平泳ぎのキックの時に若干痛みというか違和感のようなものがあったが、それ以外は概ね問題なし。
とにかく久しぶりに体を動かして、スッキリした。

帰途、「オコナ」で少し遅めの昼食を摂って、オーダーしていたコンタクトレンズを香枦園コンタクトに取りにいって、帰宅。

夕方、再び家を出て、京都へ向かった。
昨日まで開催されていた「東山花灯路」を楽しみに、東大路まで2時間弱の小旅行。
18時半過ぎに現地へ到着し、まずは知恩院にて、巷で噂のプロジェクションマッピングとやらを観てみる。
30分ほど並んだ。
思っていたより随分と迫力があり、また音との連動もしっかり演出されていた。

なかなかの迫力だった知恩院三門のプロジェクションマッピング空には三日月

しかし国宝の三門にこげなことをするとは、浄土宗総本山もなかなか凄い。
恐らくは檀家の苦言等も少なくないだろう。
そういえば、きゃりーぱみゅぱみゅのau絡みのライヴの時にプロジェクションマッピングをしていたのも、同じ浄土宗の増上寺だった。

それからプラプラと南へと歩いていき、円山公園を通過、大雲院前の生け花を横目で見て、高台寺の脇を通り、二年坂、三年坂へ。

円山公園のシンボル、ライトアップされた枝垂れ桜の周囲にも人だかり大雲院の前にはアヴァンギャルドな生け花が狐の嫁入り巡行も見られた道々に置かれている灯がほんのり美しい

「伊兵衛」という店に入って夕食を摂り、さて清水寺でもチョロッと見て帰ろうかな、と21時過ぎに外へ出たら、雨がポツポツと落ち始めていた。
あら、京都は朝まで降らないはずでは、結構早まったみたいだ。
清水寺まで上るのは止め、このまま京阪の清水五条駅を目指して、家路に就くことにする。

さすがに疲れたが、やっぱり京都に来ると心に活が入る。


♪ Could This Be Magic - Van Halen


2013年3月 4日(月)

骨折はしていなかった

セレブマダムの如く、朝からタクシーを自宅に呼んで、笹生病院へ。
改めてレントゲン、そしてCTスキャンを撮った結果、骨折はしておらず、腓骨筋腱を損傷しているという診断であった。
骨に異常がなくて、まずは一安心といったところか。
フルマラソンから一夜明けたが、今回の怪我と前から傷めている左膝の他は特に筋肉痛などなく、まだ助かった。

今日感じたこと。
○靴ってすごい。
ただのスニーカーでも、履いて歩くと痛みがだいぶマシになり、色々サポートを果たしていることがよく分かる。
○病院は、個人的には親切なスタッフもいるが、全体のシステムとしては不親切。
○世の中は、足の不自由な人には優しくない。
○段差一つがこれだけ大きな障壁になるとは。
○松葉杖を使って歩くと肩が凝る。


♪ Porno Star - Buckcherry


2013年3月 1日(金)

レース2日前

今晩はスイミングスクールへ。
初めて、去年赴任してきた元オリンピック選手・Hコーチの指導を受けたのだが、自分ではとても苦手意識が強いバタフライの泳ぎを見て、「失礼ながらクロールよりもいい」と言われてしまい、驚いた。
しかも"今風の泳ぎ方"なんだとか。
フォームやスタイルにも流行り廃りがあるんだなあ。
確かに他のスポーツでも、"理想とされる型"は時代によって異なったりする。
バタフライは、スクールに通うようになった一昨年に0から学び始めたわけだが、なまじ大人になってからスタートしただけに、どうしても体の感覚よりも頭で考える理屈を優先してしまって、考え過ぎた挙句に動きがギクシャクしがちである反面、自己流の変な癖が身についていない、というささやかな利点があるのかもしれない。
これまで教えてくれたコーチの皆に感謝。
でもその他の3泳法も含めて、きれいに、そして長く泳げるようになりたいんだけど。


♪ 鉄格子黙示録 - 人間椅子


2013年2月24日(日)

山と鳥

実のところ、今日行われた「すもとマラソン」というハーフマラソンにエントリーしていて、万全であれば調整として走ろうと思っていたんだが、生憎左膝が万全ではないので自重してDNS。
東京マラソンをテレビ観戦して、昼飯を食べてから山ランに出た。
今日は初めて大沢西宮線の西側を攻めてみた。
まずは北山公園に入って北上、そして北山ダムの南側トレイル経由で鷲林寺を目指す。
鷲林寺に至るまでの舗装路の勾配が結構とんでもなくて、すでに心臓は破れそうだ。

鷲林寺 ここに至るまでがキツかった

そして境内の裏にあるトレイルから観音山を目指して登り始める。
途中、ただの1人の登山者とも行き会わず、登山路はひたすら険しく、両手も駆使しなければ登れない箇所も多い。
確かこの道は...、と思い、帰宅してから昭文社の「山と高原地図 六甲・摩耶」を見直したら、このルートには"○危マーク"がついていた!
やっぱり。

道中はひたすら険しいが、こんな絶景も望める 向こうに甲山と北山ダムが見える

しかし何とか観音山山頂に到着。
家を出てから約45分。

寂しい観音山山頂

それにしても寒い!
標高526mといえども侮るなかれ、ごうごう吹く突風の冷たさが、汗が引いた体に堪える。
晴れてはいるが雪が舞っている時間も長く、また日陰になっているトレイルにも積雪がある。

トレイルには積雪

ここから針路を南に取り、途中で東に折れてカベノ城を通り過ぎ、剣谷登山口から住宅街へと降り立った。
実はカベノ城はぜひ行きたいと思っていて、どこかな、と探しながらずっと走っていたんだが、まったく分からないままに過ぎてしまった。
てっきり違う道を来てしまった、と思い込んでいたが、後でGPSの経路を見たらちゃんとカベノ城を通っているじゃないか。
あれ~?
剣谷からは大沢西宮線を下り、北山緑化植物園から北山公園に侵入、再び北山ダムまで出て、帰宅した。
1時間41分13秒で距離は10.56km、高度上昇482m。
尾羽の青が美しいルリビタキが目の前を横切ったのが印象的だった。

肝心の左膝は、まったく痛みを感じないまま快調に走っていたんだが、途中で木の根に躓いてズッコケてしまい、その時にあろうことか左膝そのものを痛打、それから痛くなってしまった...。
アホ過ぎる。

トレイルランニングも少しずつ経験を重ねてきて、なんとなく走り方が分かってきたような気がする。
下りでいい感じにスピードが乗っている時は、その速度に怯んで下手にブレーキをかけようとしたりすると、後傾してしまったり足を置く場所に迷ったりして、却って転倒の危険が高まる。
この辺りはスキーやスノーボードとも通じるものがある。
重力に自然に身を任せながら、かつ路面状態には気を配りながら駆け下りるべし。
安全を確保するために集中力を持続することを要求されるから、体よりも脳が疲れるかも?
しかしこんなとこで例えばトレイルから外れて転げ落ちたりしたらまず発見されないだろうから、1人で山に入るのは危険だな、よく考えたら。

コケないように集中して駆け下りる

昨日のロルフィングの影響か、なんとなく筋肉痛のような疲労感を朝から両脚に感じていたんだが、それに加えての山ランで大臀筋を中心に心地よい張り。

晩は「アルテシンポジオ」で夕飯。
荻堂シェフより、キンクロハジロという水鳥が入荷したと連絡が入り、早速訪れた次第。
鴨の仲間の渡り鳥だが、食材としてこの名は初めて聞いた。

いつもの軽食の後、前菜はキンメダイのカルパッチョに、色々な野菜が載ったバッファローのモッツァレラチーズ(私はチーズの中でもモッツァレラが一番好きというのもあるが、それにしてもクリーミーな絶品だった)、パスタがカキのタリオリーニ(坂越産のカキの身が厚くて最高)で、魚がカダイフを衣にしたタラのフリット、そしてメインディッシュのキンクロハジロ。

イタリア直送のバッファローのモッツァレラカキのタリオリーニ各部位が盛りつけられたキンクロハジロ

キンクロハジロは、手羽、胸、モモ、心臓、肝臓、砂ずりと色々な部位を少しずつ出してくれたんだが、例えば手羽と胸とモモの肉の味わいがそれぞれ異なっていて、とても面白い。
そしてキンクロハジロは貝を殻ごと丸呑みするという習性があるため、砂ずりが発達しておりデカいのなんの。
堪能した。
オリーヴの実が入った自家製パンもとても美味かった。
ごちそうさまでした!


♪ The Boss's Car - John Scofield


2013年2月 6日(水)

ランニングラボ結果

先日アシックスで測定を受けたランニング能力の結果が送られてきた。
改善すべき点を中心に、ざっくりと私が気になったのは以下の通り。
・意外なことにどちらかというとストライド走法だった
・ランニングフォームは、上下動が大きめ
・着地時の衝撃力を受けやすい走り方
・左右の脚の筋力差が大きい
・交通事故の後遺症があるので分かっていたが、左足は柔軟性やアライメントにおいて不利が多い
・今回の分析から導き出されるフル&ハーフマラソンの予測タイムは、私が目標としているタイムよりだいぶ速かった!
おそらくは顧客サーヴィスの一環として、最大限に能力を発揮した場合を見越した些か楽観的なタイムを提示しているような気はするが、「頑張ればここまでは到達できる」という目標を与えてもらったつもりで精進しようではないか、こうなったら。
また1年後とかに同じ測定を受けてみたいな。

今晩は8kmのペース走を行ってきたが、できれば5分/kmでいけるとこまで突っ込んでみよう、と思ってスタートしてみた。
が、時を惜しんでアップをせずにいきなりペース走に入ったのも祟ったか、そのペースを守ったのは僅か1ラップ、2周目には早くも5分10秒に落ち込んだ。
最終ラップはついに5分22秒にまで沈んでしまい、あえなくトータルの平均ペースは5分14秒に終わった。
5分で走っているペースを5分10秒に落とせば感覚は大きく変わるし、5分20秒まで下げればさらに劇的に楽になる。
そのペースを練習によっていかに押し上げることができるか。
かつて瀬古利彦氏が、まずは長く走り続けられるようになること、次に長く走り続けられるそのスピードを高めること、マラソンとはそういうものだ、と語っていたと何かで読んだ記憶があるが、まさに簡潔に競技の本質を言い当てている言葉だと思う。

iOSを6.1に上げてからだと思うのだが、どうにもiPhone4Sのバッテリーの持ちが悪くなったと実感する。
無論中毒者ではないし、それほどヘヴィユーザーでもないのだが、夜まで待たずに要充電。
バックグラウンドで蠢くアプリどもは停止しているはずなのだが...。


♪ What's With The World ? - Michael Monroe


2013年1月24日(木)

本当のこと

火曜日に1km5分半ちょいのペースで約8kmのランを行い、今日は1500m×4のインターヴァルをする予定が、私がガーミンの操作を誤ったため、急遽1500m+2000m+2000mのインターヴァル(若干レペティション)に変更して走った。
本日も総走行距離は約8km。
何とか1km5分前後のペースで攻めきりはしたが、依然として体が重い。
明らかにハーフ、そしてその翌週のトレイルランの疲れが積み上がっている。
自覚が薄くとも、蓄積疲労を舐めたらアカン。

真実、というものが他者にはなかなか正確に伝わらないことは分かっているが、それに至る以前の、事実、ですらそうなのだ、という思いを日々新たにしている。
テレビや新聞で報道されていることは原則として一次情報、つまり当事者に取材をしたり現場に足を運んだりして得たものをフィードバックしているわけだが、それがすなわち起きた出来事を正確に表現しているということではもちろんない。
殴られて血が出たとか、何人の身元が判明したとか、そういった客観的な情報は正しく伝えることができたとしても、それ以上の、いわば現場に漂う"空気"のようなものを含めた一連の"事実"(これでも真実には決して届かない、事実のレヴェルだと思う)を報じることはできない。
よく、男女間の事情は当事者にしか分からない、などと言われるが、すべての出来事にその論法は当てはまるはず。
子供と教師はどういった経緯と状況で、どんな思いをそれぞれが抱いた上で殴り殴られたのか、周囲の子供たちを含めた日常的な相互信頼関係はどんなものだったのか...?
それらの、抽象的ながらも欠くことができない情報を失った段階では、第三者は"何が正しいのか、誰の言い分が真っ当なのか"ということを判じることはできないと思う。
実際に同じ出来事を経験した当事者たちですら、語る内容はその口によって変わってくるのだから。
少し角度を変えてみて、例えば犯行の動機なんかも分かりやすく説明できないケースは多々あるだろう。
犯行の動機などと大それたことでなくとも、誰にだって「なぜあんなことをしてしまったのか自分でも分からない」という経験の1つや2つはきっとある。
人間は理性的な生き物だし、何にでも理屈をつけることが好きだが、所詮は矛盾や破綻をたくさん内に抱えて生きている存在なのだ、京極夏彦風に言うと。

我々は日々の生活の中でも、他者に意思を伝えることの難しさを頻々と感じるわけだが、マスコミュニケーションはそれに輪をかけて至難だ。
一次情報を0次情報に近づけよう、という試みこそがそもそも不遜だというのならば、せめて正確性を高めた一次情報を伝達することに努めて、あとは受信者の感性に委ねることがベストな選択肢なのだろうか。


♪ Karma Cleansing - Harem Scarem


2013年1月14日(月)

我が身を正す意を込めて

先ほどNHKの「ニュースウオッチ9」において、「来年4月に消費税が8%に上がり、再来年10月には10%に上がる」ことが既に"決定事項"であるという風に断言したリード原稿が読まれていたが、余りに乱暴過ぎる。
確かに法案は可決したが、その附則第十八条では、「この法律の公布後、消費税率の引上げに当たっての経済状況の判断を行うとともに、経済財政状況の激変にも柔軟に対応する観点から、第二条及び第三条に規定する消費税率の引上げに係る改正規定のそれぞれの施行前に、経済状況の好転について、名目及び実質の経済成長率、物価動向等、種々の経済指標を確認し、前項の措置を踏まえつつ、経済状況等を総合的に勘案した上で、その施行の停止を含め所要の措置を講ずる。」と明記されているではないか。
つまり、景気が悪いままならば、あるいは消費税を上げると日本経済にとってマイナスになる、と時の政府が判断した場合は、消費税増税を停止する可能性を残す、という旨が謳われている。
例えこれが決して履行されない綺麗事に過ぎないとしても、建前、ルールとして定められている以上は、それを無視して報道をするのは極めて粗雑に過ぎる。
立ちションして逮捕されることはないかもしれないけど、弁護士や警察官が「立ちションしてもかまへんよ」とは言ってはいけないだろう。
ましてや、ただでさえなし崩し的にアンバランスな為政がずっと行われつつあるというのに、マスメディアが"消費増税ありき"という誤った前提で喧伝するなんてことは、絶対にあってはいけないと思う。


♪ Going To California - John Paul Jones w/Paul Gilbert, Nuno Bettencourt, & Steve Hackett


2013年1月11日(金)

えべっさんとか

仕事終了後、スイミングスクールへ。
レッスンは背泳ぎとバタフライだった。
レッスン+居残り50m×3本泳いできた。

家に帰るルートの近在に西宮神社があるのだが、周知のようにこの3日間ほど人だかりがものすごく、移動するのにもかなり時間が掛かる。
本当に関西の人は"えべっさん"が好きだなあ。
私も関西圏に住むようになって既に21年が経とうとしているが、根っこが関西人じゃないせいか、このえべっさん然り、未だにピンとこない土着文化がいくつかある。
まあ地域性の問題というよりも、単に私の内にある価値基準の話なのかもしれん。


♪ あさくらさんしょ - ザ・クロマニヨンズ


2012年12月28日(金)

暗闇インターヴァル

まさに着替え終わって走りに出ようとした9時過ぎ、雨が降り始めた。
もう少しもってくれると希望的観測を抱いていたんだが...。
この季節に雨に打たれて練習する耐性はないので、残念ながらランは断念。
近所にヴィジター利用できるスポーツジムもないから困ったものだなあ。

午後、今年最後となる水槽の水換えと清掃。
前回に引き続き、小規模ながら水難事故を引き起こしてしまい、再び猛省。

今朝は走れなかったので、予定外だがエクストラで今晩はスイミングスクールに行って心肺トレーニングだな、と決めていた。
そんな夕方、ふと気がつくと降り続いていた雨が上がっているではないか。
この機を逃すか、と急ぎ準備をして走りに出た。
しかしこの時既に17時過ぎ。
あといくらもしないうちに真っ暗になるので、先日買っておいたヘッドランプも装着だ。
北山ダムの半周回コースで、1500m×4本のインターヴァルにチャレンジ。
レストは400mジョグ。
地球の裏側に住む、元実業団ランナーのIさんのアドヴァイスに従い、少し1本あたりの距離を伸ばしてみた。
案の定、1本目を走り終える頃には辺りは真っ暗闇に包まれ、先月「2度と行くまい」と決意した恐怖の只中に、結果として再び舞い戻ってしまった。
前回よりもその回数は減ったが、自分の足音にビクッと驚いて周りをキョロキョロ見回しながらのランニングになった。
タイムは、7分56秒、8分14秒、8分3秒、7分43秒。
1500mという距離に恐れをなして、少しペースを抑え過ぎたかもしれん、ラン後の疲労度から鑑みると、もうちょっと追い込むべきだったかも。
込み込みで8.62km。

1500mというと、中高時代の体育の時間の"持久走"がまさにその単位だったが、当時より2分も3分も遅いとはいえ、持久走が苦手でたまらなかった私が39歳にもなってそれを続けざまに4本も走っているなんて、しかも誰にも強制もされずに、まったく考えられない事態だ。
走っている最中、時折、自分が走っている意味が分からなくなって戸惑うことがあるが、きっと意味などないのだろう。
それが生きるっていうことだ。


♪ Love You - Primal Scream


2012年12月23日(日)

トレイルランナー気分

つい朝寝をしてしまい、朝食を摂って10時半からランへ出た。
今日は甲山(標高309m)に登るトレイルランニングにチャレンジ。

神呪寺から登る

神呪寺の登山口から、東側の登山道をまずは登る。
7~8分ほどで何とか山頂に到着、下りは北山ダム側へ。

甲山山頂は冬の装い

そしてもう一度北山ダム北側の登山口から山頂まで登り、神呪寺へまっすぐ下りるトレイルを下る。
シューズはクッションのしっかりしたゲルニンバス13を履いていったんだが、ロード用の靴なので山では滑る。
特にこの季節は落ち葉が積もりまくっていて、さらに雨上がりだったので何度か転がり落ちかけた。
やっぱり不整地用のシューズを履いていかんと危ないな。
他にも、トレイルには岩石がゴロゴロしていたり、木の根が飛び出しているのでそれも危険ではあるが、常に数歩先の路面状態に神経を集めながら、ロードとは違って四肢および全身を駆使して進んでいる感覚は、なんだか自分まで山の獣になったようで爽快な気分だ。

このような岩石が結構危ない

2度目の下山後は、甲山キャンプ場の方をグルリと回り、そこから五ヶ池ピクニックロードを北上し、仁川ピクニックセンターと名付けられた緑地に走り入ってみる。
昔はアスレチックがあったり賑わっていたところらしいが、そんな面影はまったくなく、手つかずの山中にただトレイルが張り巡らされているだけ。
野生動物の気配もそこかしこに漂っている。

ピクニックセンターとは名ばかり、このようなトレイルが続くばかり

再び甲山キャンプ場まで戻ってきて、もう1回だけ甲山に登っとく。
大腿部とケツの筋肉が悲鳴を上げつつあり、山頂まで10分掛かった。

本日3度目の甲山山頂

神呪寺に下りて帰宅、走行時間は2時間1分。
高度上昇値は523mだった。

さすがにふくらはぎが疲れてちょっと痛い。
また、オフロードを走っている時、捻挫まではいかなかったが左足首と足裏がちょっとだけヤバかった。
左はやっぱり着地が不安定なんだな。


♪ If It Run - Chris Minh Doky


2012年12月17日(月)

もう眠いなー

"祭り"が終わって区切り直し。
現職・元職問わず閣僚経験者などの著名政治家が多数落選するなど、言い方は悪いが"見せ場"も多かった衆議院選挙だったにも拘わらず、驚いたのは戦後最低という投票率。
ただ落ち着いて考えてみると、これこそが"消去法"による選択しか残されていなかった、という証左だと分かる。
少なくとも多くの有権者がそう感じていた。
この3年余りのうちに、国の舵を切っていく能力を持っていなければならないはずの為政者たちが軒並み無能かつ嘘つきで、保身を第一に考える俗物であるということを私たちは改めて知ったわけだが、かといって1955年から2009年までの期間の殆どにおいて政権を担っていた党にほとほと愛想を尽かした3年と少し前の記憶を大方忘れてはいなかった。
政治に関心がないわけじゃないし、どうなってもいいと思っているわけでもない。
現政権がどうしようもないということは分かっているが、かといって期待を込めて希望を託すことができる宛先がない。
今回の衆議院選挙は後々振り返ってみた時に、ひょっとしたら憲政史上でも稀に見る重要な選挙だった、という可能性もないわけじゃないと私は思うが、そんな機会にすら最低の投票率しか記録することができなかった、という事実は、国民のこのようなもやっとした不満が投影された結果なんじゃないだろうか。
街のおじさんが代表して、上手く言葉で言い表していた。
「期待なんかそらでけへんよ、でも期待せんとしゃーないねん」。

寝不足ではあったが、今日の仕事終わりでトレッドミルを30分、10.5~11km/hで走ってきた。
バッチリ外を走る用意を持っていっていたのだが、夕方から思わぬ雨で、残念。

ザ・ノースフェイスのヘックス メッセンジャーというバッグを購入した。
容量は35lと大きめ。
通勤に、スポーツに役立ってもらおう。

ヘックス メッセンジャー 35l

新しくなった阪急百貨店のイングスで買ったんだが、なんだか店舗のレイアウト、商品ラインアップ、店員の接遇等々、トータルで「うーん」という印象だ。
自社の製品の知識がない店員が少なくない。
前のイングスの方がなんか買いやすかったなあ、慣れ?


♪ Well...All Right - The Crickets


2012年12月12日(水)

一昨日あたりの所感等

今日はニュースがてんこ盛り、3日分のご馳走を一気に無理やり食べたような気分だ。

こちらは2日ほど前の出来事にまつわる話。
全国各紙の差異が比較的小さくなってきた、と近年よく言われるようになったと思うが、このたびの敦賀原発の断層調査の件に関しては、記事の論調が真っ二つに分かれていて、各新聞社のスタンスが非常に分かりやすく伝わってきた。
社是が末端の現場まで行き届いていることに改めて驚くとともに、人が何かを表現するということはその時点で既に"主観"そのものなのだから、各メディアの主張する筋道にヴェクトルの違いがあってももちろん当然なのだが、そのメディアが須らく企業体であり、様々な経済的政治的しがらみと無縁でない以上、"公器"としての限界はこの世が終わるまでつきまとうんだな、という諦念も同時に再認識した。
その前に、敦賀原発を巡る今回の一連の動きそのものにも、どうしようもなく不可分な既得権益その他の魑魅魍魎がへばりついているわけなのだが。
人間一人一人の頭の中では大方シンプルで合理的な判断ができるはずなのに、主体が法人や自治体やあるいは国家といったコミュニティ単位になると、途端にそれができなくなり、文字通り衆愚と化す、という現象はこの国だけのものなのか、それとも古今東西問わず普遍的な習性なのだろうか。

今晩は後輩・Aとともに夜ランに出掛け、私は少しきつめの5分15秒~30秒/kmほどのペースで5km。
体は実に正直なもので、会社泊明けで寝不足の心肺は情けなくも若干音を上げそうだった。

ちょっと遅めの夕飯は妻と「サンギュ」に行ったが、私の誕生日祝いということで、貴重な一皿をサーヴィスしてくれ、感謝!


♪ Midnight - T.Rex


2012年12月 4日(火)

不思議に思うこと2つ

ここ数十年の間、主張している内容がまったく変わっていない日本共産党は、好みは別としてある意味パーティーとしては筋が通った存在だと思うが、「アメリカの言いなりになるな」と言う一方で、占領下という特殊な状況の中、連合国の意向を大いに反映して制定された現行憲法を護ることにあれほど拘るのはなぜなんだろう?

早速始まったが、迷惑以外の何物でもない、選挙カーからの大音量撒き散らしが認められていて、立候補者が公示期間中にブログやSNSを更新することが違法とされるのはなぜなんだろう?


♪ The Way You Love Me - Michael Jackson


2012年11月26日(月)

実は合理的な配置だったのか、アレは

喉と頭の辺の感じが若干風邪気味っぽくはあったんだけど、こんな時こそちょっくら汗かいとかないとな、と会社最寄のトレーニング施設でトレッドミルを30分だけ走ってきた。
走るための脚の筋肉を鍛えることにはあまり向かないかもしれないけれど、トレッドミルはフォームをセルフチェックするのには適している。
骨盤は適度に前傾しているか、足が外に流れてはいないか、肩甲骨はちゃんと動いているか、などなど。
そうやって集中しながらマシンを踏んでいると、自分の左右バランスが悪いことが今日、改めて感じられた。
右足は真っ直ぐ前に運べて、踏み込みもしっかりできている感覚が得られるけど、左は全然。
小学校1年生時の交通事故の影響があるとは思うが、ここらへんもできる限り矯正していかねば。

それにしても、私は普段ロードやトレイルを走っている時も比較的"走ること"に集中していて、いわば"如何に合理的な走る機械になりきるか"ということばかり考えて走っており、音楽も聴かないし、風景がそれほど変わらない河川敷であっても、公園の周回コースであってもまったく平気なんだが、今日のようにただただ白い壁に向かって黙々とその場で走り続けるトレッドミルはさすがにきつかった!
同じ30分でも、外を走る30分の倍ぐらいには感じられたぞ。
よく電車の窓なんかから、ガラス張りの大きな開口部の向こうでこちらの方を見ながらトレッドミルに乗っているスポーツジム会員の人々の姿を目にして、失礼ながらちょっと滑稽だななどと思っていたりしたわけだが、あんな風に外を走る電車でも眺めていないと、とても何十分もその場で足踏みを続けることは耐えられないのだろう、ということが身に沁みた今夜。


♪ Fire - Red Hot Chili Peppers


2012年11月22日(木)

ホモ・サピエンス

昨夜走った時、また俄かに左ふくらはぎの痛みが襲来しかけたので、今夜のランは大事をとってほぼ6分/kmとゆったりめのペースを維持して、約50分。
ふくらはぎは何ともなかったが、今度は右膝の裏の筋にほんの少しだけ痛みを感じた。
なかなか万全とはいかぬもので。

ちょろっと公園を走っているだけでも、野良猫たちを餌付けする人や、ところ構わず歩きながら喫煙する人や、リードをつけずに飼い犬を歩かせる人なんかを目にして、なんだかなあ、と感じるわけだから、いじめ、というものはどうしたって根絶するものではないんだろうな、という感慨に始まった思考が巡り巡って、やっぱり"自然"って何なんだろう? というおなじみの問いに舞い戻った。

野生動物の世界において、体が大きく力も強い個体が例えば食物を独占して、その結果脆弱な個体が淘汰されてしまったとしても、それは自然のことなので仕方ないなあ、と大方の人は納得する。
が、人間社会で、ジャイアン的な人がのび太的な人を力で押さえつけ、おやつやおもちゃを強奪したとなれば、誰も「仕方ないなあ」なんて思いはしない。
もちろん理性で欲望を律し、他人を思いやることができることこそが、人間が人間たる所以であるわけなんだが、じゃあ動物たちと人間を分かつラインはどこにあって、それは誰が引いたものなのか、と考え出すと、いつも袋小路にはまって行き詰まってしまう。
中には一部の類人猿やゾウなどのように、人間でなくとも高い社会性を備えている動物群は、生存競争に負けてしまいそうな弱い個体を助け、守ったりすることもあるから、余計に訳が分からなくなる。
鳥がいろいろな材料をどこかから持ってきて巣を作り上げる行為は"自然"だけれど、人間が土地を切り拓いてビルを建てることは"自然破壊"である。
こういった表層的な前提が引っ掛かり出したら、答えの出ない思索はもうとめどがない。

本能につき従う多くの生き物よろしく、例えばハンディキャップを抱える人を見殺しにしても仕方ないんじゃないか、なんてことは極論にしたってもちろん思わないけれど、本質的には、人間が弱い者いじめをすることも地球環境を汚染することも科学技術を発展させていくことも、動物の一種が行う"自然な営み"に過ぎないと私は考える。
人間だけが特別だ、と定義することの方に対して、違和感を覚えてしまう。
医療の分野だって然りで、生命体を複製することにつながる技術を反倫理的だとして遠ざけようとする考えもあるが、じゃあかつては不治の病と思われていた難病を治療に導く手法や薬が次々と編み出され、"死んでいたはず"の人の寿命をどんどん伸ばしたり、"生まれなかったはず"の命を救い上げている最先端医療は、それらとどうやって区分されるのか? という疑義も同様に湧き起こる。
そして答えを今私は持たないし、死ぬまで持つことはない、ということは分かっている。

そもそもこんなしょうもないことを考えてしまうのも人間だけ、あとの生きとし生けるものたちは、ただただ、生きている。

私たちは人間である前に、動物である。


♪ Red Sector A - Rush


2012年11月15日(木)

それでもこの国で生きていかねばならぬ

中5日、本日よりランニング練習を再開した。
気合いを入れて、というかまあ夜のスケジュールの都合もあって、今朝6時に起きて朝ランを敢行。
さすがに寒かったが、先日購入したアシックスのシャカシャカするウェア上下を着て走ったらすぐに汗が出る。
北山ダムの周回など、トレイル込みの3.53kmを21分46秒で。
家に帰ってきたら、少しだけまたふくらはぎが痛み出したが、一日過ごして夜になったらほとんど治まっていた。

昨日のアレから仕事の方は立て込んできて、今から一か月はバタバタすることだろう。
もちろん現職の野田佳彦総理含め、右も左も真ん中も非ず、パーティーとしての体をなしていない民主党を支持する意思は毛頭ないが、昨日の党首討論に限って言えば安倍晋三総裁を圧倒していたことは間違いない。
腹を括ればあれだけの迫力を纏って堂々と言を述べることができるんだな、と素直に感じた。
あやうくここに至るまでのデタラメぶりを忘れてしまいそうなぐらいだったが、無論そんなわけはない。
換言すれば、死に体のまま長いこと蠢き続け、すでにゾンビとなって無敵化したからこその威圧的な特攻だった、と言えるのかもしれない。
対して安倍氏の方は、ずっと求め続けていたはずの言葉が突然飛び出してきて驚いたのか、あまりにとんちんかんな受け答えを繰り返すばかりで、「この人がまた総理になるのか...」と不安を抱かせるに足る醜態だったと思う。
さらに、乱立する小規模政党たちがどうにかして第三極などと称される大連合を組めないかと、表に裏に動いているようだが、それこそ前提となる原則的なポリシーの一致すら必要ないと無視を決め込み、合体ありき、をまず結論に据えて、選挙で生き残ればいいという、いわば理性を欠いた生存本能のみに拠って彼らは這いずり回っているということをほとんどの国民は感じ取っているのだが、それを当事者たちは知っているのだろうか?
一部の関係者を除いて、国民が望んでいるのは"政局"ではなく、中身のある"政治"、ただそれだけなのに。
沈まない船はどれだ、どこにあるんだ、と血眼になって探し回っているあさましい姿はすべて見透かされているよ。
衆議院選挙の日取りが決まったところで、投票したいと思わせてくれる政党、候補者が見当たらないというのが、今の日本が抱える不幸だ。


♪ America - Simon & Garfunkel


2012年11月 1日(木)

バスケットボールの話

さらにほんの少しだけペースを上げて、平均5分33秒/kmで今宵は6.19km。
お伴はAくん。
走り始めはさすがに寒いな。

今年度の巨額赤字の見通しを発表したパナソニックが、バドミントン部とバスケットボール部の休部も同時に正式表明した。
バドミントンに関してはまったくの門外漢だが、一バスケ好きとしてトライアンズ(未だにスーパーカンガルーズの方がしっくりくるのだが)の活動休止には少なからずショックを受けている。
が、理屈の上では、本業が結果を出せていない以上、いわば余技であるスポーツクラブ活動にこれ以上金を使うことはできない、という判断が至極真っ当なものに過ぎないことももちろん自明だとよく分かる。
だからこそ、なぜ早く一元化したプロリーグを作らないんだ、日本バスケットボール協会さん? という憤慨をまたしても覚えてしまうのだ。

かつてこのブログでも、福岡レッドファルコンズの問題が発覚した時に僭越ながら外野から勝手なことを書かせてもらったが、当時から7年近くが経過した今も、本質的な状況はまったく変わっていない。
去年だったか一昨年だったか、JBLとbjリーグがごく近い将来に一つになって新しいプロリーグを創る、なんて発表があったけれども、いつの間にかそれも反故にされ、来年からスタートするNBLとやらも、結局はほぼbjからはチームは参加せず、実質JBLの単なる後継リーグに過ぎない。
JBAだかトヨタだが知らないがとにかく既得権益にしがみつく老害あるいは変革を恐れる盲目的な真正保守人間たちによって、組織の合理化が明らかに妨げられている。
客から金を取って見せる興行としてスポーツを成立させるためには、他に本業を持つ企業体にサラリーマンとしてプレイヤーが籍を置く、なんてスタイルが今やもう通用しなくなりつつあることは誰にでも感得されている。
例えばこのたびのパナソニックのように単年度の赤字額が7650億円になろうなんて時に、その企業が保有するスポーツクラブが存在し続ける方が有り難いのは理論的に正当なのだから、スポーツ興行そのものを営利目的とする企業がそのチームを運営すればこんなことは起こらない、という筋道だって簡単に分かるはず。
もちろんその場合でも、客の入りが悪くて利益が出なければ経営母体が替わることもあるだろうし、引き取り手がなければ解散に追い込まれることだって充分にありうる。
だがそういったケースは、本業不振によって経費節減のために一部署が閉鎖されるような休部劇とはまるで性質が違う。
ファンに悲しみは与えるだろうが、今回みたいにいまいちストンと腑に落ちない違和感のようなものは生まないはずだと思う。

相変わらず対立が続いているJBL=JBAとbjリーグだが、プロスポーツとしての演出、パフォーマンスにより力を注いでいるbjリーグよりも、旧態依然とした日本リーグ時代をそのまま引きずったような雰囲気のJBLの方に、有望で能力の高い選手が集まっている、という現状もまた変わっていない。
試合の魅せ方は面白いんだけど残念ながら日本のトッププレイヤーたちが集結しているとは言えないbjリーグと、エンターテインメント面は未熟だけど間違いなく日本代表クラスが揃っているJBL、という不可解な"ねじれ"が日本のバスケットボールシーンには存在している。
ただでさえ裾野が狭い我が国のバスケットボールにとって、これは間違いなく大きな不幸なのだ。
原因が何なのか、どこにあるのか、それもバスケットボールを愛する日本人には見えている。
ゲームの前後には洗練された演出が施され、コートの上には日本代表を争うトッププレイヤーたちが...、というリーグを私たちが目にすることができる日は訪れるのだろうか?

こうなったら河内さんしかいません、お頼みします。


♪ Plastic Man - The Kinks


2012年10月21日(日)

獣道ラン

今日の午前中は帝国ホテルの会議室にて、政治や経済や報道のあり方などについて語り合うという、なかなか非日常的な懇話会に臨席してきた。
私もいくばくかの意見は述べさせてはいただいたが、一番の若輩者故、諸先輩方の言葉に耳を傾けて勉強をさせていただく、という時間が主となった。

夕刻、ちょっと長めのランに出る。
いつもの北山ダム周回から甲山森林公園を回ってくるコースを今日は2周、時間は97分少々に及んだ。
距離は15kmにも満たなかったが、高度上昇値は、ガーミンを使い出した去年8月以降のランでは最高となる299mに達し、それなりの負荷は掛かっただろう。
来週は120分以上走ろう。

山の中には、イノシシが土を掘った痕跡や足跡が多数見られ、そんなところからも秋が感じられた。
駅近のマンションに住んでいる時には、こんな形でも季節の移ろいを意識させられるなどとは努々思わなかった。


♪ The Fourth Reich - Warrior Soul


2012年9月21日(金)

久しぶりの金曜水泳

仕事終わりでスイミングスクールへ。
いつも土曜日に行っているのだが、明日は祝日につきスクールが休みになるので、久々に平日夜に参加した。
元々は平日にずっと通っていたので、馴染みの顔もたくさんあって、やっぱり行ってみると土曜よりも平日の方がホーム感があるな。
1週間の仕事の疲労が蓄積されたピークの金曜夜ということで、最近泳いでいるマスターズコースではなくて1つ下のバタフライコースでのんびりレッスンを受けた。
それなのに筋持久力の不足をやはり如実に感じる。

巨人が早くもリーグ優勝か。
それにしてもクライマックスシリーズの存在ももちろん影響しているのだろうが、昔はプロ野球のリーグ優勝が決まる時ってもっと日本中大騒ぎしてたような気がするけどなあ。
確実に時代は変わっている。


♪ Crosstown Traffic - Jimi Hendrix


2012年9月16日(日)

今日一日の流れその他

スリランカ旅行記の全日程分をアップした。

今朝は9時から走りに出てみたのだが、この時間になると相当暑かった。
久々に北山ダムの周回から神呪寺の方を回って帰るコースを行ったが、これまで21分35秒~22分50秒の間で走っていたこのコースを、今日は23分28秒と初めての23分台。
だいぶ鈍ってるな。
昨日の水泳の疲れもあったかもしれんが、それにしてももう少し頑張らねば。

ランといえば、以前録画していた「NHKスペシャル ミラクルボディ」の第3夜、マラソンの回を遅まきながら観た。
よくできた番組なのでもちろん見応えはあったが、今のアフリカ選手たちの間で常識になりつつあるフォアフット(踵ではなく爪先の方から着地する)走法について、"この走り方だと筋肉の疲労が少なく省エネになる"という目線だけで斬っていたのはちょっとアカンやろ。
無論そういった一面もあるのだろうが、その前に生半可なふくらはぎの筋力ではそもそもフォアフットで走り続けることはできないはず。
これだけ科学的トレーニングやスポーツ理論が進んできている世の中、フォアフットで誰もが速くなるのだとしたら、世界各国全選手がその走り方をしているはず。
そうではないのはなぜか? というところまで表現するべきだったと思う。
あれでは、"皆フォアフットで走ったらええやん?"という疑念だけを視聴者に抱かせてしまう。

午後、敷地内のニセアカシア伐採作業で汗だくに。

ガレージの隅に自生しているサンショウ

それから妻と近所を散策に出てみた。
すぐ近くにあるのに知らなかった、というか目に入っていたはずなのに見過ごしていた、"甲山四国八十八カ所"というものを改めて見つけ、回ってみることにする。
その名の通り、四国八十八カ所をそのまま小さくして甲山の麓に再現した、という主旨らしい。
それぞれの札所に小さな仏像や地蔵のようなものが置かれている。

甲山をバックに仏と鬼と?

ちょっとしたトレッキングのようでもあり、なかなか楽しい。
巡礼の最後が八十七番で終わっていたので、はて? と思ったのだが、神呪寺に行ってみると、なるほどここが八十八番だったか。

栗が落ちていた そんな季節か

民主党と自民党のダブル党首選が今や政治ニュースの柱か。
全体として迷走している民主党はもはや埒外として、すでに世間の関心は自民党総裁戦の方により強く集まりつつあると思う。
仕事上の必要もあって、各候補の発言なんかをつぶさに聴いたりしているわけだが、5人の中でも町村信孝氏と石原伸晃氏がより説得力に欠けるように感じる。
週末のテレビ出演などを観ていると町村氏の方はやや挽回しているような気もするが、石原氏はとにかく最後までズレているな。
質問に即さない回答を居丈高に返すという、まさに昭和の政治屋スタイル。
かといって安倍晋三氏は5年前の遁走が記憶に新しいだけに、とてももう一回託そうという気にはならないし、林芳正氏は意外としっかりした人のようだが、いかんせん勝機があるとは誰も思っていない。
ということは消去法で石破茂氏が残ってしまうわけだが、果たして?

夕飯はテラスで食べた。

テラスで晩ごはん


♪ Light Years - Pearl Jam


2012年8月13日(月)

今夏のバスケットボール

オリンピックが閉幕した。
男子バスケットボールのアメリカ代表は、何とか金メダルを獲得したようだが、未だ試合はちゃんと観られていないものの、第3クォーター終了時点で僅か1点差と、決勝は薄氷の勝利だった様子。
思えば今回の代表チームは初代の"ドリームチーム"と何かと引き合いに出されることが多く、また予選リーグでも圧倒的な試合運びを続けたため、ちょっとした慢心もあったんじゃないか?
当事者たちの頭にはアテネの悪夢がよぎったに違いない。
いずれにせよ20世紀末からUSAチームが楽に優勝を勝ち取ってきた国際大会はないわけで、毎度議論になるけれど、バルセロナの時の代表チーム以外に"ドリームチーム"という呼称を使うべきではないと思う。
ただ、"優勝の確率が最も高いであろうチームがUSA代表"というだけのことに過ぎない。
録画してある決勝トーナメントをゆっくり観られるのはいつになるか...。

夏の間にNBAの再編も進んでおり、いつの間にかネッツはブルックリンになってるし、レイカーズにスティーヴ・ナッシュばかりかドワイト・ハワードまで加わり、ニックスにも実力者が揃って一気にリーグ上位のチームに、さらにはブランドン・ロイが復帰だとか。
他にもマヴスの顔ぶれも面白いし、ジェレミー・リンがあっさりロケッツ入りなど、トピックスは多く、まだまだ動きはあるだろう。


♪ The Train Kept A-Rollin' - The Yardbirds


2012年8月10日(金)

亡国

オリンピックで感動的な熱戦が連日続く中、韓国の大統領が竹島に上陸を強行したというニュースが。
はっきり言って、今回の李明博氏の訪問そのものについて喧しく騒ぎ立てるのはちょっと的外れで、そもそも今まで韓国に実効支配を許したまま、日本政府が何も具体的な手を打つことなく看過してきたことこそが、致命的な問題なのだと私は思う。
6月に韓国与党が竹島に上陸した際に撮影された映像に衝撃を受けた1人だが私は、あのように武装した韓国の警護員がズラリと並んでいる状況を放置しておいて、今更極めて遺憾だだの我が国固有の領土だの宣っていてもまったく意味がない。
長じる前は、日本は世界の中ではまだマシな方の国じゃないか、と感じながら年を重ねていたはずだが、今ではそんなことは口が裂けても言えなくなった。

男子サッカー、女子バレーの試合は一体どのような雰囲気になるのだろう?


♪ You've Got A Friend - Eric Martin


2012年7月11日(水)

今日は兵庫県庁を経た後、仕事で姫路市内の銃砲店へ赴いた。
銃砲を扱う店舗に足を踏み入れたのは初めてで、おそらく国内で実銃を見るのも初めてだったはず。
程度の良さそうな中古の猟銃が、安ければ10万円を切るような値段から並んでいて、銃自体は意外とお求めやすい価格なんだな、という奇妙な第一印象を抱いた。
もちろん日本においては、金銭的な問題以上に大きなハードルがたくさん、銃を所持するまでには待ち受けている。
猟友会の方の話を伺っていると、当然なんらイリーガルなことはしていなくても、銃を持っている、猟をしているというだけで周りから奇異な目で見られることはままあるそうだ。
私は個人的にはそのような感覚はよく分からないんだが、客観的に判断すると、生業とすることはもちろん、趣味にするにも非常に分が悪い振る舞いであることは間違いがなさそう。
いずれにせよ、異世界に触れた貴重な経験となった。


♪ Skyscraper - David Lee Roth


2012年6月21日(木)

ハードロック今昔物語

今朝のさくらFMからは、ザ・ローリング・ストーンズの楽曲が立て続けに流れてきた。
やっぱりええなあ、と思いつつ聴いていたわけだが、改めて彼らの活動時期について考えてみると、結成は1962年。
1973年生まれの私が彼らを聴き始めた80年代後半あたりには、もちろんずっと現役であり続けていたけれども、充分にレジェンドと感じさせる域にすでにいた。
60年代の終わりに結成されたディープ・パープルやブラック・サバス、そして80年に解散していたレッド・ツェッペリンなんかも、レジェンドとしての私の中でのポジショニングは似たようなもの。
ふと、今の若い子たちにとってそんなバンドって何なんだろう? と考えた時に、ひょっとしてガンズ・アンド・ローゼズやエクストリームやニルヴァーナになんのかな、と思い至って、ちょっとしたショックを受けた。
私がよく聴いていた80年代後半~90年代当時に、レジェンド級だと感じていた前出のバンドたちは、デビューしてから20年とかそこら。
ということは、2012年の今、まさに80年代~90年代にデビューしたバンドたちが、すでに"大昔から活動している大御所"と若い音楽ファンから捉えられていてもまったく不思議ではない。
まあ当時と今ではHM/HRシーンの趨勢や様相はまったく異なっているから、単純な比較はもちろんできないだろうが、スキッド・ロウやイングヴェイ・マルムスティーンやドリーム・シアターが果たして今の10代のバンド少年たちにどう受け止められているのか、ちょっと興味がある。

中身はまったく成長していなくても、年を取ったんだなあ、と実感した朝の1コマ。


♪ Lick And A Promise - Aerosmith


2012年6月18日(月)

引き分け

今日は滋賀県庁に赴き、嘉田由紀子知事に生中継にご出演いただいた。
内容的にはこういった時勢なのでシヴィアなところもあったが、ご本人、広報の方々ともに皆フレンドリーに接していただき、多謝。

為政者に画面に出ていただき、語ってもらうということは、もちろん我々サイドが視聴者の耳目を集めるために仕掛けている動きなのだが、それと同時に、政治家にとっても不特定多数の人たちを相手に自らの考えるところをアピールすることができるという、ある意味好機である。
その点において、今回の滋賀県はメディアを上手く利用したな、ということを放送が終わってからまざまざと感じた。
つまり、上手いこと利用された。
ただしそれはすなわち良くないこと、というわけではない。
何が正しいとか正しくないとかは私たちが軽々に判断することはもちろんできないけれども、少なくとも客観的に見て正当性が強いと思われる主張を述べることや、民の代表が民意を象徴する意思を発することのために媒体が使われるのであれば、本望である。
それこそが、マスメディアが本来持つべき役割の1つだ。
ただそのためには、私たちの側が、今から伝播しようとしているものが果たしてどのような論理と倫理に裏打ちされているのか、見極めることができなければいけない。

主観的な角度で物事を見つめる視点を保有しながら、客観性と整合性を備えた報道を行う。
究極のメディア像に少しでも近づくために、日々働いている。


♪ Somebody Someone - Korn


2012年6月 2日(土)

卒業以来の再会

今朝は草木に水やりしてから、スイミングスクールへ。
TMコーチは会員一人一人の泳ぎに対して、随所で的確に指導を入れてくれるからありがたい。

「オコナ」でロコモコとピザの昼飯を食べているところに、前住んでいたマンションで一緒だったKさんご一行がやってきて、一盛り上がり。
その結果、マスターのI夫妻も巻き込んで、近々徒党を組んで怪しい街へと繰り出す予定になった。
なんのこっちゃ。

一旦家に戻ってから、電車で京都へ向かう。
大学の時に同じクラスだった画家の曽根茂くんが「大丸京都店」で油彩画の個展を開いているということで、妻と足を運んでみた次第。
画家としては異色の学歴を持つことになる曽根くんだが、絵一本で生計を立てている、紛れもないプロフェッショナル。
その画風は極めて写実的で、少し離れて見るとまるで風景写真のよう。
学友のよしみでじゃあ私も1枚...、と言えると格好いいんだけど、そこは曽根くんごめんちょっと無理やまた今度!

本当に久しぶりに会って、少しの時間だったけど話をすることができて、自身にとって良い刺激が入った。
彼は、「勤め人は性に合わないから画家になった。会社勤めの人に比べたら楽なもの」と謙遜するが、何の後ろ盾も持たずに自分の才覚一つで世を渡り歩いていくことがどれほど大変なことなのか、ただの勤め人に過ぎない私はよく分かっている。
そういった道を選びとったことがまず尊敬に値するし、加えてその道で成功を収めていることについては、いくら称賛しても過ぎることはない。
確かにサラリーマンをしていると、自由業や個人事業主にはあまり縁がないであろうストレッサーに出遭うことが多いかもしれない。
だけど、それと釣り合う以上のメリットだってないわけじゃない。
給金をくれる企業体に属していると、よっぽど大きなヘマをやらかさない限り日々の生活はとりあえず送ることができる。
背負っている看板が役に立つこともあるし、組織の金を使って仕事に挑戦するチャンスもある。
自分を追い込んで高みを目指すこともできるけれど、緊張感に欠けた人でも何とかやっていけたりする。
そういった種々の"安定"に拘ることなく、自分が本当にやりたいことを貫き通して、それを生業にしている人たちは偉大だ。
同世代の起業家・個人事業主たち、特に昔から知っている友人に会うといつもこのように感じるわけだが、同時に怠惰な自分に鞭をくれる貴重な機会でもある。

曽根くんを囲んで

せっかく京都まで来たので、晩飯は木屋町のもち料理店「きた村」で。
生憎、床は満席でカウンター席だったが、たらこもち、黒米のおこげの椀物、竹皮の包み焼き...、今晩も実に美味かった。

やっぱり京都に戻って来るとちょっと気分が変わるなー。


♪ Can't Cry These Tears - Garbage


2012年6月 1日(金)

テレビは死んじゃいない

転居後、初めて近所をホタル捜索に歩いてみたが、見つからなかった。
時期がちょっと早いのか、そもそも場所がずれていたのか。

テレビ離れの時代と言われる。
事実、たとえば私が子供だった30年前と比べると、テレビ視聴以外の娯楽や、情報を獲得するメディアの選択肢が今では多数に及んでいる、という影響もあって、テレビを観ている延べ人数やそれに依存する人の数なんかが大きく減っていることは間違いない。
だからといって、「テレビを観ている若者などもういない」とか「テレビは世の中に必要ない」などといった誤った認識を公に示す行為はあまりにも浅薄である。
その個人にとって、テレビが無価値である、視聴する必要がない、と言ったり思ったり書いたりするのは勝手だ。
一個の独立した人格が感じることなのだから。
だが、その偏向した感性を世間一般に拡大適用することは明確な状況誤認であり、すなわち、あたかも大衆を代表しているかのようなつもりでそれを著すことは、愚挙だ。
政治家の何人かが馬鹿だからといって、すべての政治家は馬鹿であると断じたり(まあほとんどは馬鹿なのだろうが)、幾人かの警察官が不祥事を働いたからといって、すべての警察官は腐敗していると見做すことが間違いであるように、テレビの低俗な一面を取り上げて、テレビ全体が不要な存在であるなどと公言することが正しいはずがない。

バラエティー番組や情報番組、報道番組が今よりも高品質だった時代に比すると勢いは衰えているとはいえ、2012年現在においても、テレビは最も大きな影響力を世の中に対して及ぼしうるメディアであることは否定しようがない。
先述した行動パターンの多様化や、録画機器の発達等によって、HUT(総世帯視聴率)は落ちているが、換言すれば、録画をした上でタイムシフト再生して観ている人や、あるいは何らかのツールを使ってPC上で観ている人が増えている、ということでもある。
去年、大阪市内の高校に行って講義をする機会があったが、その時にコミュニケーションを取った結果も、「思ったより今の若い子たちもテレビを観ているな。少なくとも働いている私たちなどよりはよっぽど長い時間、多いプログラムを観ている」と確認することができ、若干安堵したものだ。
今においても、学校で友達と共有する話題の中で、テレビに関連したトピックスは大きなウェイトを占めているんだ、と実感した。
またその実感は、コミュニティーが高校生集団ではなく、たとえば主婦や大学生やサラリーマン(さすがにちょっと割合は下がるだろうが)になったとしても、大きく誤るものではないと思う。

そして言うまでもなく、こうした再認識をした結果、だからテレビはまだまだ大丈夫なのだ、などと胡坐をかいてしまうことはそれこそ大いなる過ちで、ただちに致死的というほどでなくとも間違いなく衰退の方向に傾いていっていることは明白なのだから、その現状は正確に把握した上で、サヴァイヴの道を模索せねばならない。

コンテンツの質は低下している。
媒体としての価値も落ちている。
構造的な歪みが随所に顔を出してきている。
正視に堪えない下衆な手法を使って放送されている番組や、ペテンに近いプロセスを経て作られている番組も数多く存在している。
何より私自身が、テレビを観る機会が減っている。
それらを存分に踏まえて、テレビで生きている私たちは、内省と努力を続けていかなければならない。
テレビのすべてをオプティミスティックに肯定することは決してしないが、飯を喰うためにやっている仕事に誇りは持っている。


♪ Delirious - Hanoi Rocks


2012年5月28日(月)

継続する

今朝のランは22分44秒と、ベストより1分余り遅れ。
先週の木金は走り、土曜は水泳、日曜は野球と続いていたので、脚が重いのもむべなるかな。
6時に目が覚めた時、もっぺん寝たろかなまあ今日ぐらいええか、と疲労感に屈してしまいそうになったが、何とか自分の弱い心を抑え込むことに成功した。
繰り返すが、朝ランは身体のトレーニングではなく、精神の鍛錬に他ならない。
何のかんのと理由をでっち上げて辞めてしまうことはあまりにも容易いが、だからこそそのような危ない道からは遠ざからなければいけない。


♪ Ill Will - D:A:D


2012年5月25日(金)

こっちは175cm

2日連続のランは、体が重いことが多いのだが、今朝は昨日の記録をさらに13秒更新する21分35秒で走破。
メインで履いているフェザーファインではなく、今日はそれよりも少しだけ軽いウェーブアミュレット2で行ったから?
ダメージもそれほどなく、1週間の締め括りの金曜日もフルに活動することができた。

サクラメント・キングスにアイザイア・トーマスという選手がいるのを、遅ればせながら初めて知った!
しかもPG。
生年は1989年と、まさに本家アイザイア・トーマスの全盛期。
実に分かりやすいネーミングだが、NBAに入れるほどに成長していろいろな意味でよかったな。
その陰には、陽の目を見ずに親を恨んでいるたくさんのマイケル・ジョーダンやラリー・バードやアーヴィン・ジョンソンがいるということなんだろう。


♪ 情熱の薔薇 - 水戸華之介 & 人間椅子


2012年4月26日(木)

全量買取

再生可能エネルギーの全量固定価格買取制度の原案について報じるニュースが各メディアで見られたが、太陽光42円、とか分かりやすい項目ばかりが目立ってしまい、本当によく読み込んで自分でも調べないと、この報道の本質はつかみにくいな、と思った。
要は少なくとも太陽光買取については、既に行っている住宅用太陽光発電の余剰電力買取制度を大幅拡大し、10kWオーヴァーのパネルを載っけている企業体等が発電するものに関しても全量42円/1kWで20年固定買取することを新たに決めつつある、ということが今回の肝であるはずなのだが、予備知識のない人にとっては、太陽光発電の買取自体が今年7月に初めて始まるかのように誤解される恐れがある記事が多い。
この報道を受けて、早くも企業のみならず個人客からも太陽光発電導入に関する問い合わせや発注自体が増えているようだが、住宅用に関してはこれまで実施されている買取制度となんら変わりない。
メディアに携わる末端構成員の1人として、単純ではない出来事を分かりやすく、簡潔に伝えるのは難しいなあ、と改めて感じるニュースであった。

これを契機に再生可能エネルギーの生産と使用の可能性が広がっていくのは結構なことだが、原子力を始めとする既存の各エネルギーに様々な利権が絡みついているように、いくらエネルギーそのものがクリーンであっても、太陽光にも風力にも地熱にももれなくダーティな利権が付属してくるのは必定。
資本主義経済である限り、さらには人間の欲というものが存在する限り、どのような社会体制になったとしても、根元的な構造は不変なのだろう。


♪ The W.S. Walcott Medicine Show - The Band


2012年3月 6日(火)

家畜

問題のAIJに証券取引等監視委員会が強制調査に入ることになり、捜査当局も動いて刑事告訴も視野に、という旨の報道が先日あった際、そういや先般、今回のケースよりもさらに悪辣なプロセスで公的年金を消失させた所業が明らかになった旧社会保険庁について、結局誰がどう責任を取ったのかまったく我々には分からぬままうやむやになってしまっているな、などと感じていたわけだが、今日になって、その旧社会保険庁から天下った輩たちこそがこのたびのAIJ事案の主要因なんじゃないか、なんて騒がれ始めた。
なんだかもう脱力するしかない。
国家権力が主導する大規模な詐欺事件が発覚し、全国民がその被害者に当たるのだということが分かっても、物理的な力を伴う抗議行動に訴えることがない日本国民はやはり、本当の飢えをもう思い出せないぐらいに馴致されてしまっているのだな。

ここのところ、面白いと思える本に出遭う確率が下がっているような気がする。
ブクログを見てみると、最近読んだ10冊中、星5つと4つが各1冊で、あとの8冊は星3つ以下だった。
以前はこんなことはなかったんだが、たまたまなのか、面白い本を見抜く嗅覚が衰えているのか、はたまた今の私の精神状態があまり書物を評価するような心持ちではないのか?


♪ Time On My Hands (You In My Arms) - Chet Baker


2012年3月 1日(木)

最近よく聞く神の名前

数日前よりニュースになっている、怒れる神が中国のなんたら体育を訴えた、という件について、名称のみならずロゴマークの類似もトピックに挙げているメディアが散見されるが、あのシルエットはエアジョーダンではなくAND1からパクッたんだろう。
いずれにせよ、このような企業がFIBAのオフィシャルパートナーにもなってしまうような彼の国の在り方は本当におぞましい。


♪ 月光 - THE BOOM


2012年2月21日(火)

左右

若い頃は左翼的な思想、思考に惹かれていたような気がする。
月刊「創」を購読し、「週刊金曜日」にも目を通し、どちらかというと朝日新聞に共感を覚えていた。
リベラル、という言葉に一定の価値を見出していたとも思う。
しかし、長じて社会に出て、さらに年を経るうちにそんな感覚は変わってきた。
体制は変えてこそのもの、という最低限の思いは保持しているものの、いろいろな報道に触れる折、活字を目にする折に抱く感慨は、あるいは青臭かりし当時の私が忌避していたいわゆるマジョリティとしてのそれに近くなっているように感じる。
旧姓福田某被告が、どうやら支援者の養子に入って姓を変えていたらしい、と聞けば「こんな奴にも支援者なんておんねんなあ」と"普通"の感想を漏らす。
北朝鮮など潰れてしまえばいいと思うし、憲法9条だって合理的に改憲すればいいとも思うし、あるいはこの世をやり過ごしていくためには清濁併せ呑むことも時には必要だ、なんて分かったふりもする。
この変化は何なのだろうか?
成熟なのか、それとも単なる俗化なのか?
もしくは、ある程度の経験と知識を身につけた結果、自分が生来持っていた本質的な人格に回帰しただけなのだろうか?


♪ Hit The Road Jack - Arrested Development


2012年2月 8日(水)

クラウド?

推測も含みです。
倉敷の海底トンネル事故だが、報じられている通り、10年前に行われた近接地の調査結果だけを元にして、新たに海底地質調査をすることなく工事を始めていたのだとしたら、今回の事故との因果関係の有無は別として、それはもうとんでもないことなのだろう。
地盤などというものは数m離れただけでも様相が変わるという可能性は大いにあり、実際拙宅のような小さな建物を地上に建築する際でさえ、ここまでやりますかというぐらいの調査を行った。
ましてや人智の及ばない海の底のさらに奥深くであり、僅かな施工誤差やミスが生命の危険に直結することぐらいは誰でも分かるのだから、唖然とするより他ない。
発注者がJX日鉱日石エネルギーという日本最大のオイルサプライヤーであり、施工元請がスーパーゼネコンの鹿島建設ということを鑑みても、そのような杜撰な準備で工事に臨んでいたとすればますます信じがたいのだが、これが昨今の"筋肉質化"という言葉に名を借りたコストカットの最悪な形での現出であったのならば、残念で悲しい。

我が家がWindows、Mac、iPadの3極体制になってから約3週間経つが、こうなるといわゆるクラウド的なサーヴィスの利用というものも視野に入れていかなあかんのかな、という気になる。
しかしiCloudやEvernoteやDropboxといった各種ツールの違いがいまいちよく分からん。
分かる人たちに言わせると「用途が全然違う」ということらしいが...。
まあまだどれも実際に使用したことはないので、使ってみればそれぞれ特化の方向が異なっていることが感じられるのかもしれんな。


♪ Pictures Of Matchstick Men - Status Quo


2012年2月 5日(日)

業者決定

朝、某引っ越し業者が来訪、見積もりをしてもらう。
まずまず納得の料金で、結果的にこちらに依頼することに決定。

昼、スイミングスクールへ。
クロールのドリルを少しした後、バタフライの練習。
今日も我々のコースには9名参加と多かった。

夕方、もう1社、某引越社が見積もりに来る予定だったのだが、約束の時間に現れない、その後の対応も常識に欠けていたということで、候補から退場いただいた。
これに限らずなんだか最近、プロフェッショナルとしてふさわしくない人の振る舞いが気になることが、業界問わずに増えているように感じる。
他所様のことをとやかく言っている場合ではないのは承知しているが、人間力のようなものがどんどん衰えてきている、というのは普遍的な事象になっているのかもしれない。
今一度我が身を正さねば。


♪ Centerfield - John Fogerty


2012年1月20日(金)

ポジネガ

新部署での本格的な勤務が今週頭から始まって、1週間が終わった。
正直、初日、2日目あたりはもうどうしようかと思うぐらい、まるで新入社員の如く右も左も分からずうろついていただけだった。
2年半ぶりの番組制作の現場ということで、もちろん勘も鈍っていた。
なんとなく、日を追うごとに雰囲気は分かりかけてきて、具体的な段取りにも慣れつつあると実感できることが小さな救いだ。
だが、体も脳もまだまだリハビリ途上であることもまた痛いほど自覚している。
いずれにせよ、2週間前の気持ちを忘れぬまま、来週以降も責務に当たっていきたいと思う。

ここ数日、原発絡みのニュースがまたよく目につくようになった。
現在、大部分の原子力発電所が運転を止めており、火力発電中心の生活を我々は送っている。
当然それにより、CO2の排出量は増加しているはずだが、今やCO2を始めとするいわゆる温室効果ガスの削減を声高に叫ぶ気運はすっかり低空飛行中だ。
それどころじゃないだろ、という空気にどちらかというと近い、とさえ言えるかもしれない。
事故なく運用している限り、という注釈つきだが、地球環境への影響を考えると、原子力発電がなるほど優位なのだろう。
とりわけプルサーマルならば。
だけど、それでもやっぱり、原子力は使っちゃいけないものなんだろう、という結論に至らざるを得ない。
テクニカルな部分に関してはド素人なのでそこに言及することはできないが、発電所であれ自動車であれ竹トンボであれ、人が作ったモノである限り、それはいつか必ず壊れる。
故障を待たずとも、人為的なミスが原因となって事故を起こしてしまう可能性も絶対に0にはならない。
私たちは思えば、その不可避な前提をまったく無視したまま、これまで原子力発電というモンスターを飼い馴らしたつもりで利用し続けてきたのだろう。
それが壊れてしまった時に、人間が平気な顔して収めることができないようなモノは絶対に使ってはいけないのだ。
事故が起きてしまった時に、近隣住民の生活を脅かすのみならず、地球規模の危機感を生み出し、さらには今後長きに渡る将来に深刻なダメージを残してしまうような技術を、人間は絶対に使うべきではないのだ。
そんな当たり前のことを私たちは、この10カ月の間に知った。
原理主義的に言うならば、エネルギーを大量消費する現在の生活スタイルを人間は転換するべきなのだろうが、それは無理だから畢竟 、滅びに向かっているのだろう。


♪ Call Of The Wild - Black Sabbath


2012年1月11日(水)

弔い

今月6日に逝去した義姉の前夜式と葬儀が川崎で行われ、参列してきた。
享年39。
未だに、信じ難い、という思いが強く残る。
もちろん誰にとっても受け容れ難い彼女の死だが、何よりも、義兄の悲嘆を慮ることが私にとっては最も辛い。

去年の8月に義兄一家がこちらに来て遊び、9月には私たちが横浜の家にお邪魔して一緒に遊んだ。
彼女はその時、どうも寝違えたような首の痛みや、肩凝りのような違和感が抜けない、と言っていた。
聞くと3月あたりからそんな自覚があったそうで、いくつかの診療機関も訪ねたが、医者は揃って痛みの根源を見つけることができなかった。
そろそろ10月になろうかという頃、とある病院で受診したMRIにより、癌であることが判明し、即時入院の措置が取られた。
誰もが、そんなバカな、と感じ、すぐに元気になって帰ってくるよ、と信じていた。
しかし僅か3か月余りの後、義姉はあまりにも早く旅立ってしまった。

"70年生きるゾウも3年しか寿命がないネズミも、一生のうちに打つ心臓の鼓動の数は等しく、すなわち生きているうちに体感する時間の長さは同じである"、なんて理屈がある。
人間という種の中に限ったって、それは当てはまるんじゃないだろうか、などとふと思った。
義姉は39年数か月と、人よりちょっと短い生を駆け抜けたけれども、だからといって彼女が感じた喜怒哀楽や周囲に与えてくれた種々の物事が人より少なかった、ということは断じてない。
小動物のように鼓動を早鐘の如く脈打たせ、誰よりも濃密な現世こそを彼女は送ったに違いない。
詭弁であっても構わない。
そう思う。

敬愛する義兄が喪主挨拶で述べていた通り、遺った娘と息子の中に義姉は生き続ける。
そして、義兄と2人の子供はさらに強く大きくなって、明日からも生き続ける。
今日のところは、さようなら。


2012年1月 1日(日)

平成二十四年元日

謹賀新年。

不本意ながら、5時半にパチッと目が覚めてしまい、二度寝もできそうになかったので、初日の出拝みランに出掛けた。
御前浜あたりには初日の出を見ようと、ワラワラ集まってくる老若男女が結構いて、ビックリ。
結局浜からは少し移動し、御前浜橋(跳ね橋)の上から無事に目撃できた。
ジョグは軽く4.7km。

ビルの谷間に昇る朝陽

ふと考えたんだが、日付が変わる午前0時は、どうして太陽が昇る朝ではなくて真夜中に設定されているのだろう?
あけましておめでとうとか誕生日おめでとうとか、その瞬間に伝えようと思うとどうしてももうすぐ寝るような時刻になってしまう。
1日の活動を終えて、眠りに就く頃合いに日付をまたぐことこそナチュラルなのだ、と無理矢理理屈をつけられないこともないとは思うが、素直に考えると、新しい1日が始まる日の出付近の刻限に0時を持ってきた方がしっくりくるような気がする。
起源は太陽暦的などこかなんだろうが、改めて、そもそも24時間をなぜ午前と午後の12時間ずつに分けているのか? とか、素朴な疑問が湧いてくる。

朝食後、妻と母と3人で「西宮ガーデンズ」へと向かう。
開店時刻後間もないし、高を括って車で行ったんだが、近づいてみると駐車場待ちの長蛇の列に心底戦いた。
こりゃどうするかなあ...、とソロリ回ったところ、奇跡的なタイミングで無料の臨時駐車場に滑り込むことができた。
今年最初のささやかな幸運。
母の誕生日プレゼントとしてバッグと靴を買い、私と妻の衣料品なんかも少々仕入れて、軽く昼飯喰って帰宅。

早めの晩飯は家でしゃぶしゃぶ。
高級肉を奮発したおかげで、トロリ美味かった。

ええ肉買ったよ

20時発の新幹線で名古屋へ帰る母を新大阪駅まで見送る。
大きな声では言えないが、話のネタになるということで未だ売っている「面白い恋人」を土産に持って帰ったよ。


♪ Sleepin' - Diana Ross


2011年12月16日(金)

1000m

夜、スイミングのレッスンへ。
今日は年内最後の金曜レッスンということで、前々から予告されていた通り、いつもより距離を増やして1000mやる、という宣言がコーチよりあり。
50m×6のアップの後、キック200m、プル100m、そしてスイム25m×4、50m×2、200mで、1000mピッタリ。
すっかりバテた。
上のクラスにはまだまだお邪魔できないということを身を以て思い知る年の瀬間近。

それはそうと、今日はいつも3人いるコーチ陣が2人。
1人病欠しているとのことでそれは仕方ないのだが、それとは別に、レッスンを見るコーチを恒常的に3人→2人にする、というようなムーヴメントもあるとか。
当然それにより、コーチが会員1人1人の泳ぎを見てアドヴァイスする機会やその指導のクオリティが、少なく低くなるのではないか、という危惧が生まれる。
私たちは単に泳ぎたいというだけではなく、きちんと泳法指導を受けたいからスイミングスクールに通っているのであって、それがなくなればスポーツクラブのプールで黙々と泳いでいるのと何ら変わりない。
主任コーチの主義だか会社の方針だか知らないが、マスターズクラスをこれ以上軽視するようであれば、我々としても拱手傍観しているわけにはいかないだろう。


♪ The Devil In You - Hanoi Rocks


2011年11月29日(火)

朝ラン所感

6時をちょっと回ってしまったが、今朝もランニングへ。
いつもの朝コースを5.15km+アップ&ダウン1.3km。
軽いウェーブアミュレット2を履いて行ったのもあるが、昨日より20秒強/kmペースアップ。

何とか朝ランも習慣にできてきたような気もするが、同時に、平日の朝に走るメリットとデメリットについても具体的に感じ始めた。
まず思いつくメリットは以下の通り。
○起き抜けのエネルギー枯渇状態で走るので、脂肪燃焼効率が高まる(はず)。
○頭と体がしっかり覚醒する。
○自ずと早寝早起きの生活を心掛けるようになる。
○レースは朝に行われることが多いので、本番に近い時間帯でのトレーニングとなる。
対するデメリットは次の2点。
○使える時間が限られるので、長い距離を走れない。
○走った後にも長い一日が控えているので、追い込むトレーニングができない。
まあどれも当たり前のことではある。
長い距離にも対応できるように、さらにはタイムの向上も図るとなれば、やはりこれだけではなくて休日などを利用し、LSDやビルドアップ、インターヴァルなどを敢行することが必須となるだろう。


♪ Blues Bird - Larry Carlton


2011年10月13日(木)

迷った

晩、ランニング。
今日は西宮浜から南芦屋浜に渡り、戻ってくる時にいつも使う浜風大橋じゃなくてあゆみ橋を使ってみたんだが...、芦屋浜でまさかの方向ロスト!
細い住宅街をウネウネと走っているうちに、「ん、ここはどこだ?」と軽いホラー小説状態に陥った。
初めて足を踏み入れる夜の埋め立て地は要注意だ、という教訓を改めて学ぶ。
そんなこともあり、予定より長めの9.95km。
体のコンディションがよく、この1カ月のトレーニングの中では最速となる、1km6分切ってのペース走となった。
ただ、道に迷ってあたふたし始めた6km地点あたりから右のふくらはぎが少し固まりかけ、攣りかけた。
明らかに電解質不足の様相。
無補給で行ったが、今の私の力では、この距離とペースがいっぱいいっぱいのようだ。
しかし良い練習ができた。

厚生年金の支給開始年齢を68~70歳に引き上げることを検討、というニュースにはたまげた。
今回の考察は、自身や家族の近未来にも大きく関わってくるトピックだけに、客観に徹するものにはならないだろうが、お戯れは止めてください、というのが第一印象だ。
そもそもが、旧社会保険庁が継続的に為してきた杜撰極まりない管理こそが問題の根源であることは周知、自明。
積立金の不正流用、記録データの紛失等を始めとした、およそ税金で飯を喰っているとは信じ難い公務員集団により行われてきた、いわば国家権力による詐欺的行為が表立って糾弾されなくなって久しい。
そこにきてこのニュース、もはやこれは折に触れ摘発されている悪徳商法、違法マルチ等と何ら変わりない。
ただそれを行っている主体がお上だから捕縛されない、それだけに過ぎない。
特に我々のようにサラリーマンとして行動選択の余地すらない者にとっては、憤懣の持って行き場がまるでない。
定年は60歳です、支給は68歳とか70歳からです、保険料は給料から天引きします、では、所詮持てる者と持たざる者の関係は、封建時代の領主と小作農民のそれと比べて何も変わっていない、と言えはしまいか。
もし既報の通り支給年齢引き上げの議論が進み、それが実現するというならば、せめて保険料を納めるか否かの選択権は国民一人一人に帰すべきではないか。
もちろんそんなことをして納付者の割合が減ってしまえば、設計している保険制度そのものが崩壊してしまう、というツッコミは想像できるが、暴論は百も承知の上で、そんなことは知ったことじゃない。
年金制度そのものを初めに瓦解させたのは、その制度を司どる主体者なのだから。
毎月決まった給金は保障され、お縄を頂戴する心配のない詐欺集団に、戻ってこないであろう上納金を自動的に支払い続けるよりも、タンス預金でも何でもして自分の責任で老後に備えて蓄えた方が絶対的にマシだよ、と判断するサラリーマンは、決して少なくないだろうと思う。
須らく理性的に全体を俯瞰した物言いではない、ということは充分に分かっているが、これが本音だ。

今こそ日本人は怒るタイミングではないのか、とまたも思うわけだが、特にこれといって生活面で致命的な危機を感じることはなかったこれまでの長いパックス・ジャパーナの名残で、決して私たちは本気で怒りはしないであろう、ということもまた予感されるのだ...。


♪ Will The Sun Rise? - Dokken


2011年10月 7日(金)

告知

晩、スイミングのレッスン。
バタフライ中心のメニュー。
遅々としながらも少しずつ泳げるようにはなってきている。
どの泳法であっても、疲れてくると如実にフォームが乱れてくるわけだが、乱れ出すそのタイミングをできるだけ遅らせたいし、乱れる幅も小さくしたいものだ。

話は変わり、大きな公園や川沿いの遊歩道などを歩いていると、犬の散歩をしている人々に多々出会う。
そこで気になるのが、リードを持たずに放して歩かせているケース。
実はこうした行為が、愛犬家自らの首を絞めかねないマナー違反である、ということに多くの飼い主が無自覚であることこそが、問題だ。

まず、この世の中にいる人たちすべてが犬好きとは限らない、という事実がある。
確かに割合的にいうと、犬は好きですよ、という人の方が多数を占めるだろうが、そうではない人たちにとっては、たとえフレンドリー極まりない超小型犬であっても、リードで管理されていない犬は恐怖の対象以外の何ものでもない。

次に、自分の犬はしっかりと躾が行き届いているから、あるいは少々暴れても殺傷能力の欠片も持っていない愛玩犬だから、などといった理由で放し歩きさせているケースが多かろうが、そこはやはりどこまで突き詰めても動物なのだから、何かの刺激に反応することにより、飼い主の想定外の行動を取らないとも限らない、という偶然性の存在は消すことができない。
たとえ自分の連れている犬は本当におとなしかったとしても、不用意に他の犬のそばに寄っていったりしたがために、アクシデントを引き起こすこともあり得る。
実際に、この類の事故は少なからず発生している。
一般に、小型犬ほど躾の甘い個体が多い、という傾向がいくつかの事実を物語っているだろう。

人間社会の中で犬を飼育している飼い主は、これらのことにも想像を及ばせた上で、ぜひとも自覚を持って飼っていただきたい、と切に思う。

こうした、いわば誤った愛情の注ぎ方に端を発する不適切なケースは他にも、例えば犬種の特性をまったく無視して衣服などを着せる、といった行動などにも見られる。
犬に限った話ではないが、自分の飼育する生き物の食餌傾向や原産地、最大体長・体重、生息に適した温度・湿度、昼行性なのか夜行性なのか、などに関して無知のまま、飼養を始めてしまう人も少なくないようだ。
その結果は、人と生き物、双方にとって不幸なものにしかならないのは自明の理。

ペットは家族である、というのは思想の1つにすぎないわけだし、その考え方自体を否定する気はない。
が、犬や猫は人間とは違う。
優劣の尺度ではなく、生物としての習性や生理が違う、ということを最低限、飼養主は知っておかなければならない。
ファミリーの一員であっても、人間とは異なる本能を持っているのだ、ということを正しく飼い主が理解し、配慮している場合、その生き物は幸せといえるのかもしれない。

実際にマナー違反や不適切な飼養をしている人を見かけても、当人に悪気はなく、よかれと思ってやっている場合が多いからなおさら、トラブルにならないように注意喚起を促すことは難しいものだが、私が所属する"日本愛玩動物協会"としては、そういった啓蒙活動にも力を入れている。

来る11月3日(木祝)、"西宮浜マリナパーク"にて、協会の兵庫県支部も運営に携わっている「西宮市動物愛護フェア」が行われます。
フライヤーはこちら
近隣の方は足をお運びいただけると幸いです。
私もスタッフとして参加する予定です。


♪ Fade To Black - Metallica


2011年9月 1日(木)

電車で運ぶ

今日からちょっと遅めの夏季休暇。
明日からしばらく家を空けるので、ヘルマンリクガメのシロをリクガメホテルへと持っていった。
いつもは妻と2人で車で行くのだが、今日は私1人だったため、電車で運んだ。
移動途中は生体にストレスが掛かり、ウンチなんかをたびたび漏らすので、世話人がいない状態で車に載せていくのはちょっと難しいのだ。
それにしても大変だった!
序盤を中心に、1時間強の全行程で計7回、キャリーケース(といってもホームセンターで買ったプラスティック製の米びつ)内に敷いたペットシートを取り換えたよ。
電車内では、私の隣には誰も座ろうとしなかったような気がする。

道端でシート交換駅のトイレでシート交換駅のホームでシート交換

組閣人事についてあーだこーだとテレビや新聞などの報道が伝えているが、もはや改めて口に出すのも憚られるほどに、この国の政治はくだらない。
何々派の人々に気を遣って閣僚のポストを決める、という児戯以下の所業に象徴されるように、この国の舵を取るべき大人たちは海図も本分も志も皆まとめて失ってしまっている。
震災に始まったわけじゃなく、それ以前から露見している醜怪な不祥事や議題なども今や忘れ去られているかのようにも感じられるが、我々民衆とてそれらを風化させつつ、本気で怒って権力に立ち向かうわけでもない。
政治家という職業に就いている道化たちが演じている滑稽な政局を否応なしに見せつけられ、そのうつけぶりに呆れ悪態をついてみたりするけれども、所詮は彼らは、私たち日本国民の縮図であり、本当の意味において国民の代表なのかもしれない、とあたかも鏡を見ているかのような優れぬ気分に陥らないこともない。


♪ タリホー - ザ・クロマニヨンズ


2011年8月22日(月)

月曜も泳ぐ

晩、スイミングスクール。
今日は新入社員のKコーチに初めて教わったが、なかなかどうして、良いコーチングじゃないですか。
バタフライの腕と脚のタイミングについて、1つ新しいコツを教えてもらった。
もちろんまだまだきれいには泳げないが、カタツムリの歩みぐらいにはわずかずつでも前進しているような気がする。
平泳ぎに関しても、複数のコーチが言うように、実は4泳法の中で一番難しい、という感覚が分かりかけてきた。
基本を押さえたフォームを学びつつも、そこから自分に合った形を選び出し、あるいは編み出して定着させる、それが目標ではあるが、至る道筋が険しい。

バスケでも野球でも他のスポーツでも同様なんだろうけど、我流を一旦捨てて教科書通りの基礎を改めて学習する時、その過程において必ずパフォーマンスが落ちる瞬間が訪れる。
正しい泳法を身につけるべく練習している今はひょっとしたら、かつて基本など知らぬままに泳いでいた時よりも例えばタイムなど計ってみれば、あるいは遅くなっている時期なのかもしれないが、ここを真面目に乗り越えれば次のステップに進むことができるはず。

...ここまで書いてハッと我に返ってみると、まるで何かの大会に向けて自分を追い込んで悩んでいる部活少年か、って感じの入れ込み具合だが、そんなことはまったくなく、健康のためにチンタラ泳いでいる単なるサラリーマンです。


♪ There'll Never Be - Boyz II Men


2011年8月21日(日)

束の間の制作業務

土曜午前は、水槽の水換えと清掃。
今週は休日出勤ウィークというわけで、午後から会社へ。
翌日に控えたイヴェントの準備や打ち合わせ等で、家に帰ったのは日付を超えてから。
現部署に来てから、純粋に業務でこの刻限になることはほとんどなかったので、久々の感覚。

そして今日は平日よりも1時間早く起きて、再び会社へ向かった。
一般の方々を対象にした、社内横断実施型のイヴェントが行われたのだが、それに伴うスタジオ収録要員として参加させていただいた次第。

もうすぐ本番

今回は、いわば2年前まで日常的にやっていた番組制作業務にほぼ等しい作業を臨時にさせていただいた形だが、2年のブランクを置いて自身の感覚の鈍化を思い知らされるのと同時に、スタジオやその周辺で懐かしい面々と一緒にかつて慣れ親しんだ類の仕事をこなすことに対して、なんとも言いようのない安寧に近い感覚を抱いた。
公における自分の居場所はやっぱりこっちなんだろうなあ、という理屈を超えた直感と、今の職場よりは多少マシな戦力として動けるんだろうなあ、という諦念に近い知覚を改めて得た。


♪ Moonlight - Bob Dylan


2011年7月20日(水)

旬の男

かれこれ13年来の付き合いになる山本太郎くんが、十三の「シアターセブン」でトークライヴを行うというので、毎度S支配人の厚意に世話になり、馳せ参じてきた。
本人にとっては一概に喜ぶべき事態ではないだろうが、ある意味旬の人になってしまったので、聴衆は多く、取材目的の記者も各社。
太郎くんらしい飾らない言葉で、ツイッターにまつわるあれこれや、佐賀県庁突入事件の真相、グリーンピース支援の真意、そしてこのたびのようなムーヴメントを実行するに至った深夜の号泣エピソードなどが語られ、自然と耳が傾けられた。
途中から、コーディネーターを務めたジャーナリストの今井一氏も壇上に登り、後半は対談形式で。
さらには質問コーナーでは、いわゆるプロ市民ぽい人からの発言も飛び出したり。

知己だから、という贔屓目を抜きにして、山本太郎は至極真っ当なことを叫んでいるに過ぎない。
インターネットで流れるニュースの文面だけ、あるいはスポーツ紙の紙面だけを見ているならば、彼の言動は誤解を招き、過激に映るかもしれないが、顔を見、目を見て、肉声を聞けば、その真意は素直に汲み取ることができる。
おかしなことは何も言っていないし、茶の間でおっちゃんおばちゃんたちがボヤいているような市井の声を、分かりやすく力強い形で世の中に向けてアナウンスしているだけじゃないか、そんな風にも思う。
そんな彼の真っ直ぐなパーソナリティーを理解する人が少なくないからこそ、今のような状況でも仕事がなくなるどころか、かえって多忙を極める、という事態につながるのだろう。
デッカい子供は魅力的である。

太郎くんと

余談ながら、半年前に開催された「関西不思議会」で知り合った方2人が、それぞれ別でこのトークライヴに来られていて、3人で「ああ!」なんていう一幕も。


♪ One Me - R. Kelly


2011年7月16日(土)

今村さんを迎える

車の中で宮沢和史氏の楽曲を聴いていたら、今さらながらに新しい発見をした。
かれこれ20年近く、フェイヴァリットアーティストとしてずっと聴き込んでいたはずなのに、未だに気づく魅力がある。
これほどの深みを刹那でも味わうことができ、束の間の幸福に浸った朝。

夕方、お招きしていた西宮市議会議員の今村岳司さんが拙宅に来訪。
MGFに乗ってこられ、元オーナーとして初っ端からガツンとやられた気分!
素晴らしすぎる。
料理をつつきながら色々な話をさせていただいたが、少年期を含む今村さんのルーツの一部や、最近の私生活にまつわるトピックスなども聞かせていただき、妻も興味津々。
難解な理屈や複雑なプロセスももちろんたやすく使いうるであろう人だが、実のところその思考回路、価値観は至ってシンプル。
到達すべきゴールが明確にイメージできることに加え、短時間で様々な情報を処理し、数多くの選択肢が持つ可能性を吟味することができるからこそ、辿り着く手段は無駄が削ぎ落されて機能美溢れるものになるのだろう。
結論として、型に嵌まらないおかしな生き方を普通にこなす今村さんは、どこまでもクールでロックな兄貴。

一緒に

暴言、失礼いたしました。


♪ 誰よりも遠くから - 宮沢和史


2011年6月24日(金)

人と会って話すということはエネルギーを消費するけどそれ以上に意義深くまた楽しい

大学の後輩であるIくんに仲介役として間に入ってもらい、前々からお会いしてみたいと切に思っていた西宮市議会議員の今村岳司さんにお目に掛かり、雑談含め様々な会話をさせていただくという大変ありがたい機会を得ることができた。
しかもご自宅で今村さんお手製のカレーを頂きながら!

漠然と思い描いていた以上に、今村さんは太くて強く、そして優しい人だった。
周囲の人が認め、つき従わざるを得ない、と言ってしまっては極端すぎるかもしれないが、とにかくそんな印象。
物事に対する取り組み方や考え方を聴かせていただくことにより、自身にとって非常に勉強になったし、また今思い返すと恥じ入るほどに自分のことを一方的に話してしまった感もあるが、そんなつまらぬ言葉にも真剣に耳を傾けてくれ、それに対する真っ直ぐなアドヴァイス等も頂戴することができた。
今村さんの近未来における具体的なヴィジョンもお話しいただき、我がことのようにワクワク。

思いは熱いけれども過程は合理的に、「やる」と言ったことはやる人。
当たり前のことを当たり前に主張する、という現代大人社会においては至難の業ともいえる芸当を、至極当たり前に貫く人。
だから他人のことを「羨ましい」という言葉では決して表さないであろう人。
でも普段はきっとバカな話も好きで、心の隙間にちゃんと"遊び"を持っている人。

誠に僭越の極みながら、我が街のビッグなアニキとして今後ともお付き合いさせていただければ、この上ない幸甚である。

夕刻前の時間帯、通天閣のお膝元、新世界で打ち合わせ。
この街に来たのは久々だが、やはり漂う独特の異世界感がなかなかに刺激的。

晩、我が草野球チームの主力を担ってきたY選手がこのたび東京に転勤されるということで、チームメンバー有志による送別会を浮田の「可真人」で催した。
Y選手は40歳を超えた今も走力はチームで三本の指に入り、まさに攻守に渡って要として支えてきてくれた方なのでチームとしては大幅な戦力ダウンとなってしまうが、これもまた人の世なり。
運動能力と体型を維持したまま大阪に戻って来られる日をお待ち申し上げております。
ささやかながらチームからの餞別の品として、Y選手がこよなく愛用していたウィルソンのバットをお贈りした。
中古で申し訳ございません。


♪ It's All Over Now - Johnny Winter


2011年6月 1日(水)

ファイナル幕開け

NBAファイナル第1戦はヒートがマーヴェリックスに92-84で先勝。
まだチラリとしか映像は観ていないが、さすがにマイアミのホームコートというべきか。
特に終盤のあのレブロンのドライヴからのダンクなんかはまさに。
初戦は落としてしまったが、ダラス・マーヴェリックスとダーク・ノヴィツキーは、チームがファイナルに進出した05-06シーズン、そしてノヴィツキーがMVPに輝いた06-07シーズンあたりがともにピークかな、と思っていたんだが、なかなかどうして、まだ死んではいなかったことを今シーズン見事に証明した。
5年前のファイナルで敗退した時には、ここ一番で爆発できないところに精神面の弱さが...、といった批判もチラホラ聞こえたノヴィツキーだが、今年33歳を迎えるヴェテランとなり、何よりそのメンタルにおいて飛躍的な成長を遂げたように思われる。
正直、クイックネスやスタミナ面では当然20代の頃には及ばないわけで、それをカヴァーして余りある精神的強靭さを身に付けたというところだろう。
現在38歳、私と同年生のジェイソン・キッドの健在ぶりも頼もしい限り。
特にポジションを考えると、この年齢であれだけの存在感を示せることは驚異ですらある。
客観的に見れば、ケミストリーさえ機能すれば地力に勝るのはマイアミなのかもしれないが、心情的には今度こそダラス...、というのが本音である。


♪ Criminal Instinct - Jerusalem Slim


2011年5月30日(月)

醜さを知る

前提として、今の私はノンポリシーである。
原理的に右でも左でもないつもりだし、常に合理的にものを考えたいという思いを持っている。
それを踏まえて、まったく緊急性のない瑣末な揚げ足取りに終始している現在の政情はとてつもなく異常な状況であり、大人たちは端的に言ってバカばっかりか、と今さらながら敢えて問いたい。
永田町は喧しいばかりだが、じゃあ、といって菅氏がリーダーの座を降りたとして、次に誰がそこに座ればこの国がまともになるというのだろうか?
ここまでくればボブルヘッド人形のごとく、総員まとめてすげ替え可能な木偶にしか見えないし、現政権を批判する福田何某氏や安倍何某氏や鳩山何某氏に至っては、どの口が言うとんじゃ一体。
私が年齢面において物事の道理を解するようになって以来のここ20年ほどを省みた時に、やっぱり相対的に一番有為な仕事をしたのは小泉純一郎氏だったのかなあ、なんやったらもういっぺん登板しないかなあ、なんてことをチラリと思ってしまうほどに、この国の近未来は真っ暗だ。
代議士になろう、と決意を固めた往時には、今やぶよんぶよんに腐敗しきってしまっている老人たちも、それなりに高邁な理想とそれに向かう純粋な意志を胸の内に抱え込んでいたはず、と思いたいが、それらの志をすべて霧消させてしまう既得権益という怪物は一体どれほどのものなのか。
その化け物に決して憑依されることのない、モンスターを超えるマシーンはどこかにいないのか。
独裁でも構わない。
そしてこうした危機的状況においてすら、牙を剥くことができない私を含めた日本国民とは、家畜か。
獣は飢えていれば敵に襲い掛かり、自らの腹を満たすために戦うことができる。
しかし、飽きるほど充分な量でなくとも、干からびて死なない程度に餌を与えられている家畜は決して自分より強いものに歯向かうことはない。
その意味で、政治不信の塊を抱き、この私のように屁理屈を並べて現体制を非難する一般市民も、実は汚れた我欲にしがみついて理不尽な魑魅魍魎と化している政治家たちと同質の、烏合の衆なのかもしれない。


♪ You Should Know By Now - Ratt


2011年4月17日(日)

初夏へ向けた旅

晴天の下、10時に家を出て夙川沿いを北に向かう徒歩旅行に出発。

中には満開の花を残す樹もある桜の盛りを過ぎた夙川

桜並木はほとんどの樹が半分ほど緑が混じる葉桜になっており、屋台群の姿は見えず、花見客も先週に比べると格段に少なくなっていた。
ほんのり寂寥感も漂うが、これから訪れる新緑、そしてホタルもまた充分扇動的だ。

1週間前は鉄ちゃんが集っていた場所?

今日もヒヨドリやツグミ、ムクドリにセグロセキレイといった鳥たちを目撃したが、ついにカワセミをカメラに収めることができた瞬間は少々興奮した。

カワセミ

前に、もう少し川を下ったところでスイーと川面スレスレを飛ぶ美しいエメラルドグリーンを見たことはあったが、カメラを持っている時に出逢ったのは初めてだ。

銀水橋からバス通りに出て、フラリと入った帽子店で妻が紐付きのハットを購入。
工房を兼ねたこの店はたまたま通り掛かったわけだが、以前より妻が愛用しているハットの製造元だということが判明。
素晴らしい偶然。

愛用する「TOUS LES JOURS」シリーズの別フォルムを購入

甲陽園駅前の「ビゴの店」で昼飯を買い込んだ後、目神山町から遊歩道を山中へと分け入り、妙龍寺の上にある展望台を目指す。
登りはTシャツ1枚でも汗がにじむほどの好天だ。

展望台から山並みを望むトカゲもいたよツツジの仲間だと思うが、山中に群生している様がきれいだった

展望台に着き、町並みを見下ろしながらランチ。
ただただ気持ちが良い。
アスファルトで固められた喧騒を離れてこうしたところに身を落ち着けると、1個の動物として本当にナチュラルな環境にいるのだな、という根源的な解放感を得る。
人もやはり土の上で暮らすのが一番良い。
川沿いを散歩している犬も楽しそうだものな。

敷地に立ち寄り、再び山桜を確認。
まだ咲いていた。
今日はこの前と違って天気が良いからより映える。

山桜とクスノキ

もう少し北上し、北山ダムへも足を伸ばしてみる。
グルリ周囲が桜の並木となっており、先週はさぞかし美しかったことだろう。

甲山が映る北山ダム

甲山の麓に建つ神呪寺

神呪寺の仁王門をくぐって南へと下りる。
ひたすら歩き、松風町へと至ったところでカフェ「茶家」に入る。
ここで名物の小さなたい焼きと、お茶を頂く。
お茶もたい焼きも色々な種類があり、美味しくて楽しい。

私はアイスマスカットティーと、求肥入り抹茶あんのたい焼きをオーダー

本当にこのような場所は大切だ

甘味と少しのカロリーを補充し、夙川沿いを南下して家路へ。
午前に比べると学生っぽい若年層を中心に遅い花見客もだいぶ増えていた。

帰宅は午後3時50分、所要時間6時間弱というなかなかの長旅であった。


♪ Jungle Man - Red Hot Chili Peppers


2011年4月14日(木)

決して民主党支持者ではないけれど

現民主党政権が間抜けであり腑抜けであることは確かにその通りだとして、個々の会見の揚げ足取りやミクロ的な対応の一つ一つをあげつらって、ヒステリックに彼らのみに責を押し付けようとする様は、それにしてもどうなんだと思う。
危機管理体制、より広い角度で捉えた言い方をすると、リーダーシップがまったくハチャメチャである、という点が、今の菅内閣が大きな誹りを喰らっている主要因であるわけだが、じゃあそもそもこのような体制、システムを構築していった過程にいたのはいったいどこの誰なんだ、という議論はもう少し目に見える形で巻き起こってきてもよいのでは?
たとえば、福島第一原発が稼働し始めてまだそれほど経っていない頃、構造上の欠陥に気付いたアメリカ人設計者の1人が操業停止を訴えたが、経営的および政治的判断により黙殺された、という話がある。
もはやここまでくれば誰が何を言っていても、それがどこまで本当のことなのか、我々にはなかなか判断がつきにくいのだが、仮に総合的に情報を鑑みた上で、この話が真実なのだとすれば、黙殺という選択肢を採った当時の自民党政権に責めはないのか?
表向きはGEや東京電力といった民間企業の下した判断だ、という形にたとえなっていたとしても、エネルギーや交通、通信、建設などの生活インフラには高い公共性が付随しており、それらを担務する各企業体が行う一挙一動には少なからず官の影響力が及ぶ、なんてことは誰でも分かっている。
事が起きてしまった場合に、それらに対処する能力や責任というものも当然重要だが、それ以前に、危機に対して端から脆弱な状態というものを放置してしまっていた、あるいは半ば意図的に生み出していったともいえる過去の政権が背負っている罪はそれ以上に大きいのではないだろうか。
まったくの独占状態にあるエネルギーインフラ業界において、原子力発電所を建設、操業する際の様々な規制を緩め、検査の基準を下げて回数も減らし、"何か"が起きてしまった時に対応することができないズブズブの土壌を醸成していった自民党政権およびその周辺への追及の声というものも、今後より大きなヴォリュームで聞こえてくるべきであると思う。
思えばこれに限らず、天下りは無論のこと、消えた年金問題や官製談合などなど、すべて根っこはつながっているような気がする。
もし、とかたらればの話をしたって意味がないことは分かっているが、仮にこの震災が起きた時の政権が自民党であったとして、今の内閣よりもずっとマシに舵取りをすることができていたに違いない、と言い切れる人がどれだけいるか?
福田とか安倍とか麻生とか、平時でもあれだけの無能ぶりを発揮してしまった総理大臣たちはまだ記憶に新しい。

...まずは責任の所在を押し付け合うよりも、現在進行形の未曾有の危機に国を挙げて対処していかなければいけない時に、こんな愚痴しか吐けない私も愚かだ。


♪ 死神の饗宴 - 人間椅子


2011年3月30日(水)

憤るぐらいしかできないけれど

このたびの津波で自宅とともに両親を流されてしまった9歳と7歳の兄弟が陸前高田市にいる。
少し前に確か「みのもんたの朝ズバッ!」か何かで取材されており、避難所で明るく健気に頑張っている姿が印象的だったのだが、今日配信の「毎日jp」で、その9歳のお兄ちゃんが高齢者たちを元気づけようと率先して体操の手本を見せている、という主旨の記事を目にした。
「今が大人だったらいいのに。早く働きたいよ」、そんな言葉も載っていた。
その直後に、東京電力の社長がめまいと高血圧で入院した、という記事を読んでしまったわけだが、本当汚い言葉遣いでごめんなさい、思わず「ふざけんな」と心中呟いた。
もちろん大変な状況にあることは分かる、おじいちゃんだから体調を崩しやすいのも分かる、しかし。
合理的でない感情論や根性頼みの主張を吐くことは本意ではないが、一瞬にして親も家も失ってしまったこんなに小さな子供たちが走り続けているのに、東北のみならず日本中、国外にすら危機をもたらしてしまった巨大企業の経営者が過労でベッドに臥せて身を隠している様はおかしい。
この子たちばかりでなく、メディアに露出せずとも生き地獄に落とされてしまったたくさんの人たちが、倒れることもできずに立っているのだから。


♪ Dream Japan - Kory Clarke


2011年3月19日(土)

試練

3月11日以来、もちろん業務が激しい日が続くが、こんなことは被災地の人々の苦労を思えば何ということはない。
今後東北では多数の仮設住宅の建設が見込まれるため、いろいろな資材が関西でも調達困難になっており、私の計画にも支障を来しているが、これも被災地の状況を鑑みれば無論致し方ない。
花粉症の状態が本当に酷く、鼻も目もえらいことになっているが、もちろんそんなことも被災者たちが強いられている艱難辛苦に比べたら取り上げるにも及ばない鼻くそのような悩みである。
当分の間、この思考回路で大抵の人たちが大抵のことを我慢できるだろう。

今は、何万人もの人が生命を失い、何十万人もの人が極めて劣悪な環境に置かれて苦闘している状況が誰の目にも鮮明に映っているから、皆が彼らに対し寛容な気持ちになり、思いやることができている。
だけどふと思うのは、このような国難に見舞われている時に限らずとも、同じように苦しみ、悩み、絶望と戦っている人たちがどこかに必ずいる、ということ。
テレビや新聞で報道されなくても。
数が多い少ないの問題ではなく。

16年前の震災の後も、関西を中心に人々の心は復興に向けて一つにまとまり、いろいろなところでたくさんの人たちの思いやりが示され、助け合いが見られた。
果たして、その心は今年の3月10日までも継続して保たれていただろうか。
他人のトラブルに共感し、気遣うことができていただろうか。
その答えを知っている私たちは、今こそ試されているのかもしれない。
時が経ち、たとえテレビの画面や新聞の紙面から被災者たちの姿が消えたとしても、どこかで誰かが悲しんでいるということを、私たちはイメージすることによって知る必要がある。


♪ 僕にできるすべて - THE BOOM


2011年3月14日(月)

思いの一端

私はテレビ局に勤務している。
それで飯を喰っている。
だけど、テレビで一連の報道を観ている時に、何か違うんじゃないか、これでいいのか、道筋が間違っていやしないか、と疑問を感じることはある。
偽らざる本音である。
もちろん放送界だけではなく、どの業界においても、すべての人が適切な行動を常に取っているというわけではない。
ただ、とりわけこういった非常時においては、我々マスコミの一挙一動が持つ意味合いは平時以上に強く大きく、一部の人が適切でない言動を為した際、それがダイレクトに不特定多数の人たちに伝わってしまうことが多い。
だから私も一視聴者の立場でものを感じる時、言いようのない苛立ちともどかしさを覚えてしまうことがある。
この世界で飯を喰わせてもらっている身だけれど。
明確な答えは出ないし、おそらくない。

だが。
一方で、メディアの有する力がこういった際にプラスの方向に作用し、あるいは人を助け、元気を与え、希望や安心をもたらすこともある。
過去にもあったし、今回だってきっとある。
そう信じて、矮小な自分なりに精いっぱい生きていくしかない。


♪ A Sad Song - Ten Years After


2011年3月 3日(木)

甘いかな

逮捕された予備校生がしてしまったことは紛れもなく不正行為ではあるが、こうしてすべてのマスメディアがトップで特集を組むほどの扱いをすべきかどうか、ということについて考えてみた時、違和感を覚える。
此度の事象がなぜこれほどまでに高い注目を集めたのかといえば、それはひとえに“Yahoo!知恵袋”というオープンなインターネットサイトが舞台として選ばれたからであって、決して事件そのものが凶悪だったからでも救いようがないからでもない。
インターネットおよび携帯電話という比較的新しい、そして社会の中枢を牛耳る層の人々にとってはイマイチ全貌がつかみきれないツールがカンニング行為に使われ、それが衆目に触れるものであったということのみがセンセーショナルであったに過ぎないわけだ。
にもかかわらず、主に行為者にまつわる周辺情報に強いスポットが当てられてしまい、まるで世間そのものを震撼させる猟奇事件を犯したかのごとく報じられている現在の状況には、あえて語弊があるかもしれない言葉を使うならば、かわいそう、とも感じられる。
繰り返すが、彼がやった行為は決して許容すべきものではなく、露見して身柄を拘束されてしまった以上何らかの責めを負うべきだが、別に人を殺したわけでも残虐非道な蛮行を為したわけでもない。
仮に投稿したサイトがYahoo!知恵袋でなく、もっと閉じられたコミュニティなどであればおそらく事はバレることなく、彼は無事に入学を果たしていかもしれない、その程度の出来事である。
実際、今回のケースは氷山の一角に過ぎず、デジタルツールを駆使した不正行為で合格を拾った受験生は過去も含めてたくさんいると考える方が自然ですらある。

もっと他に、メディアが攻撃すべき悪辣な対象は世に遍く存在しているのではないか?


♪ Old Man - Neil Young


2011年2月12日(土)

溺れかけ

午前はスイミングスクール。
1時間のレッスンはあっという間に終わる。
今日はちょっとハードめだったなー。

最近よくヴェランダにヒヨドリがやってくる。

ヴェランダにやってくるヒヨドリ

晩ごはんは、昨日妻が不在時に私が作っておいたカレーライス。
エリンギ、シメジ、タマネギ、パプリカ、三度豆に、季節もののカキも入れてみた。

カキ入りカレーライス

とろみが足りなくてなんだかスープカレーっぽくなってしまったが許せ。

北方領土にズカズカと踏み込んだ上で、まさに盗人猛々しいといった風情がピッタリくるロシア陣営に対してはもちろん腹立たしい思いだが、詰まるところ、自国の領土だと言いながらこれまでなんら実効的な措置を取ることなく、相手がアクションを起こしてきて初めてウジウジと文句を垂れ出す我が国の指導者たちこそが本当の間抜けであることは間違いない。
尖閣諸島や竹島に関しても同様。
外交、内政ともにこれだけツッコミどころ満載のデタラメでありながら、比較的マトモな国家の体を未だ為しているように見えることが、実に不思議である、日本。


♪ When I was Child - Page & Plant


2011年1月 6日(木)

半日ぐらいなら時間を潰すことは簡単だ

相当久しぶりに「ヨドバシカメラ」に行ってみた。
最近コレ系の商品や書籍、CD、DVD等はもっぱらインターネットを経由して購入するばかりなのだが、家電量販店にせよ書店にせよ、やはり実店舗に行ってアイテムを手に取り肉眼で見ることはとても大事なのだな、と改めて実感した。
モニター上でたくさんの商品の中から効率的に目標物を探し出すよりも、実際に店の中を歩きながら一つずつ見て回る方が、単純に楽しい。
電子書籍にも終生馴染めそうにない、少なくとも私は。


♪ Four More Years - Warrior Soul


2010年11月 9日(火)

懐古主義

不景気である。
実際に右肩下がりなままかどうかは別にして、そういった雰囲気は未だに蔓延っている。
それは確かにそうで、各所においてビジネスモデルが変容しつつある、と巷間よく言われている。
私が身を置く業界ももちろん例外ではなく、そんな最近の実感から派生して、ふと重要なコンテンツたるテレビ番組というものに思いを馳せてみた時に、本筋の衰退を感得したような気がして、慄然としてしまった。
つまり、懐かしの名番組たちに及ぶものが現在、私見によると殆ど皆無。
「連想ゲーム」、「クイズ面白ゼミナール」、「クイズダービー」、「オレたちひょうきん族」、「鶴瓶上岡パペポTV」、「8時だョ!全員集合」、「川口浩探検隊」、「世界まるごとHOWマッチ」、「なるほど!ザ・ワールド」…。
かつて存在していた、シンプルで完成度の高いバラエティ番組はあれやこれやと思い浮かぶが、翻って今は果たして。
このような感慨はテレビ番組のみならず、ひょっとしたら他にも色々な分野において当てはまるかもしれない。
例えば、音楽、マンガ、映画、ゲームソフトとか。
昔はよかったじゃないけれど、当時に匹敵するような関心や情熱を少なくとも私は今、感じ得ない。
といってもこんな感想はそれこそ何世代にも渡って、遥か昔から先人たちによって語り尽くされている吐露のループに過ぎないのかもしれないけどね。
レコードどころかCDすらショップで買うことはなく、物心ついた時から調べ物といえばインターネットで検索、手に携帯電話を握りしめたまま生まれてきたようなニューエイジたちが感じる事柄はもちろん、またまったく別物なのだろう。


♪ Jaded Heart - Dokken


2010年11月 3日(水)

充実の祝日

今日は妻が午前中仕事で出掛けていたので、その間に私が昼ごはんの製作。
昨日の残りの栗ごはんに、アジの開きを買ってきて焼いて、あとはもずくの味噌汁を作ってみた。
グリルで魚と一緒に焼いたタマネギもまあ合格でしょう。

昼ごはん

午後から敷地および拙宅にてA氏と打ち合わせ。
現地だからこそ分かることの確認、そして場所を移して細々とした話と、適所の作業を行うことができ、今日も少なからず前に進んだ感を得た。

「ウクレレカフェ オコナ」で晩飯。
先週無事に入籍を済ませたマスター夫妻、めでたい。
ロコモコとタコライスを食べたが、ともに正常進化を遂げている。
コーヒーも美味かった。

家に帰ってきて上着を脱いだらなぜかトノサマバッタがどこからともなく飛び出てきた!

少し小さめだからひょっとしたらクルマバッタかも?

褐色型。
どこで拾ってきたのか?

話は変わって、黒木昭雄氏の「自殺」報道ほど、ここ最近で腑に落ちぬ出来事はないといっていい。
マンガみたいだけど、実際にこういう消され方はあるのだなあ…。


♪ Won't Get Fooled Again - The Who


2010年9月 3日(金)

オリックスvsソフトバンク@スカイマークスタジアム

スカイマークスタジアムにオリックスvsソフトバンクを観に行ってきた。
花火ナイター。

5回終了時、花火がドカンドカンと上がる

オリックス・先発の中山は立ち上がりからテンポよくパシパシ抑えていったが、ソフトバンクの小椋はコントロールが定まらず、イマイチな感じ。
特にカーヴが抜けてばっかり。
カブレラの先制ツーラン、坂口のタイムリー2本に、T-岡田の左中間への豪快な中押しスリーランも観ることができて、スタジアムは盛り上がった。

T-岡田のスリーランに沸く

結果は、11-2でオリックスの快勝。
珍しい?

まずまず順調な使い心地を見せているポータブルナヴィ「AVIC-T07」だが、山麓バイパスの中はさすがにGPSが利かなかったようで、帰り道、出口を出てからしばらくおかしな挙動を見せていた。

せっかくナヴィを取り付けたので、興味本位でよく知っている場所へ行く時もルート案内機能などを使ったりしているのだが、それに従っていると実際の道路状況や地理感覚に疎くなる、つまり端的にいうと道を覚えなくなる、というおぞましい現象が今さらながら体感される。
知らないところへ行く際も、プリントアウトした地図を手にし、どこで曲がるんだと周囲の風景を注視しながら運転している方が性に合っているのかもしれない。


♪ Relax Your Mind - Boyz II Men


2010年4月10日(土)

第33回定期演奏会など

午前、うちから徒歩1分のヘアサロン「フリゼーア」で散髪。
前髪パッツリ短くしたぞ。

午後、兵庫県立芸術文化センターに、佐渡裕氏指揮の「第33回定期演奏会」を聴きに行った。
演目は、「箏とオーケストラのための協奏曲」(作曲 坂本龍一)、「『樹影にて』アジアの箏とオーケストラのための」(作曲 グバイドゥーリナ)、「バレエ音楽『ロメオとジュリエット』op.64より」(作曲 プロコフィエフ)。
箏の演奏はなんと宮城道雄に師事したという、沢井一恵氏。
そして1曲目の、坂本龍一氏が書き下ろした協奏曲はこれが世界初演。

そのコンチェルトだが、坂本龍一という名前から私が事前に想像していたような曲とは大きく異なっていた。
箏を前面に出したキャッチーな主旋律でも聴かせてくれるのかな、と思いきやそうではなく、音数が少なくアヴァンギャルドな構成。
冬、春、夏、秋の4つのパートに分かれており、沢井氏がそれぞれチューニングの異なる4台の箏を爪弾いていたが、四季を通して曲調はマイナー。
夏ブロックはさすがにヴォリュームこそ上がっていたが、音階は決して明るくない。
分かりやすくもなかった。

2曲目の「樹影にて」も、とことんプログレッシヴ。
一般的な邦楽というイメージから想起される、流れるような箏の旋律をいくばくか期待はしていたんだが、曲は前衛に徹する。
聴いてる途中、ジョン・ゾーンとかジョン・ケージっぽいなあ、なんて思ってたんだが、後で沢井氏の経歴を見てみたらズバリ、ゾーン氏ともケージ氏とも一緒に仕事をしたことがあるそうで!
坂本氏の協奏曲があのような作りになったのも、和音階の縛りに引っ張られたことに加え、ひょっとした奏者である沢井氏の特性に負うところが大きかったのかもしれないな。

兵庫県立芸術文化センター3Fデッキエリア

前半がこんな感じだったから、休憩を挟んで演奏された「ロメオとジュリエット」に、「ああ、いかにもこれが“音楽だ”」と安堵を感じてしまったことは否定できない。

正直申し上げて、この管弦楽団の演奏レヴェルは決して最高の部類に入るものではないと思うが、それでも開演前のプレトークも含め、佐渡裕氏の指揮が4000円で観られるのはお得と言う他ない。

芸文センターを出て、ピッツェリア「La Zucca di napoli」で晩飯を食べた。
マリナーラ、水菜とパリパリイモのサラダ 温玉のせ、窯焼き タケノコ、窯焼き ラムをオーダー。
不味い、というわけではなかったが、ピッツァは他に美味すぎるものを知ってしまっているだけに、まあ普通。
そしてタケノコはちょっとアク抜きが甘いのか、エグみがかなり残っていたように感じたし、ラムは火の通しが足りないような味わい。
残念ながら食後の胃内には若干の不快感が残った。

店を出た後、「西宮ガーデンズ」に少し立ち寄り、妻がTシャツやアクセサリーを購入した。


♪ 盗人賛歌 - 人間椅子


2010年1月24日(日)

「オーシャンズ」とか

昼、霞町のフルーツパーラー「Fru Full」へ。
ミカンのホットジュースとバナナのホットジュース、フルーツサンド、それからイチゴのパフェをオーダー。
ミカンはそろそろシーズンも終わりだが、今日のジュースは糖度が最高の15.8を記録したと、店のご主人がテンション上がり気味で糖度計を見せてくれたほど、甘くて美味かった。

イチゴのパフェ

これらのみならず、サーヴィスでリンゴ、イチゴ、タンカン、キンカンをちょっとずつ切って出してくれ、さらに我々が美味い美味いと唸っていたら、沖縄産のタンカンをお土産に頂きまでしてしまった。
そして店主が草野球キチガイであることが判明。
今は日曜仕事のため遠ざかっているそうだが…。

「Fru Full」を出て、「109シネマズHAT神戸」へ向かった。
映画「オーシャンズ」を観るのだ。
なぜか、と言ってしまうのは若干失礼かもしれないが、今日のHAT神戸は混雑していた。
「オーシャンズ」上映のシアターもかなり埋まっており、やや驚き。

「オーシャンズ」はさすがに映像美が素晴らしい。
どうやって撮ったんだろう、よくこんな場面に出会えたな、といった題材のパワーはもちろんあるが、それと同等に、精細で鮮明な映像美が印象に残る。
ただ、後半に持ってきていたあまりに恣意的な構成と説教臭い教示はちょっとどうなんだ。
反捕鯨国のフランス人であるジャック・ペランが何かのメッセージを込めた、と理解すれば納得しやすいのかもしれないが、それはあまりに穿ち過ぎか。
アラステア・フォザギルであればこのような作りにはしなかったような気がする。
イルカと水鳥がイワシを捕食しているところにニタリクジラが突っ込んでくるシーン、海底を埋め尽くし蠢く無数のカニの群れにはド肝を抜かれた。
シャコとカニの一騎打ちもすごかったが、一つ一つの動きにつけられているSEが少し安っぽく感じた。
妻のお気に入りは、ウミウシがヒラヒラと海面を目指して泳いでいく映像。

映画を観た後、同じHAT神戸にある関西スーパーで買い物をして帰り、珍しいことに私が夕飯のおかずを作ってみた。

晩ごはん

といっても簡単な豚のしょうが焼き。
まあ食べられる味になっていて安心した。


♪ What U Lookin' At? - Kid Rock Feat. Uncle Kracker


2010年1月 2日(土)

食記

元日の朝は雑煮を食べ、昼は前日にピックアップしたロックフィールド製のおせち料理を食した。

おせち料理

小さめのお重だったので、足りるかな、などと要らぬ心配をしておったのだが、女2人と私で喰うには充分、昼だけでは食べきれず夜に回したほど。

午後、なんだかよく分からない流れに乗って、久出ヶ谷町にある「サーティワン」に妻と歩いて行き、「バラエティパック」という名のアイスクリームの詰め合わせを購入、帰ってきて母と3人で食べた。

「サーティワン」のバラエティパック

確かに美味いが少し量が多かったな。

夜はおせちの残りと、「そうざいや地球健康家族」で買っていたおかず数品で晩餐。

今日は昼飯に、「だしや」の正月限定「煮干カレー」を喰おう、と決め、「フリアンド」のパンで朝食を摂った後、妻と母と3人で大阪市内へ。
店主のYさん夫妻が新ユニフォームで出迎えてくれた。
一口食べると魚系だしの風味が口中に広がり、次いでフルーツの甘み、そして後味にピリピリとした辛さ。
こりゃ美味い。

「煮干カレー」 写真を撮り忘れたので「だしや日記」から拝借した参考画像

一昨日あたりから「カレーが食べたい」と言っていた母も満足そうだ。

食後、初詣客らしき人々で混み合う天神橋筋商店街を少しだけ歩いてから、新大阪駅へ向かった。
予想通り駅はすさまじい人出で、駐車場に車を停めるのにも20分ほど待った。
15:20発ののぞみに乗って名古屋へ帰る母をホームで見送り。

西宮へ戻る途中、伊丹の「ひごペットフレンドリー」に寄って魚の餌を買って、帰宅。
晩飯は苦楽園口の「ラーメンたろう」で妻と2人済ませたが、久しぶりに喰うラーメンは美味かった。
おにぎりと餃子も食べたら腹いっぱい。

しかし内容が喰い物の話ばっかりだな。
どうしても年末年始は食べてばっかりいる気がして、そして体を動かす機会は限りなく少ない。
たまに帰る実家などではとにかく何かと喰え喰えと勧められるし。
酒は飲まないのが救いだが、それにしても間食を含めカロリー摂取量は増えざるをえない。
落ち着いたら少し運動をせねば。

ちょっと風邪気味かも。


♪ Already Gone - Eagles


2009年12月25日(金)

大丈夫か、ネッツ…

最近深くニュースをチェックしていなかったので新しい「ダンクシュート」を読んで驚いたのが、まさかのアイヴァーソン復帰!
しかも古巣、セヴンティシクサーズ。
知らんかった。
正直、復活の可能性は低くないとは思っていたが、それにしても早かった。

同じく「ダンクシュート」の記事中にて、シャックの一人称日本語訳が「俺様」であることについて今さらながら笑いがこぼれてしまう。
英単語としては等しく“I”でも、私、僕、俺…。
インタヴュー内容を和訳する場合、呼称のみならず、ですます調であるか否か等々、取材対象者のイメージと翻訳者のセンスに依るところは非常に大きい。
改めて日本語表現の多様さを思い知るとともに、なぜ英語がこれほど世界中で公用語然として普及しているか、その理由がよく分かる。
日本語ネイティヴであることに、いささかの幸運を感じる。


♪ Don't Say You Love Me - The Corrs


2009年12月18日(金)

最近

これまで比較的暖かかっただけに、久しぶりに本当の冬の寒さを感じた体が震える。
毎日は、後悔と忍耐と弛緩で成り立っている、などとふと思う、年の瀬が迫った週末の夜。


♪ Hit The Road Jack - Ray Charles


2009年12月13日(日)

生きるスタイル、とか

最近、週末のお気に入りテレビ番組は「渡辺篤史の建もの探訪」から「週末の探検家」、そして「ウォーキングプラス」に至る流れ(再放送枠も混じっているが)。
他、よく観ているのは、昔から好きな「世界ふしぎ発見!」を始め、「ダーウィンが来た!生きもの新伝説」、「ワイルドライフ」、「住人十色」、「人生の楽園」、「ソロモン流」、それからアニマルプラネット全般にナショナルジオグラフィックチャンネル全般。
こうして改めて見てみると、もちろん私個人が好む番組だからある程度ジャンルが絞られてはいるのだが、それにしてもここ数年で、いわゆるエコやネイチャー、そしてそれらに携わる人にスポットを当てたものの絶対数が増えたように思う。
テレビ番組だけじゃなく、近所を歩いても、仕入れにこだわる青果店や、オーガニックを売りにする飲食店、木製玩具を専門に扱う店などなど、そういった志向のショップがたくさん目につく。
気がつけば、老後は何をしようかな、なんて考えている自分がいたりもする。
どれも初めは単なるスタイルに過ぎないかもしれないが、それでいいと思うし、そんなもんなんだろうと思う。

ウクレレカフェ「オコナ」で早めの晩飯。
ロコモコとオリジナルのカレーを初めて食べてみたが、美味かった。
ヴォリュームは控えめ。
食後に、バナナがたっぷり添えられたタロイモベースのパンケーキと、コーヒーを。
このコーヒーがそんじょそこらの代物ではなく、先日マスターがハワイ島で買い付けてきたという、最高級のコナコーヒー。

最高級のコナコーヒー

日本国内では入手できない最高グレードの豆であるらしい。
生豆は我々が見慣れている白っぽいものではなく、新鮮であるがゆえに緑がかっている。

生豆

そしてそれを焙煎すると、中から染み出てきた油分でテラテラに!

炒りたての豆

こんな風に淹れてもらったコーヒーが美味くないはずがない。
いやあ堪能した。


♪ Elsewhere - R. Kelly


2009年12月 5日(土)

「カールじいさんの空飛ぶ家」→「鶏天」

公開初日、「カールじいさんの空飛ぶ家」を観てきた。
例によって「109シネマズHAT神戸」で、例によって3Dで。
原題は「UP」ですか。

空飛ぶ家で旅に出るまでの描写は、本編ではもう少し丁寧に時間をかけて再現されているのかと思いきや、トレイラーとそれほど変わらないヴォリュームのダイジェストになっていたことにやや刮目。
セリフなし、BGMのみで綴られる数十年間はしかし、その重みを観客に訴えかけるには充分な力を持っている。
中盤、ギアナ高地的な憧れの地を舞台に繰り広げられる活劇は、物語全体を包み込む、地に足着いたじんわり沁み入る主題に比べると正直言って若干薄っぺらいかもという印象は否定できないが、ティーンエイジャー以下の子供たちにとってはこの映画の中で一番の楽しみどころなのかもしれない。
アニメ映画なのでもちろん小さな子たちも観に来るが、さすがに彼らはじいさんの心情までは忖度できないだろうから。

現実を起こるがまま受け入れつつも、自身に限界を設けないで一歩踏み出すことの大切さ。
そんな、ともすれば説教臭くなりがちなテーゼをごく自然に示してくれるところが、ピクサーの実力。

ピクサーの作品は舞台こそ大きいものの、登場人物の数が比較的少なめだったり、主人公が住む世界がある程度限定されていることが多いが、そのあたりのバランス感覚も面白い。

夕刻、神楽町の交差点近くにある「鶏天」に晩飯を喰いに行った。
「アルテシンポジオ」のOシェフに教えてもらった店である。
噂に聞く通り、素晴らしい素材揃い。
特上白肝、笹身、ずり、こころから成る刺身の4種盛り(どれも新鮮で美味く、ずりのコリコリ感や笹身の味わいが絶品)、鶏天サラダ、特上手羽先、特上ねぎま、さつまいもバター(謎のエスニックスパイスがいい仕事)、特上皮、下仁田ねぎ(豪快極まりない)、そして締めに卵かけご飯と鶏ガラスープのセットを食した。

刺身の4種盛り特上皮下仁田ねぎ卵かけご飯と鶏ガラスープのセット

焼き鳥の味付けはほぼ塩でタレはない。
それほど肉そのものに自信があるということなのだろう。
ちなみに、こだわりの店主は私と同い年。
これはまた行かねばな。


♪ Make Me - John Scofield


2009年11月22日(日)

「Disney's クリスマス・キャロル」鑑賞

「109シネマズHAT神戸」に「クリスマス・キャロル」を観に行ってきた。
吹替のデジタル3Dヴァージョン。

概ね原作に忠実な作りになっていたようだが、ディズニーがわざわざアニメにしたということで、比較的低年齢層の鑑賞者もターゲットにしているはず。
であるならば、スクルージの守銭奴ぶりだとか底意地の悪さといった、本題を強化する導入部分はもう少し分かりやすくなるようにアレンジをしてもよかったのではないかな、という気もしないでもない。
実際、劇場には小さな子供を含む家族連れが多かったが、普遍的なテーマとはいえ、キリスト教文化圏ではない我が国の子供たちにその主張のどれほどが伝わったことか…。

「クリスマス・キャロル」は私にとって、おそらく高校生か大学生ぐらいの時だと思うが、実写版のクラシカルな映画をテレビ放送で観て、感銘を受けた思い出の作品。
そういった意味合いもあって、今回のものもノスタルジックな想いを抱きながら観ることはできたが、正直言ってそれ以上の感動はなかったかな…。

声優の山寺宏一さんはとても良かった。
やはり吹替は話題性だけのタレントや畑違いの著名人ではなく、高いスキルを持った専門職の方たちにお任せしたい。

3Dは確かに面白いけど、専用メガネのレンズ部分が暗くなっているため、必然的に映像も輝度が落ちてしまうのがちょっといただけない。


♪ Sorry - Guns N' Roses


2009年11月18日(水)

羨ましいなどという言葉では生ぬるい

ものすごい本だ、「世界怪魚釣行記」。
度を超した釣り好きが高じ、わずか2年半で会社員を辞めて、それから世界の辺境を訪れて怪魚を釣りまくる著者の武石憲貴氏(ちなみに私と同い年)のあまりのすさまじさには、脱帽するより外にない。
職業作家ではないので文章そのものは洗練されているとは言い難いが、だからこそ伝わってくる生々しさ。
そしておそらくはありのままに限りなく近いであろう実体験を綴る中に顔を覗かせる笑いのセンスはまさに一級品だ。
一歩間違えれば死んでるんじゃないか、という激烈ないきさつと、毒にも薬にもならない間抜けな失敗談をまったく同列に、こともなげにサラリと書き述べている様なんかは、プロの物書きとしての技術ではなく、持って生まれた人柄の一部なんだろうと思う。

羨望という言葉はもはやふさわしくなく、これはもう憧憬と言うしかない。


♪ Still A Fool - Muddy Waters


2009年10月21日(水)

料理人出遭う

お店が休みの「アルテシンポジオ」のOシェフとともに、黒崎町の「だしや」へ晩飯を喰いに行った。
私の好きな2人の料理人、Oさんと「だしや」のYさんを邂逅させたかったという密かな目論見も達成。

おでん、だしまき、ブロッコリーと桜えびのおひたし、ヒメダラ、ナスと豚の味噌炒め、ぎんなんなどなどとともに、Yさんが先週釣ったうなぎの蒲焼きがコッソリ供された。
さすが天然もの。
そして締めはもちろん「ぶしたまんま」と味噌汁。
削りたての鰹節には、Oシェフも思わず店内で「美味しい!」と雄叫びを挙げた。

食の話、家族の話、互いの近況などといった他愛もない話題に加え、仕事に関する真面目な話もちょいちょいと。
異業種の最先端で働く友人と語らう、こうした機会を持つことは、特に今の境遇に身を置く私にとっては少なからず有意義なものであったに違いない。
刺激にもなるし、燃料にもなりうる。

「だしや」を後にし、浮田町の「juen」に立ち寄り。
パンケーキはちょっと余計だったかー。
「だしや」もそうだったが、この「juen」も盛況。

佳き会であった。


♪ Durch Den Wald Zum Bach Haus - Blackmore's Night


2009年9月30日(水)

同期を送り出す壮行会

10月1日付で東京支社へ異動するIくんを同期一同で囲む壮行会が昨晩催され、参加してきた。
私自身、同期たちの会に交じるのは久しぶりだったが、入社14年目になり、すっかり各部署の中堅どころとして振る舞っている自分たちの姿に改めて自覚的になるとともに、新入社員当時の思い出話を肴に相変わらず屈託なく笑い合える様に若干安堵も覚えた、そんなひと時であったように思う。
「何かの縁で同期になった」わけだから、横のつながりを保つことには意義がある。
4時間ほども1軒の店で過ごし、家が近い2人とともにタクシーで帰宅。


♪ サーカス - 山崎まさよし


2009年8月21日(金)

新世界より

前部署にいた時にいつもお世話になっていた関係会社を、業務で久々に訪れたのだが、旧知の懐かしい面々がいくつもあり、しばし話に花が咲いた。
懐かしい、とは言いつつも、今も頻々としてお顔は見かけているわけだが、やはり直接仕事で関わる機会がなくなると、距離感というものはいささか変わる。
広がった世界はもちろん保ちつつも、これまで棲んでいたフィールドも大事にしていくことが肝要と思う今日この頃。

昨晩は後輩3人と中崎町の「豚の晴れぶたい」で晩飯。
しゃぶしゃぶなど喰ったが、美味かった。
なかなか面白いひと時だった。
このタイミングで異動に引っ掛かったことも、今の自分にとってはいくつかの意味において何某かのメリットをもたらすはずだ、とも思う今日この頃。


♪ Kiss - Prince


2009年3月18日(水)

城崎温泉一人旅(仕事だけど)

(火)(水)と1泊2日、ロケの下見のため城崎温泉に行ってきた。

大谿川駅通り

関西にかれこれ17年ほども住みながら、恥ずかしながら城崎を訪れたのは初めて。
春休みということもあるのだろうが、平日にも拘わらず客はなかなか多い。
特に卒業旅行っぽい若い人とか。

今回いろいろな人の話を聞いて、城崎は各旅館や店舗が競い合い潰し合うのではなく、相互扶助を基盤とした共存共栄の温泉街であるということがよく分かった。
うちの宿にだけ客が来ればいい、というスタンスではなく、街全体が活気づくことを祈念し、祈念するだけでなくそれを具体的に様々な形をとって実行に移している。
だから、通り全体が賑わうし、歩いていてもとても楽しい気分になる。
私も含まれる、団塊ジュニア世代が中心となって旅館を支えている姿も印象的だった。
故郷を捨てて街に出ていくのではなく、必ず戻ってきて後を継ぎ、移り変わる時代に応じたPRを皆で知恵を絞って模索している。
篠田節子の「ロズウェルなんか知らない」をまず思い出したぐらいだ。


♪ Cargos Of Doom - Warrior Soul


2009年2月17日(火)

酔っ払いコント

M-1よりもR-1よりも断然に面白いこのたびの中川昭一氏のアレ、世の中が上手く回っている平時であればわははははと笑っていられるのかもしれないが、さすがにそんな趨勢にはないので日本国民の一人としてまったく情けない限りである。
それにしてもよくもまあ絶えることなくわらわらと湧いて出てくるものだ、愚にもつかぬこの手のトピックスが。

民主主義国家において、不正や腐敗や汚染のない社会を作り出すことはそもそも不可能ではないのか。

前提として、清廉潔白を身上とし、長いものに巻かれるなどもってのほか、徹頭徹尾正義を貫いて生きている、これからも生きていく、なんていうタイプの人は、いたとしてせいぜい全体の10%、いや、5%とかのものとする。
そうした場合、じゃあ代議士として世の中を糺してやろう、と息巻いて奉職している人たちは、そんな5%の人たちの集まりである、などと考えるのはもちろん大きな誤りであって、たとえ母集団が全日本国民であろうが国会議員であろうがサラリーマンであろうが主婦であろうが、欲に目が眩むことなく常に信念に従って利他的に振る舞うことができる“清く正しい”人の割合は、5%、じゃないか?
政治家になろう、と決意して行動に移した当初こそ正義感に燃えていたとしても、いざ実際にその立場になり、旨味に溢れた利権を目の前に差し出されれば、95%の人間は確実に転ぶ。
これは妄想でも虚言でも何でもなくて、高級官僚などは言わずもがな、政治家といえども、甘い汁を吸ってブクブクと肥えている、という本当にたくさんの実例を私たちは目にしている。
本音としては、一切不正や汚職に関わっていない政治家なんているわけねーよ、というのが多くの国民の思いかもしれないが、まあ皆無ということはないだろうから、せいぜい5%、という話。
とすると、法治国家において、立法と行政を担う主体で働いている人の95%が、我々と同じように金が落ちていれば拾い既得権益があればしがみつき我が身が危うくなれば保身に励む人たちなわけだから、清冽な社会など出来上がるわけがないのである。
高邁な理想を掲げる独裁者による支配を許しておらず、多数決という鉄原則を持つ民主主義を標榜しているのだから、なおさら。

実はこんなことは改めて書き記すまでもなく、たぶんほとんどの人たちが感覚的に気付いている。
ジャーナリストの中には、馬鹿な政治家を選んでいる国民にも責任がある、と言う人もいるが、その言い分は正しいように聞こえて実態には即していない。

サブプライムショックに始まった経済危機だって、根っこのところはまったく同じだと思う。
伝え聞くように訳の分からぬ怪しげな金融商品を非富裕層に売りまくったら、遠くない将来にどのようなことが起こるか、おそらくその分野を生業としている人たちは察知していたはずだが、皆が目先の利益を諦めることができなくてチキンレースのようになってしまった顛末が今。
資本主義経済というものそのものがまだ「一回り」していない状態でありながら、これまでのサイクルをさらに増幅させつつ繰り返していけば無限に右肩上がりを続けていくことができる、と本気で信じていたとは思わないが、結果的にはそうした胴欲に基づく妄信が、今の暗くて不活発な世の中につながっている。
ほら、サラリーマンだって同じでしょう。
経営陣も、自分が退任、退職するまでは自らに損失が及ばないように腐心するけど、自分がいなくなった後のことを本気で憂いて粉骨砕身する人は20人に1人じゃないかな?

これまでは、いくら政治家がアホだ、官僚が狭量だとはいっても、世界各国の中では状況は比較的マシな方なんじゃないか日本は、と思っていたわけだが、さすがにあそこまでおかしな人物が首相という位置に立っている今の状況はあまりに常軌を逸している。
かといって、解決策はたぶんないから、やっぱり泥酔会見を観ながら笑うしかない。


♪ Iron Head - Rob Zombie


2008年12月 6日(土)

追われる者

新幹線の中で寝付けない、どころか仕事「しか」していないここ数日は、目覚まし時計が鳴るよりも早く自然に目が覚めてしまう。
6時間も寝て熟睡できていれば話は別だが、今日なんかは4時間やそこらで起きてしまうのだから、しかも前夜もそれぐらいしか眠っていないのに、どうやら過緊張と呼ばれる状態なのだろう。
しかしこの状況が永遠に続くわけではないので、一社会人として戦うべき重圧と向き合っているこの師走の日々はそれなりに心地よくないわけではない、と感じている自分もいる。
機嫌よく乗り切るしかないね。

東京での会議、細々とした打ち合わせなどを終え、つけ麺喰ってカフェでちょっくらしゃべって帰阪。
陽の沈んだ関西は尋常じゃないほど寒かった。
エキュート品川の「ボビーユーハイム」で買った「ひとくちフロマージュ」が手土産。

今みたいに立て込んでいる時には特にこのように思いがちなのだが、働き出してから学生時代のように物事について深く思索するということを本当にしなくなった。
ポコポコポコと駆け足気味のいいテンポで生きてはいるのだが、事象の表層に思考を滑らせているだけで、本質を掴み出して自分の基準に照らし合わせる、という作業をほとんど忘れかけていることに自覚的ではある。


♪ Fire - Jimi Hendrix


2008年10月 7日(火)

日本三大連作小説の1つ、「ロズウェルなんか知らない」

平均して月に1冊を超えるほどには、Amazonの評価でいうところの5つ星に相当する良書に巡り会ってはいるのだが、先日読了した「ロズウェルなんか知らない」(篠田節子)は中でも抜けて面白かった。
私は厚顔の極みにもこの著者を「ハルモニア」、「女たちのジハード」で名前を聞いたことがある程度にしか知らず、遅まきながら今回初めてその著作を読んだのだが、女性とは思えない着想にまずは驚嘆した。
ロズウェルって。
幼児性をいつまでも残すアホな男の発想じゃないか、どう考えても。
にも拘わらず、古き佳き王道を往く連続ドラマのごとくガッチリした起承転結を有し、展開そのものはベタながら巧み過ぎる筆力で読者を掴んで離さない。
何よりおそらくは皆川博子氏や高野秀行氏が書く文章と同じく、リズムやテンポやヴォキャブラリーといった感覚的なものが私に合っている。
すぐに他の著作を5冊ほど発注した次第。

これは「有頂天家族」(森見登美彦)、「定年ゴジラ」(重松清)と並び、日本三大連作小説である、今のところ、私の中で。


♪ Nosey Joe - The Brian Setzer Orchestra


2008年10月 1日(水)

「イーグル・アイ」を観て井上夢人を想う

つい先日のこと、“Plaxo”という素晴らしいツールを拾い、MacBookのiCalのスケジュールとVAIOのOutlookの予定表を同期することに成功した。
これは実に便利だ。
たいしてメモリーも喰わずにバックグラウンドで仕事してくれてるみたいだし。

映画「イーグル・アイ」の試写会に行ってきた。
極力具体的にならぬように簡単に感想を記すが、気になる方は以下、お読みにならぬよう。

まるで岡嶋二人(井上夢人)の小説を思わせるかのような、テクノロジーの反乱。
そしてとにかくスピード感がものすごい。
結婚披露パーティーで言うなら、「しばしご歓談を」から始まるご歓談タイムがまったく設けられていないかのような高密度で進んでいく。
でき得る限り実写にこだわっているようで、市街地での大規模なクラッシュを含むカーチェイスや、空港の手荷物運搬装置のような施設内での捕物劇のシーンなど、実に観応えがあった。
恐ろしい手間暇と費用が掛けられているのはさすが。
ただディテールはともかくとしてプロットは古典的なハリウッド大作のご都合主義の範囲を逸脱していないように感じられた。
特にラストはいささか残念至極ではないか。

偶然だろうが、この間観た「ウォーリー」と共通する着想が見受けられたが、今の時代にコンピューター自立社会を舞台とした話を作るとこうなるのはある意味必然か。
そうなると冒頭に立ち返って、やはり井上夢人は偉大な予言者だった、と感嘆することになるのだな。


♪ Blog;Neon - Chris Minh Doky


2008年9月21日(日)

VAIOを買った

100%デザイン重視で、VAIOのVGC-LJ92SというデスクトップPCを購入した。
今使っているWindowsマシンがだいぶ重たくなってきたので、ついにVistaに乗り換えだ。
ソニースタイルのオーナーメイドを利用し、CPUはCore 2 Duo、メモリーは4GB、HDDは320GB、TVチェーナーはなしといった具合。
デスクトップでありながら軽量、省スペースで家の中をモバイルPC感覚で持ち歩くことができ、15.4型のワイド液晶モニターも非常にいい感じ。

というわけで本日昼からセッティングに取り掛かったわけだが、私の錯誤により、作業を進めた時間を4時間ほど巻き戻してしまったり、未読の新着メールを相当数消去してしまったりといったトラブルも発生、いやはや精神が疲れ果てた。

3台のコンピューターと外付けHDDを使って作業中 ああ面倒くさい

それにしてもOSは進化すればするほど、パッと見は初心者にも分かりやすくヴィジュアライズされてるように感じるけど、その実、構造や仕組みを把握することはどんどん難事になっていく。
それはOSそのものが複雑に難解になっているという意味ではなくて、その本質にユーザーが触れることを拒んでいるように見受けられるのだ。
フォルダ階層などはデフォルトではほぼ見えないようになっているし、Local SettingsやApplication Dataといったフォルダには管理者アカウントといえどもアクセスすらできないではないか。
皆さんは難しいことは考えなくていいから表層に見えるインターフェイスだけ使ってPCで遊んでね、とでも言っているようだ、Microsoftは。
拡張子なんかは経験の浅い人ほど意識しなければいけないものだと思うのだが…。

本当に眼も脳も疲れた。
まだもう少し掛かりそうだな…。
でも完全に移行が済めば我が家のワイヤレス環境がまた一歩前進する。


♪ Roll Um Easy - Little Feat


2008年7月 3日(木)

小説を読む者の1人として

最近本を買う時は店舗に足を運んで…、という機会は本当にめっきりなくなり、もっぱらネットショッピングや会社まで配達してくれる本屋さんを利用するばかりなのだが、それにしたって文芸書は売れていないみたい。
たとえばAmazonのランキングを見ても、トップ100にすらほとんど入っていないじゃないか。
一過性のブームに乗ったっぽい商品や、語弊のある表現かもしれなくて恐縮だが中身が充実しているとは言い難い新書や自己啓発本の多いこと多いこと。
相次ぐ雑誌の廃刊やマンガ雑誌のコラボなどが示すように、出版物全体が危機的な状況にあるらしい現在ではあるが、小説好きの1人としては寂しいものがある。

小説といえば、今週から始まった担当新番組に拘る超過気味業務のおかげでスタッフ一同含め疲労の色濃い連日だから、ということも関係あるのかもしれないが、ありたい存在になれず打ちひしがれがちな時分に、町田康はガツンと堪える。


♪ SPIRITEK - 宮沢和史


2008年6月20日(金)

たまにはベタに時事

私なんかは、アルカイダ発言で衆目に対して自らがアホであることを誇示した鳩山邦夫法相もたまにはまともなことをするじゃないか、という思いで見ているのだが、宮崎勤死刑執行に端を発し、例の秋葉原の事件と相まって今また死刑廃止論争が俄かに盛り上がってきているらしい。
廃止論者の中に亀井静香がデンと鎮座しているのがまた滑稽の限りだが、それは今回はまあいいか。

それとともに、加藤何某容疑者は若い頃は優秀だったものの挫折を味わって今は派遣社員で周囲に友人もおらず携帯サイトに独り書き込み…、なんてストーリーを作り、かのモンスターはこの社会構造こそが生み出したものなのだ、という論調もここ数日、様々なメディアの上で多く見聞される。
まったくもってピンとこない。
ご立派に基本的人権という大層なものを付与され、職業選択の自由も居住地の自由も婚姻の自由も何もかも手の届くところにあるのに、彼奴が自暴自棄に陥って無差別殺人を犯すに至った要因はこの社会にある、などと言われて、はいそうですかとはとても首肯できない。

誰だって不当な思いを味わうことはあるだろう、生きていれば。
経済的な不自由を感じもするし、疎外感に苛まれることも。
だからといって、「宮崎死刑囚はついに謝罪の言葉を口にすることなく処刑されました。これでは真相の解明はおぼつきません」だとか、「加藤容疑者から、何がそうさせたのかすべてを聞き出し、このような事件が二度と起きないように…」だとか抜かすのはどの口だ。
確かに今回の執行が多分に政治的でダーティな意味合いを持っていたことは疑いないだろうが、この際それは些末な要素だと思う。
封建制度下にあった時代、苛烈な環境の中で生きていた農奴や小作農や人非人よりも虐げられていたか、彼らは?
当時の人々よりも行動を束縛されていたか?

現代だけが猟奇殺人犯や粗暴犯を多く生み出しているという明白なデータがあるのかどうか、私は知らぬまま乱暴にも申し上げているので、間違いがあればどうか訂正していただきたい。

津山三十人殺しや河内十人斬り、大久保清事件や酒鬼薔薇聖斗などを例に挙げるまでもなく、いつの時代にもミュータントらによる凄惨な事件はあった。
そう、彼らはミュータントに違いない。
宮崎勤や加藤智大は時代や社会や風俗が創出したのではなく、極めて例外的な突然変異体なんじゃないか。
決してテレビゲームやアダルトヴィデオや不安定な雇用形態が創り上げたんじゃない、それらが彼らの犯罪行為の表層に影響を与えたことはあるかもしれないが、その根源、彼らの“犯罪を起こす意思”のジェネレーターとなったわけでは決してない。

人を殺したいほど憎く思ったり、性的な欲望に取り憑かれてしまうことがある人は稀ではないだろうが、“殺したいと思うこと”と“殺すこと”の間には、大きな、なんていう表現では生温いほどの隔たりがある。
「私たちの誰もが、ああなる可能性があるのです」なんてしたり顔で物申す方たち、マジョリティの自己抑制能力をあまりに舐めすぎである。

あるいは百歩譲って、人を人とも思わぬような怜悧な殺人行為が現代において増加しているとするならば、それは殖えすぎてしまった人類の種族保全の本能なんじゃないか。
自分で自分を間引いている、と考えればまあ納得がいかないわけじゃないような気もする。

それよりも、あとは消費税を上げるしかありませんねえ、などとほざいている一国の首相とそれに同調する人々こそが、既得権益に死んでもしがみつき続ける本物の醜悪な下衆である。
この地球に存在する国家群の中で、私は日本が特別腐った国でも汚物に染まりきった国とも思いはしないが、それにしたって今の(というか明るみに出ていなかっただけで今に至るまでずっとか、結局)政治には合点がまったくゆかぬ。


♪ Whatcha Want - Hanoi Rocks


2008年6月19日(木)

KG初戴冠

断片的にしか観ることはまだできていないが、NBAファイナルはボストン・セルティクスがロサンジェルス・レイカーズを4勝2敗で下して終幕。
最終戦は39点差ですか!
うーむ…。
第5戦までは少なくとも終了時の点差は10点差以内で、ファウルゲームになったりと最後まで展開としては楽しめる試合だったみたいだが、シーズンの締めくくりがこれではちょっと拍子が抜ける。
まあケヴィン・ガーネットがついに、というか降って湧いたような電撃トレードによりチャンスを得て、チャンピオンリングを手にしたことは素直に喜ばしい。
ポール・ピアースはファイナルMVPを獲ったようだからもちろんエースとして存分に働いたのだろうが、生え抜きだからこそファーストオプションとして扱われていた感もなくはない。
あるいは純粋なスキルとチームバランスだけを考慮したならば、他の2人(KGとレイ・アレン)の方が得点のチャンスを多く与えられていてもおかしくなかったとは思うが、でも1つのチームに長い間留まることがスタープレイヤーといえども本当に少なくなった昨今において、これはこれでやはり喜ばしい。
シーズンを通して決してベンチプレイヤーの層は厚くなかったはずだが、シーズン前の期待を上回る結果を残したラジョン・ロンドとケンドリック・パーキンスを含めた5人のスターターがしっかり確立されていた。
そういった意味では優勝した時のデトロイト・ピストンズにもチームとして似ていたかもしれない。
結構バランスとしては危うい気もするから長期王朝を築くことはちょっと考えにくいけど、まあ今シーズンのセルティクスは強かった。


♪ 未来叶いへ - 東風


2008年5月10日(土)

物書きになった後輩と会食、「恐竜大陸」、そして仕事

(木)(金)と東京出張。
まずは木曜午後、天王洲のスタジオで某芸人コンビと打ち合わせ。
以前一度仕事をご一緒した時に、またやりたいな、と思ってこのたび声を掛けさせていただいた人たちだ。

その晩は、大学の後輩で現在は職業作家として活躍しているHと表参道の「雅灯」で久々の対面を果たして会食。
文学の世界では最高のカテゴリーに属する1つである大きな賞も獲っている男だが、話してみれば以前から知っている彼と何ら変わりなくって、それは当たり前のことといえばそうなんだろうけど、すぐにリラックスして語り合うことができた。
学生時代の思い出話、お互いの仕事のこと、家庭のこと、プライヴェートな話題、出版物にまつわる話、世の中の出来事について…。
気がつけば1つの店に腰を据えて4時間ほども話し込んでいた。
自らが生業とするフィールドにおいて一線級のポジションを確保して闘いつつ、他者との会話の前提となる高い知力を備え、そして物事を脳内で処理する演算能力が優れている人と様々な議題について語り合うというのは言葉では表現できないほどいい刺激になるし、またたとえ全部ではなくとも価値観や感覚を共有できるというのは一勤め人に過ぎないこの身にとって非常に僥倖ともいえる。
またぜひ。

ホテルに宿泊して起きて金曜日は仕事は夕方からしかないので、朝から幕張メッセまで出張って開催中の「恐竜大陸」を観に行ってきた。
そのイヴェント名の通り、今回はアジア、中でも主に中国とモンゴルから出土した恐竜たちをフィーチュアした催しだったみたいだが、それを事前にあまり意識することなく行ってしまったので、あれ、とちょっと拍子抜けしたことは否めない。
一昨年行った「世界の巨大恐竜博」には相当感銘を受けた記憶があるが、今回は規模もあれよりは小さかったと思うし、インパクトも大きくなかったような気がする。
サウロロフスの実物やタルボサウルスの実物、羽毛恐竜たちの模型なんかはよかった。
でもディロングはおらんかったな。

サウロロフスの1種の実物標本

会場内のフードコートの食事は最低品質だった。

夜に限りなく近い夕刻、赤坂で某狂言師と打ち合わせ。
非常に真面目で好感度の高い方だ。

21:00羽田発のANAで帰ってきたが、関空着便なので自宅までの帰途がこれまたしんどかった。


♪ The Groover - T.Rex


2008年4月25日(金)

獣の能力

昨日あたりは急に肌寒くなったとはいえ、4月ももはや残り数日、季節は春の盛りを過ぎた。
桜の花はとうに散りタンポポは綿毛をたなびかせ、MLB & NPBは開幕して1ヶ月、NBAはポストシーズンに突入して激烈さを増し、そして巷間の人々はゴールデンウィークを前に浮き足立っている。
そんな中、我が家で飼っているヘルマンリクガメのシロに改めてヒトの無能ぶりを教えられる顛末がある。

部屋の中、そして天気の良い日中はヴェランダをしばしば歩かせるのだが、屋外はともかくとして、室内を例にとっても歩いている時間が格段に長くなった、寒い季節に比べて。
冬の間はもちろん床暖房などを効かせているので、少なくとも人間にとっての体感温度はほとんど変わっていないにも拘らずだ。
つい先日までは、ちょっとそこらを一回りするともう「入れてくれ~」と言葉をしゃべれるのなら叫ばんばかりにケージの前で佇んでいたのに、昨晩なんかは2時間近くもグルグルウロウロ、広範囲に渡って歩き回っていた。
妻の報告によると、その前日はヴェランダもテクテク1時間以上歩いていたようである。

ヴェランダの植え込みでタンポポなどを喰らう

カメはちゃんと、暖房器具等によって人工的に上げられた気温なのか、それとも自然の摂理が巡って大地が暖まっているのか、マンションの1室のケージの中で寝起きしていても確実に分かっている。
当たり前のことなのかもしれないけど、私たち人間が感じ得ないものを確かに感知してそれを行動で表現している。

生き物とともに生活していて、有意義な瞬間の1つ。


♪ She's Gone Away - King's X


2008年1月31日(木)

これは自らに対する戒めであり、鼓舞であり、プレッシャーであり、そしてちょっとした諦念である

巨大生物らしきものを扱った「モクスペ」、一応チェックはしたが、大方思っていた通りのイメージだった。
自分もその片棒を担いでいることを棚に上げているのは承知で言わせてもらうが、特にこの手の番組においては、いくらいい素材を用意したとしてもその調理法が最悪だ、民放は。
扱われているテーマに興味を持つ視聴者が本当に知りたい情報を伝えることよりも、まったくもって無駄でナンセンスな出演者の会話に多くの時間を割き、観ている者が余計に冷めてしまうという逆説的な過剰煽り編集を行い、肝心の内容に関しても情報の精度が極めて低く、意識的なのか無意識下なのか粗暴で不誠実。
上級役職にある人たちは、「その分野に興味のある人だけじゃなく興味のない人も取り込めるように、タレントやヴァラエティ的な仕掛けで工夫せよ」と異口同音に仰るが、それはどこの民放でも同じなのかもしれない。
なんとまあ、異次元空間に立った出発点であることか。
だから私は「アニマルプラネット」を視聴し、NHKやBBCが制作するDVDを買っていればいいのだろう。
もうすぐ冬の「どうぶつ五輪」が始まるし、まるで連続昼ドラ、「ミーアキャットの世界」は最高に面白い。

#3“占い”、出来には少し自信がある。


♪ Blue Sky - The Allman Brothers Band


2008年1月27日(日)

占い好き?

今手掛けている番組で“占い”をテーマとして扱った。
オカルト全般に代表されるいわゆる疑似科学というものにあまり関心を示すことはない女性層も、この占いに関してだけは別で、強い興味を持ち、あるいは信頼していたりもする。
普段は極めて常識的理性的、ごく普通の人が「血液型によって性格が違うってのはあると思う」と真剣な眼差しで主張したりすることも、全然稀有じゃない。

ちょっと調べていくと、何も若い女性だけじゃなくて誰でも名前を知っている大企業のトップや政治家、芸能人、スポーツ選手などの中にもたくさんの占い信者がいるということが分かってくる。
こういった傾向は、日本国民は特定の宗教を持っていない人が大多数だからなんじゃないか、と最近思う。

宗教に帰依している人間は、時に理屈を超越した絶対的な強さを持つ。
現実に即した状況や条件だけで自分の進むべき道を決められない時、信者はその判断基準を自らの信ずる宗教が定めるところに求めることができる。
欧米の多くの国ではキリスト教が、そして中東の多くの国ではイスラム教がスタンダードとして、生活の指針においてすらかなりの程度まで具体的に指南しているように見られる。
そういった国に住むマジョリティの人々は、ロジックだけでは解決できない悩ましい問題にぶち当たったら、神に相談して答えを出してもらうという選択肢を持つことになる。

私も含めて日本人の多くは特定の宗教を信奉していない。
うちは浄土真宗です、なんて言う人も、クリスマスを祝い神社に初詣に出掛けておみくじを引き結婚式はチャペルで行う、その程度の宗教倫理観であることがほとんどだ。
こんな無宗教者の中には、何か大きな決断をしなければならない時に、“すがるモノ”を持っていないことに対して心細くなってしまう人も少なくないに違いない。
迷っている、絶対的な価値観も持っていない、信頼できる相談者もいない…、そんな折、人は占いに行く末をゆだねてしまう。
ちょっと大仰だけど、そんな言い方ができるのかもしれない。

私は宗教を持たないことについて、決して悪いことだとは思わない。
米国での生活を経験した人によると、あちらでは無宗教というだけで人としてなにか欠損している、劣っているかのような目で見られることもなくはないらしいが、無宗教で何が悪い、無宗教バンザイ。
自分の人生における行動の指針を自己の内にのみ置くことは素晴らしいことである、と個人的に思っている。
でも、人間はそれほど強靭な生き物ではない、ということだ。

基督教信者も、ひょっとしたら本当に神が存在していると思っている人は少ないかもしれないし、旧約聖書に書いてあるように人間は神が創ったものではなくて、実際は進化の過程を辿ってきたのだ、という科学的仮説を支持している人がほとんどなのかもしれない。
しかし彼らにとって、聖書の教えや神父、牧師の説教はやはり大きな影響力を有し、生きてゆく上で重要な道標となっている。
それと同じように、占いが好きな日本人の多くも、理屈に照らし合わせて占いが的中する、と心から信じてはいないのかもしれないが、何かを決める時に自分の脳味噌ではない他のどこかに基準を求めたいのだろうと思う。
そしてそういった風潮が、私は好きではない。

でも宗教は戦争の原因になるけど占いはならないから、まあマシか。


♪ Chocolate Factory - R.Kelly


2008年1月15日(火)

頓悟か?

夜、自宅で日課の筋トレをしつつ、妻のアドヴァイスももらいながら先日体験レッスンを受けたピラティスの体の使い方を意識してみたら、同じスクワットやプッシュアップをやるにしても楽なこと楽なこと!
これは一種のカルチャーショックだ。
ピラティスでは基本中の基本であるらしい、骨盤底の下にある筋肉と腹横筋を使うことを積極的に意識しながらエクササイズを行うと、ことごとくの動きを相当スムーズにこなすことができる。
武術で“臍下丹田に力を入れる”とか、運送屋さんが重いものを持ち上げる時に“腰を入れる”とか、とにかくどんなフィールドにおいても“下っ腹に力を込める”というのは、共通して根底に流れる真理であることは間違いないようだ。
妻からピラティスの理論を断片的ながら聞いていると、結局は他種のスポーツやフィットネスが推奨している理屈と突き詰めるところ、相違ないものであることに気付かされる。
骨盤に限らず、肩の位置や動かし方、脊椎の保ち方などなど。
とにかく此度は、インナーマッスルを意識することができるのだということと、それができれば様々な動きがより楽にスムーズに行えるということが分かっただけでも、かなりの収穫だ。

今日は妻の誕生日、ということで、0時を回ったところでバースデイケーキを2人でささやかに囲んだ。

半分になったバースデイケーキ

「アルザス」の系列店、「キャリエール」のケーキで、外はクレープ生地、上には色とりどりたくさんのフルーツが載っている。
いやー美味い、深夜のカロリー摂取過多も、今日ばかりは仕方ない。


♪ 恋しくて - Begin


2008年1月 8日(火)

覚悟が必要だ

言わなきゃもちろん伝わらないが、言ってもほとんど伝わらない。
触覚が備わっていない者はそもそも知覚することができない。
言ってしまえば気分は暗澹たるものになるが、言わなきゃ事態が凄惨なものになる。
他人を信じてはいけない。
預託すれば、担保を失った時の嘆息や如何ばかりか。
波打たぬ湖面の如き平常心で受け容れるということは、世を捨て虚無主義に耽ることと同義なのか?
背反する(かのような)二律の両立が、ちょっと私には慮りかねる。
そして放出された何某かは還ってはこない。
代わりに有象無象の報いが押し寄せてくる。
相当の覚悟が必要だ。
2012年12月22日に世界は終わるのか?


♪ エデンの少女 - 人間椅子


2007年12月12日(水)

書いててだんだん腹が立ってきた

会社から帰る電車の中で、ふと車内のモニターを見上げたら、次の駅は自分が降りるべき駅よりも10かそこら先の駅であるという表示が!!!
たとえて言うなら、新幹線で東京から名古屋まで行く時に、ふとモニターを見たら「次は新大阪」と書いてあったようなもん。
一瞬脳内がもんどりうった。
あれ、俺ひょっとして寝てた? いやいや、そもそも立ってるのに寝るわけない、音楽に夢中になりすぎて乗り過ごした? あるいは携帯をいじくっている間に30分ぐらいが夢のように過ぎ去った?
どの仮説も成り立たない。
結局ただ単に車内モニターの表示が間違っていただけで、何ら支障なく家に帰り着くことはできたが、何だか「世にも奇妙な物語」か「笑ゥせえるすまん」の登場人物になったかのような気分がした。

お世話になっているある方からお歳暮が届き、中身は「ストロベリーカルテット」という、イチゴを凍らせたスウィーツだった。

ストロベリーカルテット

いつも頂いておいてこんなことを言うのもまったく申し訳ない話なのだが、この方はお中元やお歳暮としてよくお酒を贈ってくれる。
実は私はまったくアルコールが飲めない。
なので、せっかく頂く高級酒も文字通り宝の持ち腐れ、たまたま酒を飲む知り合いがうちに遊びに来ればいいが、そういったタイミングがそうそうは訪れないもので。
ところが今回はフルーツを使ったお菓子。
酒が飲めぬ私はフルーツは大好きなので、このたびは心からありがたかった次第。
いや、いつもありがたいんですよはい。

フルーツといえば、妻が勤務先の近くにある「くだもんや YUKKO」という有名店の“フルーツキーマカレー”というカレーを買って帰ってきてくれ、食べた。
バナナやらパパイヤやらアヴォカドやらといったたくさんのフルーツと、野菜、各種スパイスなどが溶け込んでいるらしく、ちょっと辛めだけどいかにもフルーツ然とした甘酸っぱい味がする、非常に印象深いカレーだった。
これはいい。

「船場吉兆」の記者会見における妖怪ババアの囁き戦術には本当に腹を抱えて笑ってしまったが、舛添要一大臣の開き直り会見にはちょっと腹が立った。
ここまでとは想像がつかなかった、とのことだが、はっきり言って国民の大多数はここまで酷いと当初から予想していたと思う。
だからこそ、「本当に来年3月までに5000万件の全件照合なんてできるの???」とみんな疑問だったわけだが、「まあできると言ってるならやるんでしょう」と、役人と政治家の良心に賭けた微かな期待さえ、このたびは見事に打ち砕かれてしまったことになる。
「誰が大臣になっても同じこと」という舛添氏の言葉は、すでに腐りきったお荷物を後から引き受けてしまった人間の偽らざる気持ちだと思うし、「俺に責任はないのに」という本音の表れだとは充分忖度できるが、だからといって、そんな状況を十二分に理解した上で一省庁の大臣というポストを背負い込んだのだから、その立場にある人がああいったことを公の場で口に出してしまっては、もうおしまい、としか言えなくなっちゃう。
記者の質問にカッとなるのも分かるが、それを表に出して逆ギレしてしまったら、観ているこっちはもっと腹が立つし、何より、舛添さんは他の政治家と違うかも、と淡い期待を寄せていた国民に対する裏切りだ。
「選挙の時期だったので期限を縮めて言ってしまった」とのたまった、つまり「選挙に勝ちたいからウソを言いました」と明言して白状してしまった町村某氏、そして「そんなこと言ったかなあ?」と一世一代のボケを演じて大スベりした福田首相については、もはやまともに取り合うのも憚られる。
(私も含め)日本人はここまで愚弄されても立ち上がらぬだろう。


♪ B-Ballin On My Block - C-Murder


2007年11月14日(水)

バスケに興じた夜

昨日は朝から尼崎にある交通裁判所に行って、先日のスピード違反の分の罪を認めて罰金を払うという手続きを行ってきた。
その額6万円ナリももちろん腹立たしい限りだが、日時を指定して問答無用に呼び出したにもかかわらず、些少な手続きのためにあれだけの数の人々を長時間寒々しい待合室に待たせる傲岸不遜なシステム、そして人を人とも思わぬ職員の接遇態度に、彼らの脳内には“急ぐ”という概念が欠損しているんじゃないかしらと思わせるその怠慢な仕事っぷりときたらもう。
これだけ巷間でお役所に対する不満が百花繚乱噴出しているというのに、やっぱりあのお上体質だけは絶対に改まることなどないに違いない。
カエルの子はカエル、人が空を飛べないのと同様に。
JP? ふざけんじゃないよ。
民間企業を舐めちゃあいけない。

すでに年末年始を見据えた作業もたけなわになってきて、幸か不幸か業務が立て込みつつある昨今ではあるが、久々に仲間を集めてバスケをした。
ここのところ周囲の人々にはどうも草野球キチガイだと思われている節があるが、私の出自はバスケットボールだった。

久々のバスケ

20:30から22:00まで東大阪のHOOP7でプレイしたが、なんとチーム結成以来最多となる18人もの参加者が集った!
こりゃすげー。
場が用意されればみんな積極的に参加するんだなあ、待ち望まれていた様が目に見えたのであった。
それに昨晩集まったメンバーはみんなそれなり以上にできるやつばっかりで、最年長・33歳11ヶ月の私が明らかに一番ヘタクソじゃないか。
加えてかなり手を抜いてプレイしたつもりだが、終わってみると膝が痛い。
野球は40代になってもできる気がするけどやっぱりバスケはもう限界だなー。

冬の到来に備えて、RUSS-Kのダウンジャケットを購入した。
手越くんが着ているシングルライダースの色違い、ブラック。


♪ Speak Like A Child - Herbie Hancock


2007年10月31日(水)

開幕直前

いよいよNBA開幕前日。
今シーズンは近年いつになく、トピックスが多いように感じる。
もちろん勢力図を一変させる大トレード、ボストンにKGレイ・アレンが加わったことや、ペニーがNBAに戻ってきたこと、グラント・ヒルのサンズ移籍、ドラフト1位ルーキーのグレッグ・オデンがシーズン絶望になってしまったことといった客観的に大きな動きもあるが、個人的には昨年の世界選手権で生で観たイタリアのマルコ・ベリネッリやスペインのファン・カルロス・ナヴァーロ、中国のイ・ジャンリャンといった非アメリカ人のタレントがリーグ入りしたことに非常に興奮し、また期待している。
特にベリネッリはチーム事情から鑑みて出場時間が多そうだし、タイプ的にも故ドラーゼン・ペトロヴィッチがフィジカル面で強くなったような、あるいはペジャ・ストヤコヴィッチがスピードを手に入れたような選手だから、アヴェレージ15点以上は堅いんじゃないだろうか、と勝手に思っていたりする。
果てさてどうなることやら。


♪ Boom Boom - The Yardbirds


2007年10月26日(金)

6度目の結婚記念日、など!

先日スピード違反で捕まった報いとして、会社を休んで朝から伊丹の運転免許試験場に出向き、免停短縮講習を受けてきた。
朝7時に起きて普段乗らない通勤ラッシュど真ん中のJRで行かねばならない、という点を筆頭として、まあ地獄の責め苦かと思う苦行であった。
もはや心身ともに2時間の座学にすら耐えられなくなっていることに幻滅。
数度、意識が飛んだ。
唯一、体感ドライヴゲームのような機器を使うCRTという検査が少しだけ面白かった。
ああ、永島敏行らが出ていたドラマ仕立てのヴィデオもなかなか見応えがあった。
しかし免停期間短縮という餌をぶら下げ、たったあれだけの講習に1万3800円もふんだくるとは、やはりこういった機会に遭う毎にお上に対する嫌悪感は強まるばかりだ。

昨日は6回目の結婚記念日だったので、「アルテシンポジオ」に晩飯を妻と食べに行った。
最低限の希望のみ伝え、メニューはシェフお任せ。
ナスや大きなナメタケなどが入ったグリーンサラダに、ズワイガニとムール貝が載ったキターラという生パスタ、そしてメインディッシュが、ホロホロチョウと豚のホホ肉と豚のタンと各種ミートを使ったミートボール状のもの(ライチョウなどが使われているらしい)を盛ったもの。
まずいつものように野菜が得も言われぬ美味さ。
質の高い素材を確かな技術で細工するとこうなるという見本のような。
パスタのカニも身はほぼレア、そしてなんと1皿にカニ1杯分の味噌を使っているという濃厚なソースが相まってこれまた感動の味。
ホロホロチョウも柔らかかったし、豚のタンなんてのも、果たして今まで喰ったことがあっただろうか、とにかく美味い。
各種を盛り合わせてもらったデザートの皿には、結婚記念日おめでとう的なメッセージがイタリア語で書かれていて、心遣いも嬉しい限り。
素晴らしいディナーであった。

イタリア語で祝福メッセージが書かれたデザート皿

厚生労働委員会で舛添要一大臣を追及していた菅直人民主党代表代行といい、昨日再び会見を行った協栄ジムの金平桂一郎会長といい、自分のことは棚に上げた、ちょっと待てよ的な発言ばかりじゃないか。
ご存知、菅代表代行は1996年当時、厚生大臣をしていた。
このたび彼が追及している厚生労働省の失策については、当然彼自身が大臣を務めていた期間の不手際も含まれているわけで…。
改めて、ほとんどの政治家が重要視しているのは決して“政治”ではなく、“政局”に他ならないことを物語っている。
それに加え、役所、官僚は腐りきっていて頭もおかしいのだから(もちろん全員ではない)、よくこれでこの国が先進国の1つとして機能しているな、と不思議だ。
官がどれだけ醜悪であっても、国民は生活がままならぬほど飢えても貧に窮してもいないから、たとえ近い将来消費税が10%や15%になったところで、不満は漏らせど決して暴動になどは発展しない。
そこが一番大きな問題なのかも。

ジャンルは変わって金平会長も、いかにも神妙な面持ちで亀田一家を非難する論調で語っているが、いつから穴を違えるムジナになったつもりなのだろう。
“前回の亀田史郎氏の会見は謝罪になっていなかった”とのことだが、その際に記者が亀田氏に質問しているのに、「それについては私が代わってお答えします」と亀田氏をかばっていたのは金平会長その人じゃないか。
それを今さら掌を返したような言動、いくら悪党同士とはいえ、これもまた醜い裏切り行為にしか映らない。
ジム移籍についてだって、金平会長は“背信行為”云々としゃべっていたが、そもそも亀田興毅が2年前にグリーンツダジムから協栄ジムに移籍した時は随分とガタガタ揉めていた記憶があるがなあ。
舌の根も乾かぬうちに、という慣用句がこれほど当てはまる具体例もそうそうないと思う。


♪ Shakedown - Michael Monroe


2007年10月19日(金)

このような風潮は今に始まったことではなかろうが…、これでよくなると思う?

先だって劇場映画のPR惹句について文句を呟いてみたところだが、映画といえば次のような不満もある。
もうすぐ、垣根涼介氏の傑作小説「ヒートアイランド」を映像化した同名作品が公開されるが、その劇中、原作には登場しないヒロイン役の女子が出演してストーリーにも関わっていると聞いた。
ああそうだ、ちょうど今で言えば、映画じゃなくてテレビドラマ「ガリレオ」においても、原作本「探偵ガリレオ」(東野圭吾)には出てこないうら若き女性が登場していて、小さくない役割を担っているのだとか。
男性、あるいは若年層の観客(視聴者)を意識してのことなのか分からないが、完成された原作の中に現れない登場人物を追加して、そのために脚本も大きくいじってまで映像化するという魂胆の真意が掴めない。
どんな類のストーリーにおいても“恋愛”という要素が必要、という解釈がもしその礎にあるのだとしたら、これもまた誤った思い込みであると言わざるを得ないんじゃないか?
こういう改変について、原作者はもう少し突っ張っていただいてもいいような気がするのだが…。


♪ 銀河鉄道777 - 人間椅子


2007年10月16日(火)

PRについて一言

最近、劇場映画のテレビCFなんかで、「衝撃のラストシーンに涙!」とか「ラスト○分を見逃すな!」とか「4度のどんでん返しがもうすごいのなんの」とか、正確な文言は忘れたけれどとにかくこういう風な煽り文句が目立つような気がする。
これってどうなのだ?
そこまでネタバラシ(あえてこう表現させてもらう)されたら、観たいと思っていた映画もちょっと観る気が削がれる。
これは職業柄自戒の意も込めて書くのだが、懇切丁寧に、悪い言い方をすればアホでも分かるようにキャプションをつけてあげることこそがマスに対する親切である、という思い込みは場合によっては誤っている、ということを皆が理解すればいいと願う。


♪ Whiskey from the glass - Page & Plant


2007年9月 6日(木)

物欲お化けと昭和の参謀お化け

「何かと物入りな時期だねえ」なんて、1年中言っているような気がする。
そろそろ買い替えなきゃ、あるいは買い足したいな、と思っているものを妻と合わせてザッと挙げてみただけで、デジタル一眼レフ、炊飯器、掃除機、オーヴン電子レンジ、パソコン、プリンター、CDラック、ソファ、腕時計、などなどなど…。
生活の中にこんだけいろんな機械が入り込んでたら、“買い替え時期”なんてもんは文字通り1年中、切れ目なし。
こんなん全部買えるわけねーだろ!
と無力感に包まれて、ピラティスレッスン帰りの妻と待ち合わせ甲南山手駅近くの「パッセジャーレ」でパスタを喰って帰ってきた晩。

話は変わって、うちは読売新聞をとっている。
不配が多くてその後の対応がまずい最寄り販売店には相応の不満があるけれど、新聞としては記事のスタンスが概ね好みなので(といっても積極的支持ではなく、朝日と比べれば、という点に負うところが大きいが。特に北朝鮮関連の記事の内容は異常だ、朝日)。
ところが、昨日付の読売新聞朝刊の「編集手帳」はどうだ。
先日死去した瀬島龍三氏を、表現は控えめだが賛美する内容。
まあ読売らしいっちゃあらしい書き方だが、いくら時代そのものがとち狂っていたとはいえ、さらに狂気を煽るあの戦争へと国を導いた1人である彼の人生をこうもあからさまに肯定するというのは、彼(だけではないが)の責で死んでいった者がいかほどいたか、ということを鑑みると、読んでいて気持ちのいいものではなかった。


♪ Lazy - Deep Purple


2007年8月23日(木)

日本語

さっきNHKの「ニュースウォッチ9」を観ていたらエンディング近くなって、ライトアップされた名古屋城の中継映像を見ながら女性キャスターが「今夜の名古屋は涼しく、気温は26度に届かない感じです」としゃべった。
26度に届かない「感じ」??
私たちが日常会話で話す言葉としては何らおかしくはないが、NHKのアナウンサーがニュース番組で使う用法ではないだろう。
ビックリした。


♪ I Remember Nothing - Joy Division


2007年7月10日(火)

とかくデジタル家電はややこしい

昨年10月より今のHDD/DVDレコーダーを使っているが、ついにHDDの容量の先が見えてきたので、CPRM対応とかいうDVD-Rを買ってきてそちらに移す作業に着手した。
そして今になって初めて、HD/SDモードでHDDに録ったデジタルコンテンツはDVDに高速ダビング(つまりデータコピー)できないという事実を知った。
ちなみにVR/ヴィデオモードでHDDに録っていたらそれが可能らしいが、そのモードだとHDでオンエアされている番組をHD画質で録ることはできないし、5.1cnでオンエアされているオーディオも2chのステレオに変換されてしまうらしいから、HD/SDがスタンダードだと思うんだけどどうなんだろう?
であるからして、データコピーではなく映像を再生しながらそれをRecする、ここまでのデジタル具合がウソのように霧散してしまうほどのアナログ的手法でDVDに焼くしかないわけなんだけど、1枚のDVDに2時間ほど収めようと思うと結構劣化するんだな、やっぱり。
42インチのプラズマモニターで観るともうごまかしようがない。
録画可能容量が4.4GBしかない、現行の片面DVDの限界か。
これまでは「当分要らんだろう」と高をくくっていた次世代DVDに対する渇望度が一気に高まったような気がするが、自分の中で…。
とりあえず規格が決着するのはいつになることやら。
それにデジタルコンテンツのコピーワンスも来年だかに、“9回まで(10回?)ダビング可能”になるらしいなんてニュースも見たし、そうなったら今使ってるレコーダーどうすんの!


♪ Rock & Roll - Hanoi Rocks


2007年6月23日(土)

嫌事言ってみました

昨日も埼玉の方で架線が切れてえらいことになったりと、やっぱし何かとあるJR。
そんなレヴェルじゃないけど、個人的に、JRっておかしいなあ、と思う数点。

その1
あまりにも遅延が多すぎる。
時間を逆算して家を出てもまったく意味をなさないことが日常茶飯事。
あの尼崎の事故を免罪符とした無神経極まりない遅延が過ぎる。
安全第一だから多少遅れるのは仕方ないじゃろ我慢せえ、という姿勢ではなくて、ちょっと安全確認を重点的に行っただけで狂ってしまうそもそもの時刻設定に無理があるのは明らかなのだから、私鉄に対抗せんがための見せかけだけのウソダイヤを改めるよう求めたい、まずは。

その2
駅に「障害者の方は駅員がお手伝いします」という旨の貼り紙があって、それ自体はいいんだけど、その貼り紙をよく見たら「原則的に乗車2日前までにお申し出ください」とか何とか書いてあってビックリした。
小旅行に出掛ける時の新幹線じゃあるまいし、日常在来線などに乗って出歩く予定を2日前までに決めて、さらには5分10分遅れることが当たり前の便まで指定して申し込まなあかんのかね?
つまり車椅子ライダーは「お、今日暇だから大阪まで買い物に行こっかな」とかしちゃいかんと言っておるのかね、JRは。
何という巨体か。

その3
これはまあどうでもいいっちゃあいいんだけど、比較的新しめの車両についている車内モニター画面に「日本語クイズ」みたいなVTRが流されているんだが、それが2~3ヶ月経っても内容が変わらんのよね…。
毎週変えろとは言わんけれども、せめて月に1度ぐらいは見直していただかないとあまりにもアレな気がして…。
おかしいなあ。


♪ The Greatest Show On Earth - R.Kelly


2007年6月 8日(金)

巷の注目トピックについて

連日人気沸騰中の社会保険庁の年金のアレ。
自分は今まで転職もしてないし、「あんまり関係ないなあたぶん」なんて比較的悠長に構えてたんだけど、先ほど何とはなしにニュース番組を眺めていて、「いや、国民年金と厚生年金の両方に保険料を払っていた経験がある以上、それがシステムの上で一本化されておらず、ひょっとしたら不払い扱いになっている可能性もあるな」と、不意に不安になった。
20歳から22歳ぐらいまでは大学生だったので国民年金、会社に入って後は厚生年金。
こいつは大丈夫か?
妻などはそれに加えて、結婚して一度退職→派遣社員として再就職もしているから、さらにちゃんとなっていない確率が高まると思う。
ぬ~、いたいけな国民にこのような心配を理不尽に掛ける国め、許さん! と急に憤ってみたりしてみる。

与党政府は社保庁を日本年金機構なる組織に名称変更して、職員も非公務員=民間扱いにする、なんてプランを持っているようだが、それでサーヴィスが向上するなどと考えてる方が頭がどうかしている。
新たな天下り先になりうる、なんて原則以前の批判をこの際は置いておいたとしても、そもそも民間企業でいうところの同業他社たる存在がありえないんだから、日本年金機構の職員を民間にしまっせー、とアピールしている意味が分からない。
たとえば既存の民間の保険業界でいうと、日本生命があって第一生命があってソニー生命やその他いろいろな企業があるからこそ、同じ年金保険商品でも趣向を凝らして顧客に訴えようと思うだろうし、サーヴィスの質向上にも努めることになろう(にも関わらず横並びで腐敗していた、という事実が明るみになってさえいる)。
あくまでもお上が保険料を召し上げて取り仕切る公的年金という世界においては、日本年金機構なる組織と競合するような存在が現われようはずなんてないのだから、同組織の職員を建前“能力主義”を謳う非公務員にしたところで顧客第一主義が生まれるはずはないし、むしろ国家公務員法によって示されている“国民全体の奉仕者”という規定がスッカリ雲散霧消、パリのブティック店員や上海の雑貨店員(どっちもイメージで語ってます、すみません)並みに傲岸不遜な職務従事者が増える可能性こそが高まるだけではないのだろうかね?
このたびの政府案に関しては、百害あって一利なし、という使い古された慣用句がピタリ。
野党の強みとはいえ、まだ民主党案の方がマシなような気がするんだけど…。


♪ Dirty Little Thing - Velvet Revolver


2007年5月29日(火)

ニュースより

俄かに活気付いている様子の、社保庁のアレ問題。
5000万件以上というその件数も、一体何をどうすれば単純計算で日本全国民の半数近いその数値に至るのかがまず不明だし、乱暴に言い切るならば、国体による一種の詐欺ではないか、と思う次第。
業務上過失致死罪が刑法上存在する以上、今回のお粗末な事態も、罪名は分からないけれど絶対的に刑事事件だ。
それは間違いない。

それにしたってこのたびの件にしても、同じ社会保険庁の年金資金流用にしても公金を使った都知事の旅行にしても、私も含め、この国の人々はブツブツとこういった場所で不平は漏らせど、決して思い切った行動に訴えて怒りを体現することはないね。
これが中国人とかだったらえらいことになるんだろう。

中国といえば、彼の国にまつわるネガティヴなニュースも最近目に付くような気がする。
天上天下唯一独尊を地でゆく国民なだけに、笑えるネタもそれを通り越してしまっているシリアスなネタも両方。
1つだけ触れるならば、いくら欧州やこの極東の島国で“地球温暖化防止! CO2削減!”なんてチマチマ頑張っても、大局的モラルを致命的に欠くあの大国が、ちょうど30~40年ほど前の我が国のように工業面で一足飛びの躍進を遂げている最中である限り、まったくの徒労に終わりそうな気がして、エコバッグ持参でコープに買い物に行く自分たちがバカらしくならないでもない。


♪ 王様の耳はロバの耳 - 人間椅子


2007年5月28日(月)

符号

あれは10日乃至2週間ほど前のことであったろうか、夜電車に乗っていたら目に入った、「松岡農相自殺」という夕刊紙(夕刊フジかゲンダイ)のセンセーショナルな見出し。
んん? と思いながら改めて見ると、大臣本人ではなく地元 熊本の事務所関係者が自殺していたという内容だった。
見事にタブロイド紙の奸計に嵌まったわけだが、まさかその時早合点してしまった衝撃を事実として追体験しようとは。
ちなみに無責任極まりない一市井民の憶測ながら、果たして国会議員になり与党内閣の大臣にまで登り詰めた代議士が、あれほどの不明朗会計発覚とそれに対する追及程度で自らの命を閉じるような細い肝の持ち主だろうか? と愚かしくも感じてしまうのは、ここのところ石持浅海などのミステリーを立て続けに読んでいるからか、それとも下山事件にまつわる書籍を読んだ記憶がまだ鮮烈だからなのだろうか。


♪ Universe - TRICERATOPS


2007年4月19日(木)

“!?”と“?!”

世の中ではどちらかというと“?!”よりも“!?”の方がメジャーでポピュラーだと思うし、僕自身も今まで“!?”を使ってきた。
しかし今日電車に乗っている時ふと、「“?!”でもいいなあ! いや、場合によっては“?!”と表記すべきだ!」と脈絡なく思い当たった。

“!?”の順だと、疑問形の思いよりも先に、叫びがきている。
ある事柄をまず絶叫して“!”を付け、それから後に“?”を付け加えて疑問文にしている。
それに対して“?!”は、何よりも先にまず疑問符、問い掛けが立ち、その質問を強調する意味で、エクスクラメーション。
シチュエーションによっては、というか、ひょっしたら多くのケースにおいて、こちらの表記順の方がより的確に発信者の気持ちを代弁してはいないだろうか。

心の中に浮かんだ“?”に“!”を付ける。
これからは積極的に使用を心掛けようか。


♪ 名前のない鳥 - 山崎まさよし


2007年4月 7日(土)

エッセイストか

結局、松坂大輔のデビュー戦はバッチリ生で観てしまい、6時に寝て仕事行ったけど眠くなかったのが不思議!

元々コントロールがそれほどいい方ではない松坂だけど、1四球という数字以上に、ストライクとボールがハッキリしていたような気がする。
特にスライダーを引っ掛けているケースが目に付いた。
けど何だかんだ言って、7イニング6安打1失点10奪三振はさすが! 立派!
防御率3点台前半、17~19勝と見ているが!?

昨日書き忘れていたが、DIESELのメンバーズポイントがある程度貯まっていたので、ノヴェルティのUSBメモリーと交換してもらった。

DIESELのUSBメモリー 非売品?

ちょうど1つ欲しいと思ってたし、こりゃかっこいい。
256MB。

「たけしの誰でもピカソ」の10周年特番を観た。
基本的には徹頭徹尾たけしさん賛美のコーナー連発だったが、顔ぶれが豪華、企画も豪華、それぞれが発する一言一言が妙に重くて、ずっと見入ってしまった。
いいこと言うなあ、というポイントだけが共通しているんだけど、少し前に観たフジテレビの「たまッチ!」というスポーツ特番にVTR出演していた桑田の名言がなぜかオーヴァーラップ。
「アメリカに来て分かったこと、日本の野球は素晴らしい。あとはパワーだけ」
あ、これは松坂の話題の時に書くべきだったな。
今回の特番の中では、宮沢和史がたけしさんの詩に曲をつけてGANGA ZUMBAが演ったりもしていた。
主観を述べさせてもらうなら、曲はイマイチだったけど…。

最近のニュースについて所感を少し。

市川市のイギリス人女性殺害事件の容疑者が未だ行方知れず。
被害者が容姿端麗な白人であることや、いろいろとネタを持っている容疑者のバックボーンなどから派生した話題が報道やワイドショーではよく取り上げられているみたいだが、これってもんのすごい警察のミスなんでないの、そもそも。
その時点で明らかに容疑者にもっとも近い人物の自宅に向かい玄関のチャイムをピンポン、そして丸腰の男1人は非常階段から逃げて行った、て!
ホンマに刑事か?
何でも総勢8名ばかりで向かっていたらしいが、素人が考えても建物の出入り口ぐらいは押さえんか?
ホンマに警察か?
もちろん全部のニュースやワイドショーを観ているわけでもないけれど、この警察の恥ずべき失態を大きく扱っている報道番組ってありますか。
当然今は容疑者を確保することが最優先なのでそこを今突いてもしょうがないのだろうが、いつぞやの未成年者が容疑者だった事件のように、容疑者が逃亡中に自殺→真相は不明、なんてオチだけは避けてほしいと思う。

あと、ついに赤ちゃんポストが地方自治体(熊本市)の許可を得たんだとか。
いろいろと屁理屈はつけられようが、やっぱり絶対的に本末転倒でないか。
違法行為(それも人命に関わる)を前提とした上で、その逃げ道をお上が用意するという異様ぶり。
スピード違反をする車の存在を前提として、高速道路に“100kmオーヴァーの車は安全のためこちらをお通りくださいレーン”を作るか?
我慢できない人はこちらで触りたい放題、女性専用車両ならぬ痴漢専用車両を用意するか?
人命に関わるからこそ、と大義名分をブチ立てているようだが、それはやはり詭弁だ。
社会通念上許されざる行為であるからこそ法規制で制限しているのならば、この方策は道理の上で破綻している。
大げさに言えば、法治国家であることを捨てた。

なことを思っている矢先に、苫小牧で21歳の母親が、「育てるのが煩わしくなった」とかの理由で4歳の長男と1歳の三男を自宅に置き去りにして男の家へ(次男はどうしたんだろう?)、なんとそのまま1ヶ月以上も放置し、哀れ三男は死亡、長男は生ゴミや生米、マヨネーズやケチャップを食べて何とか生き永らえていた、なんてニュースが。
拷問しても、撲殺しても、膾斬りにしても物足りないこんな気狂い女が母親になるような世界ならば、法治国家であることを捨てても赤ちゃんポストを置く意味はあるかもね。


♪ Wolf To The Moon - Rainbow


2007年4月 6日(金)

欲しいとは思ってたけど、まあ衝動買い

今月28日から公開される映画「北斗の拳 ラオウ伝 激闘の章」の前売り鑑賞券(トレーディングカードの特典付き)を買いに梅田の「イーマ」に行ったら、よく行くB1Fに入っているDIESELに吸い込まれ、ロンT、ニット、タンクトップ×2と一瞬で買ってしまった。
危うくジーンズも買いかけたけど、思いとどまった。

トレーディングカードの特典付き「北斗の拳 ラオウ伝 激闘の章」前売り鑑賞券

と書きつつ、アップする写真は買った服のじゃなくて前売り券というのもどうかという話。

今年の本屋大賞が佐藤多佳子の「一瞬の風になれ」に決まったようだが、久方ぶりに“本屋大賞”の意義を何とか満たす受賞だったと思う。
すでに100万部売れてる本を選ぶなんて愚行は誰も二度と望むまい。
今回も宮部みゆきや伊坂幸太郎や三浦しをんなんかが選ばれたらどないやねんと思っていたけど、ギリギリセーフ?

松坂の登板まであと2時間あまり、果たして試合を観てから寝たとして、今日の仕事は大丈夫か…?


♪ My Brother Jake - Free


2007年3月30日(金)

稚エビ発見!

昨日、うちの35cm水槽内に、飼っているミナミヌマエビの仔を発見!
小さいからよく見失ったり、ちょっと苦労したけど何とか撮影もできた。

ミナミヌマエビの仔

今までに見かけたのは全部で2尾、大きさは約1cmほどと、ちょっと成長した個体だったので、おそらくは卵のうち、あるいは孵化直後にだいぶ犠牲になっていたやもしれぬ、エビの繁殖を企図した水槽内環境でもなかったし…。
とはいえ、こうして思いがけず新しい生命が生まれ、そして育っているということは本当に素直に嬉しく、喜ばしい。
これから水換えや掃除の時なんか気をつけなきゃだな…。

夙川の桜は木によってもう遠目にもはっきりピンク色が分かるほど花を開かせており、3分咲きってカンジ?

夙川駅のホームから望む桜

来月8日に花見予定なのだが、結構ちょうどいいかも。

「すぽると!」で福岡ソフトバンクホークス 和田毅選手の、途上国の子供たちにワクチンを送る取り組みを特集していたのを観て、これも素直に心動かされた。
他者や社会のために役立ちたいという行動のきっかけやモティヴェーションが自分の能力向上にも直結していて、ユニークで、そしてもちろん実効的で。
スタイルの1つとしてハイブリッド車を選択したり、奥底の意味を慮りもせずに「LOHAS」とか口にしているよりも美しくて、かっこいい。
不特定多数に対する無償の自己犠牲なんてものは存在してなくて、だったら自分の欲求に応える行為が他者への貢献につながる、誇張じゃなく助かる命がある、それは生活上の制約も含めて誰にでもできることでは決してないけれど、実現させることができれば賞賛の対象になる、そう思う。


♪ Pocket Engines - Warrior Soul


2007年3月27日(火)

安定しない日々

先週火曜の夕方にインフルエンザアタックに沈み、水曜木曜と2日休んで金曜から仕事には復帰したのだが、本調子に戻らない。
昨日一昨日あたりもずっと37℃前後の微熱が続き、活字を読んでも頭に入らないし仕事にも集中できない。
これは本当にインフルエンザだったのか?

太古の人は星を視る能力を持っていたようだが、今の私たちは、電子機器を操ることはできてもコンタクトレンズなしには生き永らえることすらできない。

自信は喪われ、不安ばかりが増してゆく。


♪ I Wanna Be Sedated - Ramones


2007年3月17日(土)

法治国家とは、何だ

先輩と喧嘩して気分が優れない、疲れ果てた土曜の夕刻。

堀江貴文被告に懲役2年6月という実刑判決が一審で出た。
大方の予想を裏切る厳しい量刑だったが、“正しい情報開示をせず、粉飾決算を強行して投資家たちを欺いた”点が悪質と判断されたようである。

彼を個人的に庇うつもりなどは毛頭ないが、それでも客観的に考えて、この判決が公明正大、中立公正なものであるとは私には皆目思われない。
ちょうどタイムリーな時期に起きたもんだけど、日興コーディアルの幕引きがあれで、ライブドアがこれ?
堤義彦氏の例も然り、誰がどんな虎の尾を踏んだのかは知らないけれども、少なくとも民主的な法治国家とされているこの日本において、「潰す」とロックオンされた者は必定捕らえられ、「逃がす」と判断された者は生かされる、という厳然たる現実が改めて示されたに過ぎないように感じる。

同じ科学と名付けられながらこのあたりが自然科学と異なり人文科学のややこしいところで、つまり、○○学、と定められたそのフィールドにおいて、自然科学はその名の通りに人の手では曲げようのない客観的かつ不変な法則に万事が従うものだが(厳密に言えば自然科学においても、たとえば観測者が対象物に影響を与えるとか、物理法則も一定ではない、という理論もあるようだけど、ここでは置いといて)、法学や経済学、文学などの人文科学一般の内にあっては、その世界を支配するルールを定めるのは常に人であるから。
円の面積はどこに行っても何時代でも政権が交代しても、半径×半径×円周率、というのは変わらないけど、これをやったら犯罪になる、という基準はコロリコロリといとも簡単に変容する。

たとえば、成人がミドルティーンエイジャーと性行為をする、これは日本においては法律あるいは条例違反とされ、処罰の対象となる。
初潮が訪れ、または精通が済み、生理的には繁殖可能とみなされ性交を許されたとしても、近代民主主義国家において広く渡っている社会通念や常識の下で照らし合わされてそれが「いけない!」ということになり、その価値観に則った法律が制定されれば、たとえ昨日まではおおっぴらに行われていたことであってもすなわち犯罪になる。
そしてこういったスタンダードは極めて不安定。
犯罪行為を定めるスタンダードを決めるスタンダードこそが、無形で実体のないものだから。

さらにやっかい極まりないのが、同じ基準の中で同じことをしても、断罪されるケースもあればされないケースもある、という現実。
日興コーディアルは上場廃止すらも、見送られた…。
堀江被告は投資家を欺いたことが悪質、らしいが、ワル度合いで言えば国民全体を欺いて虚偽の公金使途報告を行う代議士の方がよっぽど上を行っている。
しかし「毎日5000円の水を飲んでいる」と言い張っている大臣がそのことによって牢獄に繋がれることはまずないだろうし、血税を使って家族旅行に行っている都知事が横領罪に問われることもおそらくないだろう。
ちょっと話は逸れるが、厚労相の「女は子供を産む機械」発言の時にはキャンキャン噛み付いていた民主党の攻撃の手が、今回の農水相に対してはどうにも甘い気がする。
件の失言の折には「そんなんどうでもいいから早よ予算審議せえよ!」とこちらが思うほどに揚げ足を取ってすっ転ばそうとしていたクセに、やはりこの種の問題(カネ)になると党を問わずに叩けば埃が出るからなのか、矛先が鈍い鈍い。
国民を愚弄している度合い、という観点からいけば、実のところ此度の方が遥かに腹立たしいことなんだけれど。

○○罪、○○法違反、と一目で分かる記号的な罪状で呼び表されることはないかもしれないが、国民の義務として否応なしに徴収され支払っている我々の税を、世間を欺いて代議士が私的に使用していることと、少なくとも自らの意志で株式市場で取引を行っていた投資家を一企業が粉飾決算で欺くこととを比較した場合、前者の方が圧倒的に悪質なんでないの、と個人的には強く思う。
操作した額の多寡や社会に与えた影響の大きさ、などの尺度で罪の軽重を判断することは根本的に誤っている。

生かす者は生かされ、殺す者は殺される。

突き詰めて考えてしまえば、法律や条約や条例を含め、この世のすべての“人が決めたルール”は所詮幻想に過ぎないとも言える。
日本国憲法が基本的人権を保障していることは大人なら誰でも知っているけれど、その憲法が謳う“基本的人権”とやらがそこかしこで頻繁に侵されている、という事実もまた、誰もが知っている。
だから結局、目に見えず実効もしないそんな法など、逼迫している個人にとっては、存在しないに等しい。
“人間らしく生きる権利”、さらには“生きる権利”なんてものを本当は国家が保障してくれるわけなんかあるはずがなくて、自分で勝ち取る以外に術はない。
ウシやウマやイヌやブタが、「お前は食用だから殺されなさい」とか「お前は脚が速いから人間の金儲けのために走っていいよ」とか「お前は金持ちの家で大事に飼われるんだよ」とか定められるのと相似であるように。
そもそもが警察機構というものは、いつの世もどんな社会であったとしても、「現体制を保守する」、ということが至上命題なのだから、当然それが遂行するべき任務の内容も政権が変わればカメレオンの体色のように変わるわけで、すなわち絶対基準でなく相対基準。

そんな不確実な判断基準を抱えた公権力が人の生を握り左右する、そういう法治国家に私たちは住んでいる。

ひょっとしてアナーキズムの端緒か?


本日の夙川の桜のつぼみ。
先週先々週と撮った小枝がなんと今日見たら伐採されてなくなっていて、少し寂しい。

夙川の桜のつぼみ


♪ Walrus - Ministry


2007年3月11日(日)

ワイヤレス化進む…もiTunes7.1に不具合で一頓挫

昨日、仕事帰りにヨドバシカメラに寄り「AirMac Expressベースステーション」を購入!

AirTunes機能を備えた「AirMac Expressベースステーション」

このベースステーションはAirTunesという機能を内蔵しており、これを使えばデスクトップPCやノートPCで起動しているiTunesの音がワイヤレスで聴けるというスグレモノ。
徐々に整備されてゆく(そして飛び交う電磁波がいや増してゆく)我が家のワイヤレス環境。

我が家のPC環境略図

しかし実はこのシステム、未だ少し問題があり、完全構築には至っていない。
MacBookの方のiTunesからは問題なくAirTunesを使用でき、無事にリヴィングのオーディオシステムからワイヤレスで音が聴こえてきたのだが、WindowsのデスクトップPCからは上手くいかないのだ。
iTunesの画面に現れるはずのスピーカー選択小窓がいつまで経っても出現しない。
何度確認しても設定に問題はないはずだし、うーんと独り唸っていても仕方ないからアップルのサポートデスクに電話をして訊いてみたら、なんと数日前に公開されたばかりのiTunesの最新ヴァージョン、7.1のWindows版には若干不具合があり、AirTunesで接続されている外部スピーカーを認識しない、という報告が今続々寄せられていて調査中、という事実が判明。
もちろん僕もすでにアップグレードしてしまっている。
試しにAirMac Expressベースステーションにバンドルされていた古いヴァージョンのiTunes6をWindowsにインストールしてみたらバッチリAirTunesをマウントしてちゃんとワイヤレスで聴けたので、これでビンゴのようだ。
とにかくアップルがWindows版のiTunes7.1をアップデートするのを待つしかないな。

それはまあいいのだが、アップルのサポートの人、もうちょっと頼りがいがあってほしい。
というのも、最初にこれこれこういう具合です、とすべての環境と状況を説明した時は、「WindowsのデスクトップPCはAirMac Extremeベースステーションに有線LANでつないでいるので、それだと既存のExtreme環境にクライアント接続しているAirMac ExpressのAirTunse機能は使えません、つまり、仕様なんです」という意のことを言われたから!
僕はショップで買う時にも一度店の人(ヨドバシカメラの人じゃなくてちゃんとアップルから派遣されてきている人)に自宅のLAN環境を説明した上で、「どっちのPCのiTunesからも使えます」という言質を取ってから買ったので、サポートデスクの人に電話でそう言われ、ええ!? と衝撃を受けつつ「でも店の人には『ルーターじゃなくてブリッジとして使えば大丈夫』と言われましたが」と再び喰い下がったところ、ちょっと待ってくださいと引っ込んで調べてきたサポートデスク氏、「すみません、その環境で使えるようです、ちなみにiTunesのヴァージョンは?」と返答してきて、ようやく問題の本質に行き当たったのである。
もうちょっとでヨドバシカメラに「金返せ!」って行くところだった、頼むで。

実は先日も、AirMac ExtremeベースステーションにUSB接続して共有する外付けHDDのフォーマット形式について一度アップルのサポートデスクに電話をして訊いたところ、「うーん、何でも大丈夫だと思いますよ」的に明確な答えが得られなかったのだが、本当の話は、AirMac Extremeベースステーションに接続する場合はMacはもちろんWindowsからでもフォーマットはHFS+にすべし、ということらしい。
そしてその事実を僕は、「Mac Fan」や「MacPeople」といった雑誌を見て初めて知ったよ…。
雑誌に載るような仕様も知らないんだもんなあ、サポートデスクの人。
FAT32でやったら見えないはずだ。
まあその前にそんな大事な仕様はヘルプやマニュアルやサポートサイトに書いといてよって話なんだけど。

しかしこういった事態が起こるのも、ことデジタル機器に関してはプロユースとホームユースの垣根がどんどん低くなってきている、という最近の傾向も関係しているのだと思う。
専門知識を持たない普通の人たちが家庭で使用する機械が、複雑になりすぎている。
アナログの時代には考えられなかったことだけど、単にテレビ1つとったってデジタル対応の今のプラズマテレビや液晶テレビのややこしいことといったら!
HD/DVDレコーダーももちろん然りだし、携帯電話だってもはや小さなパソコンに相違ない。
僕も自分の持っているFOMA端末の中に、触ったこともない機能が半分ぐらいあるだろう。
最近はどんな家電にもコンピューターが搭載され、そのインターフェイスもどんどんPCに近付いていっているから、高齢者などは本当に独りで生活していくことすら危うくなりつつあるんじゃないか。

最近Macを買った僕だけど、アップルのテレビCMもどうかと思う。
ラーメンズが出てるあのシリーズ。
いわく、Macはウィルスとは無縁だとか、Macはフリーズしないとか、Macでサイトを作って公開するのはたやすいだとか、とかく“パソコン”(Windows)と比較して簡単である、ということを全面的にウリにしてるけど、ハッキリ言って誇大広告もいいところじゃないか?
確かにOSの構造自体はMacの方がWindowsよりも格段にシンプルなのは認めるし、ネットワークの設定なんかについてもMacの方が明らかに容易ではあるけれども、それでもトータルで見たらそれほど劇的な差はないだろう。
実際僕の周りにもいるのだが、「Windows使っててつまづいたけど、Macだったら簡単にできるんだ」と安直に考えてしまう人を量産している、1つの罪。
Windowsでホームページビルダーを使いこなせずにサイト製作を諦めてしまった人が、MacのiWebと.Macだったらいとも簡単にそれができるようになる、とはどうしたって考えづらいし、同じように、iPhotoやiChatやiMovieが同種のWindows対応ソフトに比べて圧倒的に簡単かと訊かれたら、自信を持って首肯できるはずもない。

iPodやiTunesをこれだけ爆発的に普及させたアップルのビジネスモデルは確かに優秀だし、実際商品の質も高いことは紛れもない事実だが、“それらは誰にでも簡単に使いこなせる”というあまりにも甘い幻想を広く植えつけてしまった、という罪もまた負っていると思う。
っていうか、iPodすら(と言っては失礼だが)使いこなせない人って、本当に思った以上に多いみたい。
一人歩きしている?

と言いつつ、ここにきて頓にアップル製品が増殖している我が家!
やっぱしモノはいいんだよねえ、使い勝手、かゆいところに手が届くサプライ、そしてデザイン。
いっそのこと将来的にはデスクトップPCもMac化しようか、なんて一瞬思ったりもしたんだけど、やっぱり世の中は圧倒的マジョリティであるWindowsをメインターゲットに想定して設計されているから、“Macだけ”だとできないことが出てきちゃって、ちょっとMacオンリーには踏み切れない…。
WindowsとMac両方使ってみて分かること、結構あって面白い。


夙川の桜のつぼみは、少し大きくなった。

膨らんできた夙川の桜のつぼみ

1週間前のエントリーの写真と同じ枝だから分かりやすいでしょ?


♪ We Rock - Dio


2007年3月 1日(木)

すべては個人の線引き次第

PCとオーディオアンプをつなぐオプティカルケーブルを買ったばっかだけど、やっぱり理想はワイヤレスだよななんて思って、Bluetoothを使ったワイヤレスシステムをうろうろと探してみた。
iPodや携帯電話など、携帯型プレイヤーを念頭に置いたBluetooth対応ヘッドセットは山ほど見つかるが、お目当てのアンプにつなぐレシーヴァータイプのものはなかなかヒットしない。
それでも頑張って探してみたら、種類は多くないが、アンプに付けるBluetoothレシーヴァー単体や、レシーヴァーと送信機がセットになったものなど、いくつか使えそうな商品はある。
探し始めた頃はBluetooth内蔵のMacBookのiTunesを稼動させることが前提だったけど、そうかUSBに挿す送信機もセットならばちょい古いデスクトップからでも充分聴けるわけだな。
まあこれはしばらくは買わないと思うけど。
ちなみにヨドバシカメラにも寄って何人かの店員にいくつか訊いてみたんだけど、まだ世に登場してそれほど年数も経っていない規格だからなのか、ビックリするほど知識を持っていない。
しっかりしてくれまたえ。

数日前のニュースだけど、ホンダのF1マシンの車体にはスポンサーロゴを載せず、代わりに地球の絵を描くんだとか。
「地球環境問題への取り組みを新コンセプトに」。
この星の環境を大事にしようという姿勢と行動はもちろん極めて重要で望ましいことだし、それについて何ら否定する意思はないが、でも、短絡的にまず思ったのは「じゃあF1レースやめちゃえよ!」ということ。
CO2削減、温暖化防止、化石燃料を大事に、なんてことをコンセプトに含めながら、大雑把な想像で申し訳ないけれどもおそらくは100台や200台の乗用車がアイドリングストップを心掛けたところで追っつかないほどのCO2を撒き散らし、限りある原油資源をアホみたいに浪費するF1グランプリというものに積極的に参加し、のみならずそのイヴェントにおいて「地球環境への取り組み」をアピールするという壮大な茶番劇。
に思えるのは私だけ?

正直に言えばいいのに。
私たちは今さら地球環境に少なからず悪影響を与える科学技術を享受することなく生活することはできない。
ガソリンのない生活はちょっと想像ができないし、同じように電気も必要、木材も必要、夏になれば冷房を点けるし、冬には暖房がいる。
生きていくためには獣も殺すし海洋資源も獲る。
そうした生命活動の基幹のみならず、人間である以上娯楽も必要とする。
地球環境にとって好ましくない娯楽も数多い。
数多あるそんな娯楽に含まれる1つがモータースポーツ。
私は個人的にはF1を止めてしまえなんて意見を持っているわけではもちろんなく、鈴鹿にも何度か観に行ったぐらいむしろ好き。
だから、なのかどうかは分からないが、そのF1レースと環境保護を結び付けることだけはどうしてもおかしいと思う。
F1はF1で娯楽としてあればいいし、他方、できることから意識を高めて地球環境を守っていきましょうと啓蒙し合えばいい。
F1マシンのボディに地球を描くことは、再度言うが、笑えないギャグだ。

自分のできることからやっていきたいとちゃんと地に足つけてハイブリッド車に乗っている人は素直にえらいなあと思うけど、私こそが環境保護の急先鋒であり体現者ですてな顔をして(時には言葉に出して)ハイブリッド車を走らせている人には、「じゃあ自転車乗れば?」と言いたくなる。
あんたたちの国って未だにクジラ獲ってんの? 野蛮です! 絶滅します! などと叫んでいる人たちには「あんたたちの国でスポーツと称して行われているハンティングを法律で禁止する方が意味あるけど? そもそも肉は捨てて脂だけ採るためにさんざんクジラを獲りまくっていたのはどこの国?」と言いたくなる。
その種が持つ特性や歴史などを何ら学ぶことなく、かわいいからと飼い犬に服を着せ靴を履かせ運動も満足にさせることなく悦に入っている自称愛犬家には、「あなたは動物が好きなのではなく、“自分の所有物であるペット”が好きなんですね」と言いたくなる。

今読み返してみるといささか飛躍してしまっているけど、今回のニュースを見て思い出したこのような感情。

算数じゃないから正解はないし、万人が共有できる絶対的な価値観もない。
だから、考えることにはたぶん意味がある。

そうそう、書き忘れていたけどもう1つニュースでビックリしたのが、「悪魔が命令した」のが認められちゃって無罪判決が出た気狂い轢き殺し犯。
こうした報道を聞くたびになんとも言えない気分になる。
心神耗弱、心神喪失、責任能力なし…。
なんだか難しい言葉で表現されるけど、そもそも故意に人殺す時に、まったくもって心神が“正常”な人っているのだろうか?
ゴルゴ13ぐらいしか思い浮かばないぞ。
別に人殺しじゃなくたって、暴力衝動を持っている人なんかはコトを起こしてる最中は言ってみりゃ心神喪失状態だろう。
酒飲みは酔っ払っている時は明らかに心神喪失だ。
じゃあ泥酔して人殺して記憶がなければ無罪か?
ヤク中は無罪になることもあるみたいだが。
違法薬物でトリップしてる奴が「精神障害者」と認められて無罪ってのも考えてみればぶっ飛んでおかしな話だな…。
それに、責任能力って定義もよく分からん。
どんな人間だっていかなるケースにおいても、人を殺した時にその“責任”なんて取れるわけがないだろう。
正常とされる者だって気狂いだってそれは同じだ。
人の生命を殺めた責任を負う能力なんてもの、誰も持ってないから代替罰が与えられるだけじゃないのか。
それならば罰は決して罪を犯した者の人格に因るものではなく、その罪そのものに応じてのみ与えられるべきだと思う。
それこそが社会の中で権利を与えられてきた人間としての責任じゃないのか。
気狂いだって何も犯罪を起こさなければ一人前に権利だけは認められてきたはずだ。
人権も何ももらってねえよと言うんなら話は別だが、そうではない以上、しでかしたことについての罰はそれこそ差別することなく課さなければ。
もしこのような判決が罷り通るのならば、人を殺した時に無罪と認められる可能性があるすべての人間はコトを為す前に隔離監禁すべきだ、という論法こそが正道。
この論法における結論が成立するわけがないというのは自明であるが故、前提となる“このような判決が罷り通る”という仮定も反故にせざるをえない。


♪ 人間転生 - 真理の御魂 最聖 麻原彰晃尊師


2007年2月 7日(水)

「ジョトォ」のケーキなど

今日は東京日帰り出張。
新大阪駅のホームで、最近頓に盛り上がっている陣内智則さんとバッタリ。
かつて春先の大阪 桜ノ宮で、ドブ川みたいに汚い川に忍者装束を着せて潜ってもらう、なんてハードなロケもご一緒したことがあるが、もうそんなことは決してさせられぬ、遠くへ行っちゃいましたね~、なんて。
本人は否定されていたが。
挙式まであと10日、さすがにちょいお疲れっぽかった。

音羽地区の某大手出版社で一仕事終え、帰阪…なのだが、ここであることをふと思い出し、銀座の三越に立ち寄る。
実はかねてより目をつけていた洋菓子店「ジョトォ」でケーキを買って帰ろうとひらめいた。
関西では京都の大丸にしか出店していないようで、なかなか行く機会もないので。

いざB1Fのショップに行ってみたら、なんと店先からデパート内の階段に至るまで、100人単位の行列が!
むむむと思いつつよく聞いてみたら、これは17時からのシュークリーム販売を待つ列だそう。
ここの店では12時と17時の1日2回限定でシュークリームを売っており、その人気たるや、この目で確かめた。
今日はすでに売り切れで間に合わなかったが、次機会があればこれもチャレンジしてみよう。

今回買ったのはモンブラン×2、かぼちゃプリン×1、ジョトォ(ショートケーキ)×1。

「ジョトォ」のケーキ3種

帰宅は結構遅くなったが、妻と分けて食べた。
これは美味い!
大人の味で貫かれたモンブランに甘くないかぼちゃプリン、そして生クリームが「ツマガリ」並みに美味なショートケーキ。
今夜のカラダスキャンが少し恐ろしい。

帰途、iPodから流れてくるボブ・ディランの「Just Like A Woman」を聴いていて思ったが、この曲の邦題「女のように」って、柳沢厚労相の一連の発言をある意味超越している意訳だなあ。
詞のニュアンスがまったく伝わっていない。

明日から再び静岡 伊豆へロケ、そして会社泊と2泊3日の旅だ。


♪ PERSPECTIVE - Yellow Magic Orchestra


「これも含めて、スーパーボウルなんです」

今、スーパーボウルのリピート放送をNHK BS1で観ているのだが、試合については詳しくないので置いとくとして、プリンスのハーフタイムショーがすごかったね!
バスケットボールと違いアウトドアのデカいスタジアムならではのド派手演出。
いやはやスケールが違う。
独立したコンサートイヴェント並みの手間隙を掛けているじゃないか。
そして雨が降りしきる中、「Purple Rain」。
おなじみのシークレットブーツとちょっといただけないノイジーなアドリブのギターソロを差っ引いても、素晴らしい。
プリンス観たくなった。

さらにすごいと言えば、JAL社長が自身の報酬大幅カットなどを含めた再編を発表とか。
年間収入は960万円に、個室も廃し、電車通勤も検討?
まあ当然と言えばそうなのかもしれないし、これまでの経緯に問題があったことも事実だろうが、ここまでの英断はなかなかできるもんじゃないと思う。
素直に、えらいなあ、と思った。
人間って大なり小なりその手中に収めた既得権を手放すことに関しては異常なほど抵抗するのが常。
だからこそ世の中はいびつに、醜く、そのピラミッドを変容させていく。
これを見習ってぜひともお役人の方々に血税の使途を考え直していただきたい、と望むのは無理があるか。


♪ When Doves Cry - Prince


2007年1月28日(日)

極論であること委細承知

ハイティーンと呼ばれる年代あたりに差し掛かり、人並みにものを考えることができるようになり出した頃以来の、決して解決せぬ継続した命題を、昨日も今日も明日も僕は考えてしまう、きっとたぶん。

たとえば、ある人が持っている1つの性質、特徴的な性格の1要素を言葉で評するのにも、いろいろな表現がある。
同じ性質を表すのに、「あの人はしつこい」と言えばマイナスイメージがもちろん強く働くし、対して「あの人は粘り強い」と言うならば、それは称賛の範疇に入る。

そんなケースと同様の構造体として捉えられるような様々なテーゼ、決して両立し得ない矛盾した生活目標のペアが何組も何組も、僕に襲い掛かってくる。

僕は4年前ケニアに旅行に赴いた時、せせこましい世の中で小さな物事に拘ることの馬鹿馬鹿しさを知った(気がした)。
また別の機会には、「世の中は自分の思い通りに行かないのが当たり前、細かなことをいちいち気にしているべきではない」と自ずから思い至ったりもした。
ところがまた、さらに別の機にはこうも思う。
「細かいことを気にしないというのは、一見大らかで豪放な性格には見えるけれども、それは“大事なこだわり”さえも失っているということにはならないのか? すなわち、向上心を、もっと生々しい表現をすれば、野心を失っているということになりはしないか?」

誰もがまったく他者と関わりを持つことなく生きていくのは不可能だから、外にも出て行けば会話もする。
どんなポリシーを持ってどんな生き方を選択していようが、その時に不快な思いを味わうということは、必ずある。

レストランに飯を喰いに行ったら無礼な店員の応対に腹が立った。
道を歩いていたら数人で前をふさぐ無神経な団体が邪魔でイライラした。
会議の席上で空気を読まず的外れな発言をする輩を軽蔑した。

誰にだって訪れるそのような機会に、「まあこんなのはよくあることだから」と波風立てずに穏やかに飲み込むことができる人は、確かに成熟した大人であることには違いない。
僕だって常にそうやってすべてを包容してしまうような大人物に、なれるものならなりたい。
何が起こっても怒らず慌てず騒がず、心の平静を失わない人になれたらどれだけいいだろう、と思わないことはない。
だけど、もしもそうなれたとして、それは本当に“正解”なのだろうか?

レストランの店員が応対を誤った時、客たる僕はいついかなる場合でも「いいですよ」と笑って許すべきなのか、それが本当に“大人”としての振る舞いなのか?
もしそうでないならば、果たしてどこまでの行為を笑って水に流すべきで、どこからが「ちょっと待てよ」とクレームを申し述べるべきなのだ?

業務上の動きにおいて、守るべき領分が侵されていると感じた時、“大人”は事を荒げずにやんわりと受け流すものなのか?
そうでないならば、多少のリスクを冒しても、理屈の上で間違っていることは間違っていると主張するのが企業戦士のあるべき姿なのか?
そもそもクリエイティヴィティが必要な戦場において、“調整ごとが得意”であることと“鋭利な企画力を持つ”ことは1つの人格の中で両立するのか?

すべてのケースが生き物であり、すべての刹那は唯一無二であるから、判断基準たるラインなど端から存在せぬのかもしれないが、それでもその“線”を永遠に探し求めながら、少なくとも僕は残りの時間も生きていく。

自分の器を大きく育てながら、正統に生き様を主張し、失ってはならないこだわりを持ち続けるということは、至難、というよりも、絵空事…?


♪ Face To Face - Tommy Lee


2007年1月20日(土)

私の集中力は、マルチタスクよりも優先的に使役される

音楽を聴くのも本を読むのも好きで、往復の通勤電車内でしばしばそれを私は行うが、1つ1つを単体で実行するのはいいけれど、同時にやるのはよくない。
どんな本でも曲でもそれはあまりよくないが、特に古川日出男の著作を読む時、彼が構築する言葉の群れは、音楽を聴きながら、を許さない。
全能ならぬ全脳を以って当たらねばならぬ!


♪ The Wasteland - Warrior Soul


2007年1月 8日(月)

帰国、寒い

昨日の午前、シンガポール旅行より帰国。
30℃オーヴァーの赤道直下から帰ってきたら日本は相当の悪天候、寒くて寒くてビックリしたよ。
ペットショップから引き取ってきたリクガメも家で留守番していた魚たちも大事なく、一安心。

シンガポールに行った最大の目的は、夜しか開かない動物園、「ナイトサファリ」であったが、そこに隣接する昼間の動物園、「シンガポール動物園」がとにかく想像以上に素晴らしすぎて、感動した。
元々あった熱帯雨林を最大限活用し、そこに高度な飼育技術を組み合わせて、できる限り放し飼いに近い環境を見事に創り出している。
並の動物園を訪れた時にしばしば感じるような、「ああ、かわいそうだなあ…」なんて感情を抱くことは微塵もない。
ここは本当にすごい。

近日中に旅行記を書くつもりだが、まずは写真でちょっとだけダイジェストを。

初日の晩、「文東記」で食べたチキンライスシンガポール動物園エントランスシンガポールといえばマーライオンボートキーエリアで食べたブラックペッパークラブ

寝ているナイトサファリのレオパードセントーサ島へ向かうケーブルカーの車中から最高に美味かった広東料理店、「レイガーデン」ドルフィンラグーンでピンクのイルカにタッチ

晩、21:15からNHKスペシャル「プラネットアース」の第8集『極地 氷の世界』をテレビで視聴。
生きていくこと、生命を永らえさせることそのものが日々の目標でもある過酷な環境の中で、まさにギリギリの活動を続けている動物たち。
“世界一幸せ”とも称されるシンガポール動物園の住獣たちは、確かに恵まれた施設の中で充分にケアされていて、本当に幸せそうだなあ、なんて見ていて思ったものだが、そんな彼らと、食物を得ることすら困難な自然環境の中で暮らす動物たち、果たしてどちらが幸せなのかは、僕たちには分からない。
動物と話ができたらなあ。


♪ If - R. Kelly


2006年12月28日(木)

新しい感覚を得ると、代わりに失う感覚がある

この時期はたいていの社会人が多忙だが、その中でも放送業界というのはまた一段と輪が掛かっており、そして担当番組のシフトによってはドツボに嵌ることもある。
忙しさ自慢をしたところで詮無いことではあるが、ここ1週間ほどあまりにもアレでちょっと笑けるぐらいなので、ちょっと書く。
以下、実勤務時間。

20日(水)-10:00~25:00
21日(木)-13:00~22:00
22日(金)-11:00~26:00
23日(土)-6:30~19:00
24日(日)-11:00~29:00
25日(月)-13:00~28:30
26日(火)-12:30~43:00←つまり、翌27日(水)の19:00までぶっ通し!

30時間連続勤務したのは何年ぶりか。
自律神経も働かぬわ。

月曜深夜の仕事終わり、早く帰ればいいのに、会社の後輩がアルファGTを乗ってきているというので、おお運転させてくれと試乗、朝5時の中之島通を走る。
セレスピードはディーラーで試乗した時以来2年半ぶりぐらいだけど、やっぱり面白いね。
次は2ペダルMTにしようかな!?

節目節目の時期は忙しいということもあり、たとえば今ぐらいでいうなら大晦日とか正月とかクリスマスとか(まあ最後のはどうでもいいが)いった季節の行事に対して、年々僕自身の意識が、また実際に伴う行動が希薄になってきている。
そして慄然としたのが、年中行事を軽視するそうした僕の行いについて、僕自身が何の後悔も寂寥も憤懣も感じていないということ。
元旦といっても単に365分の1日、12月31日と1月1日の狭間を境にして、“今年を締めくくる”だとか“来年の抱負”だとか区切ることがナンセンスじゃないの、という、生まれ出でし時よりその萌芽は有していた、実も蓋もない怜悧な思考が自分の中でどんどん強くなってきている。

都市型核家族的かつ大量消費型利便生活が育んだと言えなくもないこうしたスタンダードを着々と肥え太らせている俺は日本人失格のカメ型ロボットなのだろうか?


♪ Every Night Is Ladies Night - The John Scofield Band


2006年12月22日(金)

愛ゆえに

なんともショッキングなことにデンヴァー・ナゲッツにトレードされたアレン・アイヴァーソンの移籍後初戦は猛吹雪のため中止になったとか。
しかしアイヴァーソンにさらにはクリス・ウェバーまで加わったというのに目を覆いたくなるばかりだったここのところの76ersの惨状、数年前の彼らの姿(そして現在も持っているであろうポテンシャル)からは微塵も想像できない体たらくじゃないか。
老け込むにはまだ早かろうに。
いくら潜在能力は高かろうが、ペイントに入らず体も張らず、並以下のジャンプシュートを繰り返し放つパワーフォワードがチームを救えるはずがない。

一方、移籍先のナゲッツは先般のニックス戦における醜い乱闘劇のペナルティーとして、カーメロ・アンソニーが15試合の出場停止中。
映像を観てみたが、あれは酷い、酷すぎる。
自分は問題のプレイに関係ないのに、勝手にエキサイトしてパンチを繰り出したメロ、果たして自分がUSAの名前を背負ってナショナルチームの一員としてプレイしたこと(加えて、よっぽどのことがない限り北京五輪にも出るはずだった)、そして今やナゲッツというチームにとって欠かすことができないエースでありリーダーであるという現状、さらにはバスケットボールプレイヤーを目指す子供たちの目標になるべき、莫大な収入を得ているプロフェッショナルであるという事実を理解していたのだろうか?
昨シーズンのペイサーズとピストンズによる歴史に残る極悪大乱闘も記憶に新しいというのに。

試合中の乱闘といってもいろいろあり、語弊があるかもしれないが、そのすべてが唾棄すべき醜悪なものであるとは、必ずしも僕は思わない。
かつてのデニス・ロッドマンとカール・マローンの小突き合い、チャールズ・バークリーとシャキール・オニールの取っ組み合い、マイケル・ジョーダンレジー・ミラーのパンチ合戦なんかは決して醜いケンカではなかった。
それぞれに因縁や伏線や明確な要因があり、そしてどれもが自らのプロフェッショナルとしてのプライドを賭けた漢と漢の肉弾戦であったように思うのである(大げさか)。
不謹慎な言い方をすると、いくばくかのエンターテインメント性もあった(特にロッドマンは乱闘を起こす際も常にオーディエンスとテレビを観ている視聴者の存在を意識していた)。
簡単に言うと、観ているこっちも、「これは乱闘になっても仕方ないなあ、まあ納得いくまで暴れてくれ」と思えるような。

ところが今回のメロのケースは全然違う。
フレグラントファウルを喰らったのは自分ではなく、また場面も勝敗を決する緊迫したシチュエーションなんかではなく、ほぼ試合の行方は決まった終盤。
それなのに騒然とする雰囲気にアドレナリンが過剰分泌されたのか、外野から走り寄ってきてニックスのマーディー・コリンズの顔面にパンチを一撃、そして直後、脱兎のごとく逃げ出しているのがまた情けない。
「面白そうな騒ぎが起こってるんで興奮して便乗してやったぜ」感が満載、要するに。
醜すぎる。

せっかく今季、これまでちょっと水をあけられていた感のある同期のレブロン・ジェイムズとドウェイン・ウェイドに遜色ないだけの数字と存在感を示すようになったというのに、精神性はまったく伴っていないことを身を以って証明した。
非常に残念、かつ腹立たしい気持ちになった。

近い将来リーグを背負うべき実力とスター性を備えた若手プレイヤーがこの有り様なら、ここ1~2年の、まるで生活指導担当の鬼教師のようにいろいろと風紀を取り締まるルール(アリーナへ出入りする際やメディアの前に出る際はちゃんとした格好をしなさいとか、試合中オフィシャルにほんの少しでも文句を言ったらテクニカルファウルをとるよとか)を作っているリーグの方針を支持せざるをえないじゃないか。

日本のバスケットボールシーンに目を移すと、来シーズンからプロ化される(本当に?)スーパーリーグの新しい名称と日程が20日、発表された。
新リーグの名前は「日本バスケットボールリーグ」だとか。
つまり略したらJBLかね?
ややこしい。
それともNPB=プロ野球のようにNIPPPONとしてNBL?

詳細なプレスリリースはどうなっているのかな? と日本バスケットボール協会(JABBA)が管轄している新リーグの公式サイトを訪れてみたら、まだそれ関係の情報は何もアップされていなかった…!
一般紙にも載っている発表がだよ?
この運営の杜撰さ、無神経ぶりが現在の協会のすべてを物語っているんじゃないだろうか…。

バスケットボールにちょっとだけウンザリしたここ2日ばかり。


なんだか拙サイト内の「旅 インドネシア編」コンテンツの来訪者が頓に増えているぞ…、と不思議に思っていたのだが、昨日、「コモドオオトカゲはメスのみで単為生殖が可能」という驚きの研究報告が報道されていたんだね!
オス、いらないじゃない…。

クロダイなんかは成長の途上で性転換するというし、高等生物の中でも、切羽詰まった火急の事態(その辺からオスがいなくなっちゃうとか)になると単為生殖を始めるものがいる、という話は聞いたことがあるが、今回のケースもこのような特殊な条件下だったのかな?
ちょっと気になる。
どちらにしても「恐竜の生き残り」という異名もやっぱりあながち的外れじゃなく、進化系統上はそれなりに原始的ということなんだろうか、コモドオオトカゲ。


♪ 千年メダル - ↑THE HIGH-LOWS↓


2006年12月17日(日)

ブラックアーマードプレコ墜つ

僕が仕事で不在の金曜の晩、2ヶ月余の闘病についに終止符、ブラックアーマードプレコが水底で力尽きているのを妻が発見した。

在りし日のブラックアーマードプレコ 後ろに見えている魚体はこれまた先日亡くなったスポッテッドナイフフィッシュ

R.I.P.
それはそうと、先般のスポッテッドナイフフィッシュの時もそうだったし、どうも僕が家にいない時に限って魚が死ぬことが多く、そのたびに妻に遺体を回収してもらっている。
ご苦労さんである。

生き物を飼育するということは、まあほとんどの生き物は人よりも圧倒的に短命であるし、また本来の寿命を最大限発揮できるような状況を家庭内に創出することは難しいので、それすなわち死出の旅路への見送りにもつながる。
分かっちゃいるが、毎度毎度味わう寂寞だけはどうしようもない。

野生種たちが、厳しくて過酷ながらも実は一番幸福であろう本来の生息地であるアマゾン河やメコン川や地中海沿岸で伸び伸びと闘いながら暮らしている一方、120cmとか90cmとかいったサイズの水槽やケージに閉じ込められ、人工的な環境に棲んでいる我が家の魚やカメ。
生き物を飼っている者にとって、そいつらが餌を喰らっている姿を見るというのは至福の1つであることは間違いないと思うが、それと同時に、彼らの不憫な身の上、そして自分の双肩に掛かる責任感というものも痛切に感じられるのである、食餌シーンを眺めていると。
こいつらは俺が餌をやらなければ生き永らえることができない、俺が環境を整えてやらなければ体を壊して仕舞いには死んでしまう。
一切合切の生命をすべて俺に預けて依存している生物たち。
だからこそ、物言えぬ動物たちを裏切ってはいけないのだ。
それほど、生き物を飼育するということは罪重く、業が深い。
その十字架の重さを感じない輩が本当に多過ぎる。

昨晩の「世界ふしぎ発見!」は、アルダブラゾウガメの生息地としても有名なセイシェル諸島。
その、400kgもあるという世界最大のアルダブラゾウガメや、セイシェル固有の鳥やカエル、植物など、非常に興味深い内容だった。
もう少し近ければなあ…。


♪ Little friend - Nickelback


2006年12月13日(水)

“神の領域”を決めるのは誰だ?

風邪が治った頃にまた外を出歩いたせいか、昨日もちょっと倦怠気味だったので会社の健康管理室に行って、注射を打ってもらい薬ももらってきた。

とまあ、人は体調が悪くなれば病院に行ったり行かなかったり、その都度適当と思われる方策を採って病魔の撃退に励むわけだが、そんな折に僕がしばしば思うのが、「医療行為はどこまでが是で、どこからが非なのか?」ということ。

分かりやすい例を挙げるなら、たとえばクローン生物を創り出す技術。
巷間にはそれ自体を、神の領域に踏み込んでいる、として批判する人もいるが、この技術を応用すれば将来、たとえばある人が事故や疾患で内臓の1つを失ったとしても、その内臓を患者自身のDNAを使って複製し治療に役立てる、なんて構想もあるらしい。
興味のみでこうしたバイオ・テクノロジーを研究している人ももちろん多いだろうが(もともと科学の進歩はただ純粋なる“興味”からこそ産み出されているものなので、こうした学者を僕は否定しない)、それと同時にれっきとした医療技術の1つでもあるということ。

また安楽死というものが議論される時には、必ず延命治療行為の意義が侃々諤々取り沙汰される。

こうした例のように、もしそれが生命の発生や尊厳(この言葉自体が実態のないものではあるが…)にかかわるような事柄であれば、その科学技術に生理的に反感を覚えてしまうということは感覚的に分かるのだが、でもそこからまた少し考えてみると、ちょっとした矛盾、というか、いくら突き詰めて思考しても決して解決しない疑問にぶち当たる。

「風邪を引いた時に薬を飲むことと、医療の進歩を目的としたクローン技術の研究は、一体どこが違うのだろう?」

究極的な結論(というか出発点)を言ってしまえば、「医療行為のすべては生命を維持するためのもの」である。
たぶん放っといたら50年やそこらが平均寿命になるであろう人類の実際の平均寿命は(現に高度の治療行為が受けられない発展途上国ではそれに近い)、医療の進歩のためそれよりも随分と長い。
骨が折れれば固定して再生を待ち、視力が悪くなれば眼鏡やコンタクトレンズで矯正し、歯が虫歯でボロボロになってしまえば代替歯を入れる。
それらすべての医療行為は、広義で「生命を永らえさせる」ために他ならない。

しかし同様の発想から始まった技術の進歩や研究も、それが高度になればなるほど、また生命活動の根元に近付けば近付くほど、“人が踏み込むべき領域ではない”といった類の批判も多くなる。
これはいかに。

人は自己を形成し保つために、必ず身内に指針を持たなければならない。
指針を作るためには、価値観や基準といったものを自分で決めなければならない。
つまり、人はどこかで“線”を引かなければならない。
ならばしかし、「どこまでの医療行為が是で、どこからが非か」といった命題に対し、我々はどこに線を引けばいいのだろう?
皆目それが分からんのだ。


少なくとも短絡的には必ずしも生命の維持を目的にしているものではない、という点で少し本題から逸脱するが、もう1例、不妊治療。
帚木蓬生氏の「エンブリオ」などでも紹介されているように、様々な事情によって不妊に悩むカップルにとってはまさに救世主とも言えるような最先端の不妊治療だが、ここにも“倫理”という大きな障害物が存在している。
複数の受精卵の中から1つを選択する男女産み分け、他人の子宮を借りる代理出産や他人の精子を使う人工授精…。
そもそも、子宮外で受精を人為的に行うことすらがすなわち人道にもとるという見方もある。
最近では凍結精子を使うのは提供者の夫の存命中に限る、なんて見解の発表が日本産科婦人科学会からあったりした。
我々は“不妊治療”のどこにどう、線を引いたらいいのだろう?

品種改良や新種作出といったテーマなどもある。
食用の家畜動物をより生産性の高い品種に改良する、より見栄えが美しい花を咲かせるように遺伝子レヴェルで操作する、愛玩動物をより飼育がしやすいように意図的な交配を進める…、などといった行為に対し、人はしばしば批判的になる。
しかしそうしたバイオ・テクノロジーを一時の感情で否定してしまったら、現在のこの世における生活はことごとく成り立たなくなる。
そしてえてしてそうしたクリティカルな人々も、競馬なんかを声高に攻撃しているさまはとんと見たり聞いたりした記憶はない。
ただ速く走る馬を作るためだけに、奇形や変異体が多くなるインブリードを繰り返し、そしてレースに勝てなければ、2度と走れないような怪我を負えば「引退」という名の、そして「予後不良」という四文字熟語を隠れ蓑にした安楽死処分。
こちとら公営ギャンブルという娯楽のためだけに過ぎないものだから、医療の進歩を目的とした動物実験などよりもよっぽど悪虐である、と個人的には思うのだが、動物愛護団体は後者は批判しても前者はあまり槍玉に挙げないよな…。

そうそう、動物実験だって本当にそうだ。
動物たちの命の犠牲なくして新薬の開発などできるはずがないのに、盲目的に批判する人たちはそれが分かっているのだろうか?
実験動物たちに対する扱いを改善しろ、という言い分はよく分かるが、動物を殺すな、という意見は(もちろん感情的には理解できるが、理屈の上では)ちょっと受け容れがたい。
「たぶん効くであろう薬を開発したが、哺乳類に投与したことはない。じゃああなた、最初に飲んでください」と言われて誰が飲める?
輸血を拒否するエホバの証人の信者を超越して、すべての薬を拒絶するか?


…で、いつも同じ行き止まりに僕は突き当たるんだけど、人がどこかに線を引くということ自体が、身にあまりに過分な行為なのかもしれないな、という袋小路。
それでも僕もみんなも、今日も明日もそれからもどこかに線を引き、いびつながらも芯を体幹に突き通して生きていかなければいけない。


♪ Piano Man - Billy Joel


2006年11月26日(日)

日本って案外マトモな国、と思う一端

ことウェブサイトにおけるインターフェイスに関しては、アメリカって日本よりも相当いい加減で非常識。
つまり、NBAやMLBのオフィシャルサイト、あるいはショッピングサイトといった比較的真っ当なところを覗いたとして、勝手に他のキャンペーンページに飛んだり(業界用語でいう遷移ですか)、わけの分からな広告がポップアップで立ち上がったり、目当てのコンテンツの入り口がまるで隠したんじゃないかと疑うぐらいに見つからなかったりと、どっかのファッキンアダルトサイトみたいな罠仕掛けが満載なのである。
もちろん無駄に重たいフラッシュや音声ファイルが自動的に動き出すことも多々。
“我を張ったもん勝ち”の文化は当然ここにも。


♪ Born On The Bayou - Creedence Clearwater Revival


2006年11月19日(日)

「北斗の拳」ほんのちょっとだけ考

数日前に武論尊師匠のインタヴューを偶然テレビで観たことを書いたが、その時師は、「僕も原哲夫も、『北斗の拳』はラオウが死んだところで終わるものだと当然思っていた。そこで我々も燃え尽きた。だから修羅の国編以降のストーリーは覚えていない」、という旨の発言をされていたのを、ふと思い出した。
創り手側から言えばまさにそうだろうと思う。
まったく無理もない。
マンガに限らず、作品が人気を得ていくにつれ、その作品は作者の思惑が及ぶ範疇から逃げ出していき、やんちゃな生命を宿したがごとく、勝手に独り歩きしてゆくものだから。

しかし、師も原哲夫御大もそうは仰っているが、リアルタイムで「北斗の拳」に触れ、虜にされ続けていた僕にとっては、修羅の国編以降も紛れもなく稀有な傑作物語である。
その膨張し続けるスケール感、洗練されていく絵柄も含めて、あるいは第1部を凌ぎさえしているかもしれない。
そして、この僕のような感想を抱いている北斗フリークも決して世の中においてマイノリティというわけではなく、第2部を評価しているマニアは存外に多いのだが、カイオウ以後、リュウが登場しサヴァの国やブランカの国を訪れる第3部に入ってしまうと、「あれはない方が…」という考えを持つ同輩は激増することになる。
実際にアニメ放送も、カイオウが死ぬ第2部完結を以って終了している。
だけど僕は、実はこの第3部も大好き。
大乗南拳の遣い手 アサム国王の跡目争いをカイ、ブコウ、サトラ3人の兄弟が繰り広げるくだりも面白いし、ケンシロウに復讐の炎を燃やす盲目のボルゲとの戦いも緊張感に満ちているじゃないか。
確かにラオウの忘れ形見 リュウなんかはあまりに考えなく投入されたおかげで、後付けのバックストーリーなどにとても苦心されたようだが…。

実際には作者自身も力を使い果たし、あとはもう鞭でケツを叩かれるままにひねり出されていながらも、超一級のエンターテインメントとして走り続けた「北斗の拳」、中でも僕がいくら絶賛しても足りないと思っているのは、そのラストシーン。
このような経過と末路を辿った長寿マンガというものはえてしてとってつけたような、どちらかというとブサイクでカタルシスのない終わり方をするものも少なくないと思うが、本当に「北斗の拳」の最後は秀逸。
大仰な言葉を尽くすなら、常に何かを選択してゆくことの連続で成り立っている人間の生において、本当に選ぶべきもの、選ばなければならないものとは何なのか、ということが余すところなく描かれた、まさに渾身のラストである。
かっこよすぎる。

あー疲れた。


♪ ユリア…永遠に - クリスタルキング


2006年11月11日(土)

「The Lion Sleeps Tonight」の謎

どこかから聞こえてきた「ライオンは寝ている(原題:The Lion Sleeps Tonight)」。
言わずと知れた、The Tokensなどで有名なアカペラスタンダードだが、その歌い出しをボーっと聴いていたら、今さらながらにある疑念が急激に湧き起こってきた。

“In the jungle, the mighty jungle the lion sleeps tonight.”という歌詞から始まるわけだが、んん? ちょっと待てよ。
ライオンてジャングルに棲んでたか?

ライオンの棲息地域はもちろんアフリカのサヴァンナ。
ジャングル、密林という状況とはかけ離れているじゃないか?
確かもう1亜種だけ、非常に稀少なインドライオンというやつがインドのとある森林に棲んでいたはずだが、それもトラやヒョウなど、文字通り(亜)熱帯の密林を主たる生活圏にするネコ科たちとは違い、比較的木々がまばらな地域に棲息している、というようなことをどこかで読んだことがある。

うーん、ちょっとした謎だ、私的に。

どこかに本当にジャングルをねぐらにしているライオンがいるのか、ご存知の方はどうか教えてください。


♪ Thank You For Talkin' To Me Africa - Sly & The Family Stone


2006年11月 9日(木)

この国に住むもののDNAか

「枕草子」の一節、「冬は、つとめて」じゃないけども、僕は今時分(もうちょい後かな)、初冬の早朝が好きだ。
仕事柄あまり早起きな方ではないが、それでもたまには業務上の必要に応じて大多数の勤め人と同じ頃、もしくはそれ以前の時刻に起床しなければならないことがある。
そういった朝、まだ半覚醒の眼と脳がしびれている感覚を持ちながら、「うああ寒いなあ」なんてつぶやいてヴェランダから白っぽい外を見やる。
天気は雨や曇天よりは晴れている方がやっぱりいい。
その瞬間に知覚するおぼろげな感覚が、好きだ。

言葉で明瞭に説明しきることはできないけれど、あえて試みるならば、冬の晴れた朝というものにもれなく備わっている“老い先短い有限性”のようなものにとても惹かれているのだと思う、たぶん。

ああ、ちょっと肌寒いけど気持ちのいい朝だなあ、目を覚ますにはこれぐらいの方がちょうどいいや、天気も結構いいなあ、さあ1日頑張るか。
そう素直に思うんだけど、それとともに感じるそこはかとない寂しさ、虚しさ、儚さ。

僕はすでに、この冬の日中というものが供する“陽性”が長続きしないということを知ってしまっている。
今はまだ太陽は東の空から昇ったばかり、黒く白い夜から闇を追い出したばかりだけれど、この明るさとほんのりとした暖かさはほどなく終わりを告げる。
7時になっても「まだボール見えるなあ」なんて叫びながら野球を続けたあの夏の午後とは違って、2時、あるいは3時にもなればすでに陽は夕方のそれになり、5時を回る頃にはもう空も街も夜の支度を急ぐ。
だから僕は、冬の朝に起きると文字通り身も心も比較的引き締まり、有限というものの儚さをおそらく本能的に感得する。

子供の頃、大好きな親戚が遊びに来ると楽しくてうれしくて仕方がないんだけど、その楽しい時間はいくらもしないうちに終わってしまうことを解っているから、漠然とした寂寥感を裡に抱えながら一所懸命必死に遊ぶ、そんな感覚に少し似ているかもしれない。

なぜか真冬よりも、初冬の方がいい。


♪ The Messenger - Elton John & Lulu


2006年11月 2日(木)

思念が跳躍するNBA開幕日

VTRの編集作業を終えてまさに今帰還。
せっかくNBAが開幕し、新調したばかりのHDDレコーダーを駆使してスカパーで放送していた「レイカーズvsサンズ」とNHK BS1の「ブルズvsヒート」を録画したのに、観る時間がないじゃないか。

時間に対する主観的概念の変化について小咄を一つ。

過去、僕は時の流れを速く進めたくてどうしようもなかった。
小学生の時は早く中学生になりたかったし、中学生の時は早く高校生になりたかった。
高校生になったら早く大学生になって独居を始めたかったし、大学生の時は早く社会に出て自分の喰い扶持を自分で稼ぐ一人前の人間として独立したかった。
常に、早く夜が来ないかな、早く夜が明けて明日にならないかな、早く年をとって大人にならないかな、と思い続けていた。

そんな感覚が今時分になってようやく変わってきた、ということが否応なしに自覚されて愕然とし続けている生後32年と11ヶ月。

時を巻き戻したい、と思うこと頻々、年月を重ねたくない、“今”にしがみついていたい、という無茶な欲求にとり憑かれるばかり。

つまり、僕は現在人生の折り返し地点にいる、山登りに喩えれば、今いる場所がまさに山頂、残された時間は死に向かって緩やかに(かどうかは分からないが)下山するのみ、ということなのだろう。
そう把握した。
だから“生き急ぐ”なんて言葉は幻想であり何一つ実体を持たぬ詐欺に等しい詭弁である。
歩きたいやつは歩け、立ち止まりたいやつは留まれ、後ろを振り返りたいやつは流れくる前方から視線を外せ。

さあ、1試合だけでも観てから寝ようかね…。


♪ Hydraulic Pump - George Clinton & The P-Funk All Stars


2006年10月20日(金)

求人してないかな? エンタープライズ

先ほどリピート放送していたNHKの「ダーウィンが来た!生きもの新伝説」を観た。
今回は北欧に住むクズリ。
こいつは知る人ぞ知る希少動物で、野生のものがこうして撮影されることは少ない。
地元のカメラマンと組んでかなり踏み込んだ取材に成功していて、素晴らしい仕上がりだった。
また、この番組は構成もよく練られており、短い放送尺を逆に上手く活かしている。
月曜20時枠の「生きもの地球紀行」、「地球!ふしぎ大自然」が幕を閉じても、この手の良質な番組を生産し続けるNHKよ。

そうそう、そういえばフランクフルト・モーターショーでコンセプトカーとして発表されてから早3年、あのアルファロメオ 8C コンペティツィオーネがついに市販されるんだってね!
なんとしても1度実車を拝みたいと、大阪はもちろん東京モーターショーにも足を運んだのに日本には来なかった。
ミツオカには悪いがこないだのオロチとはちと違う正真正銘のピュアスポーツ、アルファでは何年ぶりになるのか、FRの2ペダルMT、エンジンは4700ccのV8で最大出力331ps。
全世界500台限定生産で、日本での販売価格は2200万円。
先月28日に始まったばかりの購入申し込み受付、公式サイトを覗いてみたらとうの昔に締め切られているじゃないか!
富める者たちよ。
まいったまいった。


♪ When I'm President - Extreme


2006年10月19日(木)

気狂い

ここのところ、新しいテレビを購入するに当たって、それ用のテレビ台もずっと探していた、というのは既報通り。
インテリアショップを回ったり、インターネットで適当な品を探しあぐねていたりとしていたわけだが、ネットを見ていながら感じたのが、「インテリアショップ(ブランド)のウェブサイトはなんて見難いんだ!」という憤りにも似た苛立ち。
えてして何かにつけてオシャレであると言われている、もしくはオシャレであろうと努めている、あるいはオシャレでなければいけないという強迫観念に追い立てられがちなこれらの業界が犯しがちな典型的失策だと思うのだが、あまりにも「体裁」のみにこだわりすぎるために、実際にウェブサイトを閲覧する利用者のアクセシビリティだとかインターフェイスだとかいったものは完全に無視されている。
つまり、文字は小さく特殊フォントは読み難い、やたら無駄なフラッシュ動画やスクリプトが多い、だから重たい、それでいて本当に知りたい情報が載っていない。
端的に言うと、極めて反合理的。
非合理的ではなく、反。
イスラム原理主義者にはお叱りを受けるだろうが、これは最早失策ではなく確信犯なのかもしれない。

「芸術」と「創作」を取り違えてしまうことは犯罪的である。
「クリエイター」、という言葉を使うと、それをあたかも「芸術作品を産み出す人」、と理解してしまうような風潮が世の中には弱くないと感じるのだが、僕の考えはそうではない。
「クリエイター」=、文字通り「作り出す者」。
createという言葉が本来持つ意味は、「作る」「創る」、という行為であって、そこには有形無形の何かを産み出すという意はあっても、決して「芸術」が介入する余地は与えていないように僕は思う。
じゃあ「芸術する者」は何と言うのかと問われれば、それに当たるカタカナ英単語は「アーティスト」に他ならない。

だからといって、「芸術」などという言葉のはっきりした定義などというものはもちろんこの世のどこにも存在してはいないから、誰がアーティストで誰がクリエイターかなんてのを決める基準は人の脳ミソの数だけある。
ちなみに僕はSNSのセルフプロフィールにある職業欄の選択肢を「クリエイター」としているが、そこには「芸術的な何かを創造する者」などという傲岸な意図は微塵もない。
僕はテレビ番組を制作しているが、民放が制作するテレビ番組は「芸術作品」「アート」ではなく、「商品」であるから。
アーティスティックな振る舞いなどは何もしていないが、番組という商品を作っているから「クリエイター」、という話。

ここで話を本筋に戻すと、インテリアショップ(ブランド)のオフィシャルウェブサイトというものにおいては、利便性や合理性よりも芸術性を優先させるなんてことは、断じてあるべきではない、こっちは趣味のページを趣味で見てるんじゃないんだから(私見です)。
商売目的でなく、顧客に対するサーヴィスなんてものも概念にはなく、ただ単に自分の感性の欲するままに製作して公開しているウェブサイトであれば、芸術性が優先しようが何が優先しようがそんなものは勝手にしたらよろしい(私見です)。
マジョリティであろうがマイノリティであろうが、民衆の人格や感性に訴えかけて、「対価を得ることを前提に」モノを創り出したとするならば、そのモノがテレビ台であってもイスであってもはたまたそれらを喧伝するウェブサイトであっても、それは絶対に「芸術」なんかではない、と僕の狭小なスタンダードラインは制定しているから、すなわちどれだけトレンドリーダーとしての自負があろうがなかろうが、インテリアショップ(ブランド)の商用ウェブサイトはまず始めにアクセシビリティを優先する以外に道はない(私見です)。
「他者の感性」を意識し、採り入れてしまった瞬間に悉く「芸術」は汚染され、霧消する(私見です)。

結局何が言いたかったのかというと、「クソ寒い冬にコート着てマフラー巻いてまでオープンカフェのテラスで茶飲んでんじゃねえよ!」ってことです。

思わず激して話が逸脱してしまったが、まあウェブサイトが見難かろうが、肝心のブツは良いんだけどね。


♪ Keep A Knockin' - The Crickets


2006年10月13日(金)

日本ハムファイターズとデトロイト・タイガース

会社の同僚とともに近くの焼肉店「吟味屋」で晩飯。
ここは3週間ほど前にも訪れた激ウマ店だが、昨晩は大腿部に当たる“まるしん”とヘレのステーキを食べ、あとは上タン塩やら上ロースやら上ハラミやらウルテやら。
ステーキはメチャ柔らかだけど脂身の少ない部位を頼んだので、比較的ヘルシーだった?
驚いたのはタン!
片側を軽く炙る程度が食べ頃のこの上タン、肉質だけをとればあの神戸の「たん平」をも遥かに凌駕していると言っていいだろう。
これまで食べたタンの中で最高かも。

話は変わってプロ野球、パ・リーグは日本ハムが優勝。
やっぱり今年から定められた1勝のアドヴァンテージは大きかったね。
哀れソフトバンク。
もちろん4月に引退宣言をした新庄パワーも強く影響したと思うが、何といっても投手陣の充実、日ハム躍進の最大の原動力はそこだろう。
シーズン前には計算に入っていなかった八木、マイケル、そして両武田。
一気に株を下げた金村抜きでも日ハム投手陣は強かった。

強力投手陣といえばこちらもリーグ優勝決定シリーズが大詰め、MLBのデトロイト・タイガースもそれによって今シーズン大躍進を遂げたチーム。
今季急成長、昨日も投げて勝ったジャスティン・ヴァーランダーにジェレミー・ボンダーマンという若きエース級、頼れるヴェテラン ケニー・ロジャースに安定感のあるネイト・ロバートソンという先発陣に、103マイルを投げる怪物ルーキーセットアッパーのジョエル・ズマヤ、そして最後を締めるトッド・ジョーンズと駒が揃っている。

同列で論じるべきではないのかもしれないけど、日本ハムとタイガース両チームに共通しているのは、どちらも開幕時には確実に結果を出すプレイヤーとして数えられていなかったルーキークラスのピッチャーがガンガンと台頭してきたこと。
遊星からの物体Xによってグンと戦力が底上げされたチームなんだなこの2つは、とふと思った。
両方ともこのままチャンピオン?

余談ながら、NPBを観た後にMLBを観ると、やっぱり違いを感じてしまうな。
スピード感、何よりも静から動に移る際の爆発的なクイックネスがすごい、メジャーは。


♪ B.R.O. - Racer X


2006年10月 8日(日)

あの顔にあの肉体

テレビ朝日の「草野キッド」で、草野仁さんと浅草キッド、そして井出らっきょさんが100mにエントリーしたマスターズ陸上の模様を放送していたので、かぶりつくように視聴。

普段からビルドアップしていることで有名な草野さんだが、ランニングウェア姿を見るとちょっと太り気味のカンジ。
大丈夫か? なんて思ってたら、負傷で本番は棄権!
残念。
浅草キッドの2人とはレギュラー番組をずっとご一緒していたので、こちらも思い入れ強く観る。
加圧トレの伝道師たる博士、さすが。

次回の放送では浅草キッドがハワイで走った自転車100マイルの様子が流されるようだ。

刺激を受けるじゃあないか。

京都 山科で男性が路上で殴殺された事件で、警察は44歳の無職男を指名手配した、というニュースがあったが、この前の山口の事件とは違い容疑者は未成年などではないにもかかわらず、僕が見た限り、FNNでも読売新聞でもどこでもその指名手配された男の名前も顔も報道されていない。
マスメディアが顔も名前も隠したままで「指名手配」とはこれいかに?
どんなガイドラインなのかちょっと分からない。


♪ Straight Through The Heart - Dio


2006年10月 4日(水)

「プラネットアース」第2シリーズが始まった!

いよいよ第2シリーズ、NHKスペシャル「プラネットアース」の放送が再開された。
第5集『高山 天空の闘い』。

今回の放送で圧巻だったのは、何といってもユキヒョウの映像!
あれだけ近くで、あれだけ鮮明にしっかりと撮影された映像は、番組の中でも言っていたが世界初だろう。
極寒の地の住人にふさわしい豊かな体毛を持ち、険しい山岳地の住人にふさわしい長い尾としなやかな身のこなしを備えたユキヒョウの、狩りのシーンまで観られるなんて!
日本の動物園にもユキヒョウはいるが、哀しいかな、これほど魅力的な獣だとは分からなかった。

現在、世界にたった5000頭しか生息していないというユキヒョウ。
動物園のような人が管理する施設で保護することももちろん意義はあろうが、本来の彼らの棲み処で本来の生活を営むことができる個体が増えれば、もっといいのになあ。

第1弾のDVD BOXも購入したが、今シリーズ以降も確実に買わねばならないな。

余談ながら、以前放送された「プラネットアース」内で、おまけ映像として撮影の舞台裏を少し明かしていた点について、「GALAC」誌上に批判的な意見が比較的多かったのは意外だったな。
僕にはとても興味深かったのだが…。


♪ Life - Sly & The Family Stone


2006年10月 3日(火)

ミツオカ「オロチ」が出るって

光岡自動車の「オロチ」市販が正式決定したんだとか。
コンセプトカーを初めて見た時、ん? ちょっとロータスに似てるなあ…、と思ったけど、いやいやそれではあまりにもオロチに対して非礼、あるいはこれは現代のシェルビーACコブラか。
全幅は堂々の2000mmオーヴァー、エリーゼなんかよりもドーンと押し出しの強い筋肉質な外観。
市販モデルもさぞかしスーパースポーツカーかと思いきやそうではないようで、3300ccで233ps、車重も1580kgとちょっと軽快とは言いがたい動力性能みたい。
トランスミッションも5速ATというのがMT派の私としてはまったくもっていただけぬ。
そして気になるアッチの方はというと、1050万円ナリ!
だけど少なくとも、同価格帯にあるポルシェやマセラティ、TVRなどと性能的には比肩しうるモデルではない。
大量生産ではないし、これを高いと見るか安いと思うかはそれぞれだが、それにしても張るデザイン料だこと…。

文句を並べ立ててしまったけど、本質のことを言うと僕は、公道を走らせる乗用車なんぞに必要なものはデザイン99%、とにかく“見た目”に尽きる、という意見を持っている、実は。
233psであろうが165psであろうが、普通に日本の公道上を走っている限りそのパフォーマンスのすべてを引き出すことなどは常人にはできないし、その必要もないし、またすべきでもない。
いささか極論ではあるが、サーキットを走ってコンマ何秒かを縮めることに鎬を削っている世界の住人でない以上、まともに走りさえすれば(現代に製造、販売される車はすべてこの水準は満たしている)自動車に求められるものは“かっこよさ”、それに集約される。
辛うじて滑り込んでくる他の要素といえば、たとえば音だとか足回りの固さだとか運転感覚だとかいった“演出”面だろうか(我が愛車 アルファロメオはこのあたりの魅せ方がなんともはや)。

そういった観点からいくと、トヨタ以外の国内メーカーの業績不振や相次ぐ世界規模の業界再編、オペルの日本撤退などここのところあまり面白いニュースのなかった日本自動車シーンにとって、オロチの一般発売は素晴らしいことである。
この車をかっこいいと思うかどうか、それは人それぞれの感性だが、とにかくこのような車が世に出る土壌を失うことは健全ではない。
記念に3年前の大阪モーターショーで撮ったオロチの写真をアップ。

2003年の大阪モーターショーで撮ったオロチ

周りを見渡せば、とかく猫も杓子もお父さんもお母さんもミニヴァンに乗っている昨今、自分の乗りたい車を探すだけでも大変な苦労を強いられるひねくれ者にとっては、統廃合ではなく拡散と多様化こそが正常進化に思われてならないので、いろいろと厳しい環境はあるだろうが、大小メーカーそれぞれのチャレンジに期待せずにはいられないのであった。


♪ Real Gone - Sheryl Crow


2006年9月 7日(木)

お見舞い

昨日、会社の同僚とともに、入院中の前任プロデューサーのお見舞いに行ってきた。
入院先は京大病院の脳神経外科、なんとも恐ろしいことに頭蓋骨をパッカリと開けて腫瘍を取り出したという、ちょっとシャレにならないシリアスさだが、幸いなことにおできのような良性のもので、9時間半にも及んだ大手術は成功、昨日会ったらもう以前とほぼ変わりない軽口を叩くほど、順調に回復していた。
しかしいろいろと大変そうだ。

手術中は呼吸による体のわずかな振動も命取りになるため、全身麻酔中は自力での呼吸は止まっているだとか、術後しばらくは、頭蓋内に残る気泡のため、寝たり起きたりといった動作を行うと脳震盪状態になって吐き気を催すだとか、麻酔から覚醒した瞬間、周囲の人々がありえないぐらい喜ぶだとか、僕たちにとっては未知のさまざまな体験談を聞き、なるほどなあ、へーそうなのかと不謹慎ながら感心しきり。
まあそれもこれも快方に向かっているから成立する話であって、本当によかった。

最近改装したらしい京大病院はビックリするぐらいきれいで近代的。
玄関入ってすぐにドトールコーヒーがあり、他の飲食店や売店も充実、さらには郵便局の出張所や旅行代理店(ここは病院だぞ!?)まであり、まるで極小の街。
この前の「白い巨塔」の舞台になっていた病院みたい。
ただしこの目を瞠る美しさは玄関周りの一角どまりで、プロデューサー氏が寝起きしている病棟は「築何十年だ...?」と思わせるボロボロぶり。
このあたりはお気の毒であるのと同時に、エアコンすら設置されていなかった我が学び舎の雰囲気が少しだけ想起されたのだった。

久しぶりに母学の敷地内に足を踏み入れ、突然、強烈なノスタルジーに襲われたひと時であった。
やっぱり大学時代の4年間というものは人生において極めて特殊な時期だったんだなあ、と改めて実感された。
あのような期間は、あの期間に似たような期間は、もう二度と僕には訪れない。
あの期間を生きた僕の精神は、僕の記憶の中に永遠に生き続けることはできるのだろうか?

夜、Cカードを取る時にお世話になったダイヴィングショップに1年ぶりに顔を出した。
来週は2006年初のダイヴィングだ!

まったく関係のない話だが、このたびの「FIBA 世界選手権」のオフィシャルボールのデザインはジウジアーロだったんだな!
驚いた。


♪ I Wanna Be Your Dog - The Stooges


2006年8月28日(月)

実のある東京1泊2日

昨日の日曜は東京出張の仕事。
仕事といってもちょっと風変わっていて、僕らの制作している番組を観てもらった視聴者モニターにお集まりいただき、あーだこーだと意見を交わす座談会を開催、その様子を別室にて拝聴するというイヴェント。
番組というものは自動車メーカーにとっての車、家電メーカーにとってのテレビと同じようなもので、つまりはテレビ局が作り、販売する商品。
その商品の具合といったものに対する使用者(視聴者)の反応は、通常視聴率という形でしか我々に伝わってくることはないので、こうして市井の生の声が聞けるという機会は本当にありがたく、いろいろと参考になった。

たいていは東京に来ても日帰りなのだが、この日は泊まると決めており、夜、jijiさんとあまねさんのS夫妻と待ち合わせ、夕食を共にする。
SNSで見知ったこのお二人とはこのたびが初対面なのだが、特にすでにweb上で知り合って1年を越えようかというjijiさんは、かねてより邂逅を果たしたいと僕が切に願っていた人物。
人となりや顔や声や匂いをまったく知らぬのに、書いたものだけに触れてその個性に興味を抱ける人というものは数少ない。
jijiさんはそんな稀少な御仁であった、僕にとって。

表参道駅で待ち合わせたが、まったく無理せず和服を着こなして佇んでいた2人はすぐに分かった。

彼らがセッティングしてくれたのは、青山にある「我や(GAYA)」という雰囲気の良いマクロビオティックなお店。
S夫妻が結婚式の2次会に利用した会場だそう。

まるっきり鶏の唐揚げにしか感じられない、もどき料理を超越した大豆の唐揚げや、タコのぶつ切り、地鶏にサラダに玄米に味噌汁も全部素晴らしく美味く、そしてヘルシーだったが、それ以上にやはり貴重で楽しい時間だった、S夫妻とこうして食事をともにすることは。

仕事、生きもの、旅、音楽、生活にまつわることなど、いろいろなお話をさせてもらったが、漠然と思い描いたよりも朗らかで外交的な空気を感じたjijiさんは、しかしやっぱり一般市民の皮を一枚破ると、そんじょそこらではちょっとお目に掛かれないであろう確固たる個がそびえ立っているのであろう前提を存分に思い知らせてくれる興味深い人物であった。
勝手な推測で申し訳ないのだが、古い言葉を使うならソウルメイトとでもいうべき、妻であり性別を超えた最大の理解者であろうあまねさんと出遭うことによって、jijiさんのパーソナリティーの核は変わらずとも、随所で様々な化学反応による変化が生じたのではないだろうか?
本当に何の根拠も許可もないんだけど、ボーっとそんなことが感じられたのであった。

途中jijiさんは、荒川修作氏の「間にこそ生命が宿っている」という主旨の言葉を引かれていたが、奇しくもそれが真に迫っていた昨日の晩。

生命は1個のそれだけは存在しえない。
いや、存在することだけならできるかもしれないが、他者がおらずすなわち自らの相対的位置も分からず、そこに右も左も上も下も中心も傍もないのであれば、その生命を定義付けるものなどないに等しい。
他人など関係ない、としばしば浮世に倦み疲れた人は口にし、当の僕もそんな気分に浸かる時もあるが、他人がいるから自分がいる意味がある。
他人がいてこそ自分が何者なのかを考えることができる。
それこそがすなわち、間にこそ生命が宿るということじゃないだろうか、などと独り電車の中でぼんやりと考えていた。

また近い未来にお二人に会わなければ、と素直に思った。
先方もそれに近い感覚をお持ちであればいいのだが…、それだけが気掛かりだ。

築地の東京新阪急ホテル泊。


明けて今日は、昼から台場に赴き、あの「北斗の拳 英雄伝 台場の章」へ。
開催は今月末まで、20年来の北斗フリークとしては行かずしてどうして死ねようか、と思っていたのだが、機会を作ることができて本当によかった。
嗚呼、我が青春の紛れもなく一部を形作った「北斗の拳」よ!

ゆりかもめを降りると、フジテレビ周辺は「お台場冒険王」で家族連れを中心にかなりの賑わい。
その人波に逆らうように歩を進めると、片隅にひっそりと“北斗”と書かれた白いテント状の建物があった。

「北斗の拳 英雄伝 台場の章」会場外観

ぬおお、これか、思ったより小さいな。
目測、15m×30mといったところだろうか、このテント。
入場券はちょっと迷ったが、やはりここは主人公だろうと“ケンシロウ券”を購入して入場。

入り口を入ると、フィギュアの原型と原画がまずあり、そこを抜けると等身大のケンシロウ、ユリア、シュウの模型があった。
シュウはあの聖帝十字稜の頂を背に乗せて一歩一歩登っていくシーン。
おお…。

頂を背に聖帝十字稜を登るシュウ

そしてその先、建物内部の開けたところに、コミックバンチなどでも話題の等身大ラオウon黒王号のド迫力フィギュアが鎮座していた。
そして僕も北斗剛掌波をくらった気になってみた。

話題の等身大ラオウ&黒王号

周辺にはダーツ、ザコから逃げるミスミじいさんゲーム、輪投げなどなど、数種類の体感遊戯もあった。
体感遊戯というには甚だ押しに欠けるゲーム群ではあるが、そこは北斗の名を冠しているだけで許せてしまうのだな。
あべしコインを買って僕もダーツと輪投げはやってみて、輪投げでは見事マミヤのヨーヨーをゲットしたわけだが、いかんせん最大の問題は、恥ずかしい、これ。
中でも上記の2遊戯をプレイした主たる理由は、比較的恥ずかしくないものだったからなのだが、1人でやるのはこれが限界だ。
せめて一緒に楽しめる強敵がいればまた様子は違ったのだろうが…。
それはまあ仕方あるまい。

体感ゲームの数々

一通り見た後、3Dシアターにて上映している短いアニメーションを観る。
3Dメガネを掛けて観るのだが、おお、これは予想以上の出来栄えではないか!
玄田哲章のラオウも、内海賢二氏と比べるのはさすがに酷だが、キリっとした二枚目ラオウを巧く演じていたと思う。

ショップコーナーにも足を踏み入れ、やっぱりこれは買わなきゃいかんでしょう的な感のある「ミスミじいさんの種モミ」と、北斗断骨筋でやられるザコが表面に描かれたアルミのカードケースを購入。
ふふふ、これを名刺入れにしよう。

これが「ミスミじいさんの種モミ」の中身だ

実は本日は、15時よりこの会場にて原哲夫御大と角田信朗氏の対談があるのだが、12時過ぎに入場し、すべて堪能しつくしたこの時点でまだ13時。
ぬおお、聞きたいのはやまやまだが、再入場も不可だし、この狭い会場内であと2時間1人で待つのは不可能だ…!
涙を呑んで退場、帰りの飛行機の便を早めて一路大阪へ。

伊丹空港からは家に帰らずエアポートリムジンバスに乗って大阪 梅田方面へ向かった。
昨日から名古屋在住の義母がうちに遊びに来ており、現在妻とともにこの界隈で買い物中とのこと。
大阪駅で無事に2人と落ち合うことができ、名古屋に帰る義母を見送ることができた。

それから妻と2人でDIESELに行き、僕が前から欲しかった靴と、秋用に長袖Tシャツを2枚買った。
半ば衝動買い。

DIESELで購入したシューズとロングTシャツ

晩飯はうちの近所のうどん店「木村」で夏カレーうどん。
抜群に美味い。


♪ Thieves - Ministry


2006年8月27日(日)

ボイブンバもバスケットボールもすげー

昨晩の「世界ふしぎ発見!」で、アマゾンに浮かぶ街 パリンチンスで毎年行われる「ボイブンバ」という祭りの映像を初めて観たが、想像を絶するスケールと精度に驚き、興奮した!
多少の偏見も混ざっているかもしれないが、総じて南米の人々、ひいては社会というものは僕らが日常暮らしているそれよりは明らかにルーズであり、アバウトであり、つまりはいいかげんである。
そんな固定観念を雲散霧消してくれる、すさまじい出来の数々の山車!
恐ろしく腕の立つたくさんの職人がそれらの製作に携わっているはずだが、精巧さ、ダイナミックさ、とにかくその迫力はただただ圧倒的。
技術面だけじゃなくて、あれだけの山車や装置、装飾を作り、また祭りそのものを運営進行するためにはかなりの額の費用も掛かるはずだが、ボイブンバには大手のスポンサーでもついているのだろうか?
ブラジルであれだけのイヴェントを執り行う、その金の出所も非常に気になった。
とにかくこれは死ぬまでに一度生で拝まなければ!!! と強く思った次第。

「2006 FIBA バスケットボール世界選手権」は決勝トーナメントに突入、僕が先週観てきたグループDのイタリアとスロヴェニアはそれぞれ、リトアニアとトルコに敗退してしまった。
しかしこのあたりの国々は非常に力が拮抗しているので、観ていてとても面白い、世界レヴェルのゲームだった。

グループリーグの最終戦でほぼダブルスコアでスペインに惨敗して予選敗退した日本だが(ちなみに今回で15回目となるこの大会、開催国が決勝Tに進めなかったのは史上初めて…)、JABBAの偉い人たちがまたのんきにまるで他人事のように「田臥がいれば勝てた」だとか「ジェリコは解任だ」だとかいろいろと言ったらしいという報道を見てゲンナリ…。
元を糺せばあなた方の不手際が今の状況を作り出しているのに…。
スーパーリーグ vs bjリーグの問題もあるし、日本バスケ暗黒時代は続く…。

今日は久々に日曜仕事の東京出張、約5時間後には新幹線に乗っている予定なのだが…、大丈夫だろうか?


♪ Is It My Body - Alice Cooper


2006年8月24日(木)

こりゃ眠れぬわ

いよいよグループゲームラウンドも終盤に入ってきた「2006 FIBA バスケットボール世界選手権」だが、決勝トーナメント進出を賭けてニュージーランド戦に臨んだ日本、いやー、ホントにビックリするぐらい惜しかった!
正直、明らかに格上のNZ相手に最後の最後までリードしていたのを引っくり返されての負けだけに、1バスケファンとしてショックは大きい…。
勝ちを意識し過ぎたのか、第4クォーターは明らかにおかしかった。
いみじくも、ジェリコ・パヴリセヴィッチ ヘッドコーチが皮肉たっぷりで振り返った、「あそこから負けることは芸術だ」という敗戦の弁が頭に残る…。
ドイツ相手だろうが、NZだろうが、健闘しても負けは負け。
アンゴラに大敗したことを今さら悔いても仕方ない。

今回の日本代表チーム編成においては、主にJABBAのお偉方のバカさかげんによって引き起こされた様々な障害のため、並々ならぬ諸問題がいろいろとあったわけだが、そんな苦しい台所事情で作られたJAPAN、本当によく頑張っていると思う。
誠に失礼な物言いながら、自国開催だから予選免除で出場できたわけであって、通常通りブロック予選に参加していたら本大会の土俵に立つことは甚だ困難だったに違いない。

スティールからファストブレイクに転じる五十嵐の速さには心底驚かされたし、最年長 折茂の決定力、網野、そして竹内兄弟の可能性、柏木の強さ、桜井の度胸、そしてヴェテラン古田の泣き顔などなど素晴らしいトピックも見せてくれている。
決勝T進出は相当厳しくなってしまったが、最後、強いスペインにもドーンとぶつかってほしい。

アメリカは4戦終了して全勝、グループ1位通過を順当に決めたが、イタリア相手に苦戦、初めて得点が100点を切った。
大丈夫か?
イタリアのマルコ・ベリネッリはすごいな、ホント。
エマニュエル・ジノビリがあれだけの地位を確保しているのだから、NBAのベンチに入っていてもまったくおかしくないプレイヤーだ、たぶん。

昨日最大のサプライズは、レバノンがフランスに勝ったゲーム!
ただでさえ国内事情によって出場すら危ぶまれていたレバノンが、トニー・パーカー不在とはいえあのフランスを破るとは!
ただただ驚嘆。
サッカーで言うなら日本が南米やヨーロッパの強豪に勝つようなもんじゃないかな。
しかもバスケはサッカーと違って総得点が多いからアップセットは起きにくいのに。

アジアの雄 中国も昨日セネガル相手に初勝利を挙げたが、グループラウンド突破は厳しいか…?
一昨日、オーヴァータイムの末に負けたプエルトリコ戦が本当に惜しかった。
しかし同じアジア人として、プエルトリコ相手にあそこまで戦ってくれたのは気持ちがよかったが。

スペイン、ドイツ、トルコ、アルゼンチン、ギリシャといった強国たち、そして威信を賭けて極東に渡ってきたであろうUSAが出揃う決勝トーナメント、今から楽しみでならぬ!


♪ Vivrant Thing - Q-Tip


2006年8月11日(金)

たぶん死ぬことが怖いから、僕は今日も意識を失う限界まで起きている

4日ほど前にクローゼットの奥からプレステ2を引っ張り出してきたのがすべての始まり、運のつきってやつだったみたいで、面白いぐらいに分かりやすく睡眠時間が激減し、昨日なんか風邪でもないのに会社で頭痛に苛まれて酷かった。
2日続けて、妻が朝起きてきた時にまだ俺ゲームしてたし…。
自分の性格上こうなるって痛いほど分かってたから、社会人になってからゲームは控えてたんだけどなあ…。
RPGじゃなきゃまだましか、と思い「実況パワフルメジャーリーグ」をやり始めたんだけど、なんだこりゃ、イマドキの野球ゲームって一昔前のRPGよりもよっぽど多くの時間を費やしてしまうのな!
恐るべし。

こうして貴重な時間と体力をほとんど無為に浪費してしまった後に眠りに就く瞬間、いつも儚むのは人生の短さよ。
気がつきゃもう今年33だって?
ついこの前まで大学生という名の穀潰しとして今と同じような非生産的かつ堕落的な日々を送っていなかったか?
こうして気がつきゃすぐに40歳、50歳、60歳?
十年一日とはこのことか。
あるいは百年は夢また夢、千年は一瞬の光の矢か。

時の流れの早さとか、人の生の短さなんてものはこの年齢にもなれば普段から体感される場面、機会はふんだんにあるものだが、僕にとってそれが一番リアルに感じられるのは、床に入って眠ろうとするその瞬間。

僕は眠ることが怖い。

幼少の頃より、おそらく本能的に。

仮に70年生きられるとして、それを日に換算すると約25000日あまり。
1日1回の睡眠をとるとするならば、僕が生涯のうちに眠るのは25000回。
その25000分の1回の睡眠をとることが、僕は怖いのだと思う。
この世の生の内で回数が限定された行為を1回、また1回と消費してしまうことへの本質的な恐怖心。
もちろんそれは突き詰めてシンプルに考えれば、死への恐怖に他ならない。

当然理屈の上で考えれば、眠ろうが眠らなかろうが寿命が延びるわけでもなんでもないが、僕が身内に抱え込んだまま生まれてきた根元的な恐怖心の前ではそんな理はまったく意味を為さない。
1回眠ればまた死に一歩近付く。
僕にとって“眠り”は、それ以上でも以下でもない行為。

そもそも、たった24時間しかない1日のうち8時間も無駄にするなんてもったいないじゃないか(現実的には“無駄”どころか生きるためには不可欠な行為なんだけど)。


今でこそ感性も鈍っているのでそのようなことはないが、それこそ少年時代の僕は眠らなければいけない時間帯に入ると、暗い部屋の布団の中で発狂せんばかりに悶え苦しむこともあった。

ずっと起きていたい。
寝ても楽しいことなんか何一つない。
ずーっとずーっと起きていれば楽しいことばかり。
寝るなんてもったいないよ。
時間がもったいない。
時間は限られてるんだから、きっと。

死ぬのは嫌だ。
死ぬって何だ?
死んだらどうなるんだ?
脳ミソの中? いや、精神の内をかき乱しながら駆け回るこのグチャグチャの線は何だ?
このまま狂うのかな?
大声出したいんだけど!

人は誰しもが自分の哲学を持っているが、とりわけ幼少期は誰しもが哲学者である。

惜しむらくは、もし僕が、睡眠を削ってゲームなんぞにうつつを抜かす代わりに、その時間、学問に励むような勤勉な大人になっていれば、本物の哲学者になれていたかも知れないのに!(?)


♪ さよならの向こう側 - 人間椅子


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2006年7月21日(金)

お祭りとか花火とか海とか全然行ってない

昨日、会社の最寄り駅を出ると1基の小さな神輿が。
いよいよ来週に迫った大阪を代表する夏祭り、「天神祭」の準備をしていた。

天神祭準備の一コマ

晩に打ち合わせで、天神祭の祭礼を執り行っている大阪天満宮が程近い帝国ホテルに出向いた際も、グランドフロアに飾られている祭り関係のデコレーションが人目を惹いていた。
先日は京都の祇園祭もあったし、まさに関西夏祭り月間である。

学生時代は京都に住んでおり、当然暇な時間も山ほど持て余していたのでいろいろなお祭りに行った。
祇園祭、葵祭、時代祭のいわゆる三大祭りはもちろん、時代祭のウラで行われている鞍馬の火祭、冬の百万遍の風物詩である吉田神社の節分祭、その他種々雑多の神社へと。
ああいったお祭りでは、昔の貴族や武士や町人などのコスチュームを身にまとって町を練り歩くパレードの参加者をしばしばアルバイトという形で学生に募集を掛けており、僕も幾度かそれに参列して平安貴族みたいな格好を着せてもらい、「ぬおお、さすが京都だ」と唸っていた、なんて想い出もある。
祇園祭の大行列に加わった時は、大観衆の見守る中、四条通をなぜかいささか緊張しながら歩いたりもしたなあ。

社会人になってからはそういったお祭りにもほとんど行っていない。

後年になると郷愁めいた淡くも懐かしい想い出となって胸中にいつまでも朽ちることなく残り続ける貴重な経験の数々と引き換えにするほど価値があるものなのか、多忙な社会人であるということは?

やりたいこと、行きたいところ、見たいもの、触れたいもの、感じてみたいものがたくさんあり過ぎる。
よく、「仕事しなくて毎日暇だったらやることないよ」とか、「定年退職して家にいたら退屈だよ」とかいう意見を聞くが、僕は絶対そんなことにはならないと思う。
80歳までとりあえず不自由しない財を成せていたら今すぐにでもリタイアする気は満々なのだが、残念なことにそれはできぬ。
週休5日ぐらいで今の収入を維持できるだけの甲斐性と能力があれば今すぐにでもそうしたいのだが、残念ながらそのようなものも備わっておらぬようで。


話はまるで変わって、例のジダンとマテラッツィにFIFAから下された処分が発表された。
第一印象で言うと、先日の大相撲 露鵬の処分もあまりに軽かったが、今回のジダンに課された処分も存外に軽く、それに比してマテラッツィに下った措置はなかなかに手厳しい。
というか、ジダンとマテラッツィの処分の格差が近すぎると個人的に感ずる。
いくらマテラッツィの投げた言葉が相手を挑発するための“言葉の暴力”だったとしても、それと実際に力の行使に及んだ“物理的な暴力”は絶対的に違う。
どちらもならず者的行為には違いないけれど、その2つの間には大きな開きがある、特にスポーツのゲームの中においては。
マテラッツィに課された処分の重さを聞き、てっきり人種差別発言が認定されたのだなと思っていたら実はそうではないみたいね。
人種差別的な発言内容ではなかったけれど、名誉を毀損したから処分する、って何かおかしいと思うのは私だけか?

つまるところ前に書いた論調と変わるものではないんだけど、だってジダンが頭突きしなければマテラッツィの発言だって看過されていたわけで、処分の下りようもない。
ジダンが頭突こうが頭突くまいが、マテラッツィの発言はその前に吐かれていたものだとするならば、頭突いた場合にだけ相手方にも処分を課すというのはちょっと論法が理解できない。
FIFAのアティテュードとして、差別は許さない、というスローガンがあるから、マテラッツィの発言内容に人種差別の意味合いが含まれていればまあそれもしょうがないかな、と漠然と予想はしていたけど、そうじゃないのにこうなるとは。

相手が暴力で対抗しなかったから問題になっていないだけで、たぶんマテラッツィと同等かそれ以上に相手の名誉を毀損する暴言をゲーム中に相手に向かって吐いているプレイヤーはたくさんいるんじゃないかな、きっと。
「お前の奥さん、○○と寝たらしいな」なんてトラッシュトーク、しょっちゅうあるって話もあるし。

理屈の上では、ピッチ上のすべてのプレイヤー、あるいはベンチのプレーヤーやコーチにまですべてマイクをつけ音声を録音し、そこに暴力行為があろうがなかろうが「名誉を毀損する」発言があればすべからくその発言主を処分しなければいけなくなるじゃない。

FIFAの発表すべてを鵜呑みにするのもどうかと思うけど、これが公式見解なのだからそれをすべての判断材料にするしかないし、とにかく便秘気味の腸捻転気味にスッキリしない。
ヴィデオ判定問題も含めて。


♪ 矮小な惑星 - 宮沢和史


2006年7月14日(金)

スポーツを愛する1人として

昨日、ジネディーヌ・ジダン選手が母国フランスのテレビに出演してコメントをし、さらに議論が過熱した感のある“頭突き退場事件”だが、もういい加減、いかにも社会問題です然として語るのはやめてもらいたいと個人的に思う。

そもそもあの件は、まず発生した試合がワールドカップ決勝であったこと、そして当事者がジダンという世界最高峰のプレイヤーの1人であったこと、さらにはそのジダンの現役最後の試合というサイドストーリーが加わったこと、以上のような特異な条件が見事に揃ってしまったことによってこれほどまでに世界中で注目されただけに過ぎないのであって、言い換えれば、先に挙げたような特殊な要素を取り去ってしまえばここまで大きく取り上げるような事態には当たらないと思う、と勇気を出して言ってしまおう。

無論報道されているような内容の暴言をマテラッツィ選手が言っていたのだとしたらそれは由々しき問題であることは間違いないが、サッカーのみならず僕の知る限り、野球でもバスケットボールでも試合の中で相手選手に向かって汚い言葉を吐いて挑発することはプロの世界においては日常茶飯事。
子供のケンカの時なんかにも、「うち帰って母ちゃんとfxxkしてな」なんて言葉をぶつけ合う習慣のあるような国ならなおさら、それと同種の暴言をゲーム中に吐くことはあるだろうし、そこに人種や宗教などデリケートな問題が絡んでくることも少なくない。
でもそれらは確かに“言葉の暴力”には違いないけれど、そこに物理的な暴力で応えてしまっては(それも衆人環視というにはこれ以上しっくりくるシチュエーションは見当たらないだろうという場面において)、やっぱりどうしたって応えた方の「負け」になっちゃうと思うんだな。

先に、この件はいくつもの特殊な条件が揃うことによって注目された、と書いたけど、さらに根本的なことを言うならば、そもそもジダンがマテラッツィの発言を無視して頭突きで報復していなければ問題になることはありえなかった。
マテラッツィが暴言を吐いていたという事実すら表には出なかっただろう。
つまり、これはそういった類の問題なのである。

世界中で行われている様々なプロスポーツの試合において、このたびのマテラッツィのように相手の怒りの琴線に触れる暴言は毎日毎日、星の数ほど吐かれ、ぶつけられているに違いない。
今回のジダンのようにそれに暴力で応えてしまうプレイヤーもいるだろうが、たぶん大多数の選手たちはそれらの暴言に耐え、忍び、あるいはその怒りのパワーをプレイの力に換え、あるいは精神の統一を乱してプレイの質を落としてしまいながらも、少なくとも試合中の暴力という手段には訴えることなくやり過ごしているのが真相であると思う。
そしてそうやって暴言をぶつけられた側の選手が耐えている限り、暴言が吐かれたという事実すらも決して報道されることはないだろう。

僕たちは知らないだけで、おそらく世界中の至るところに、家族や国籍や人種やルーツを傷つける暴言を吐かれながらも、それを我慢してプレイを続けた“頭突きをしなかったジダン”が数多いる。

いくら挑発のためとはいえ、差別的な発言は決して許されるものではないし糾弾すべきものだが、それとはまったく問題を別にし、ジダンはプロスポーツ選手としてやっぱりあれは「負けた」んだと思う。
それだけの単純な問題。
あれがワールドカップ決勝じゃなければ、ジダンじゃなければ、ジダンが頭突きをしてさえいなければ、誰も知ることなく看過されていただけの出来事。
だから世論はもちろんFIFAをも巻き込んで、今みたいな感じで事態が推移しているのはちょっと不思議。

試合の勝敗だけに論点を絞って言えば、いくら延長も後半だったとはいえ、あの退場によって間違いなくフランスの戦力は低下、ある意味仕掛けたイタリア側の思惑通りになってしまった側面もあるから、ワールドカップ決勝というこの上ない大舞台であったからこそ、スーパースターであるジダンには堪えてほしかった。
チームの勝利のために。
相手の卑劣な仕打ちに野蛮な力で対抗することは誰にでもできるけど、優れたプレイで以って相手を叩きのめすことこそが一流のプレイヤーたる所以なのだから。
スポーツを愛する1人として、それが非常に残念でならない。


♪ Slit My Wrists - Buckcherry


2006年7月12日(水)

動物の餌の残り物を人が喰う

今日の晩ご飯も家で食べたのだが、つけあわせにチンゲンサイとオクラが使われていた。
どちらもうちで飼っているヘルマンリクガメの好物である。

数年前、イヌ、ネコはもちろんのこと、ペンギン、ハクビシン、ニホンザル、ニワトリなどなど数十種に及ぶ生き物を飼育しているという茨城県内のとんでもない一般家庭を取材したことがあるが、その家の毎晩のおかずには主に飼っている動物たちの餌の残り物が使われており(人間の残り物を動物にやるんじゃなくて、その逆ですよ!)、中でもペンギンの主食である小アジが週に3度はメインディッシュとして食卓に上る、という非常に印象深かった出来事をなんだか思い出してしまったのであった、今晩のうちのご飯を食べながら。


♪ If I Could Turn Back The Hands Of Time - R.Kelly


2006年7月 7日(金)

生殺与奪を決めるのは?

僕は現在、計19種51尾ほどの魚(とエビ)を4つの水槽で飼育している。
そのうち一番小さな35cm水槽が空いているので、いわゆる小赤(金魚すくいの獲物になっているような小さな金魚。主に大型魚の餌用としてショップで売っている)を買ってきてそこに入れて、120cm水槽に棲んでいる大きな魚どもの餌としてあげようかな、とここのところ企んでいたんだが、「かわいそうだからやめて」という妻のやんわりとした反対にあい、やむなく断念中なのである。

飼っている魚の餌として生きた魚をあげる。
確かにこの行為は理屈の上ではなんだか破綻をきたしているようにも感じられる。
小さいながらもパクパクチョコチョコと懸命に生きているメダカや金魚の命と、それらをガブリと一呑みに喰らうスネークヘッドやナイフフィッシュの命と一体何が違うのだ、と問われてはぐうの音も返せない。
どっちがかわいいかと訊かれたら、ともすれば喰う側の怪魚たちよりも餌となる小魚の方がよっぽど愛らしいのではないか、なんて当の僕でも思うかもしれない。

もし反論するとするならば、大きな魚たちの胃袋に収められる小さな魚たちは決して悪ガキにいじめられて殺されたり残虐な釣り人に岸に打ち捨てられて死に至ったわけではなく、他の生物の貴重な糧としてその尊い生命を捧げたんです、無駄死にではないんです、食物連鎖のピラミッドなわけです、といった具合が精一杯だろうか。

こんな時にいつも思うんだけど、人間は誰だって必ず、生きとし生けるものの命というものに序列をつけている。
命の重さは平等である、なんて虚ろな言葉もあるにはあるが実際にはもちろんそんなことはなく、明確に差がつけられている。
そしてその“命の序列”は言うまでもなく絶対的なものではなく、決める人の主観によって、シチュエーションによって、その他諸々の条件によって変わる。

僕は、メダカや金魚はすまないけれど我が家にいる大型魚の食物となってどうか輪廻に組み込まれてくれたまえよ、と思うことができるが、妻は、メダカや金魚だって生きているんだから配合飼料や冷凍エビとかで大型魚が生きていけるなら餌としてあげなくてもいいじゃない、と感じている。
このように卑近なところで見てみても、僕と妻は明らかに異なる場所にラインを引いている。
過激な環境保護団体が、クジラは賢いんだから食べるな! と叫んだり、反対方向に過激な人々が、野良イヌ・野良ネコは迷惑だから駆逐せよ! なんて主張したりするのは、その極端な例である。

こうなるともうどこまで考えても、何が正解とか何が間違いととかいうことは分からない。

ただ、どんなヴェジタリアンだって必ず何らかの形で他者の生命を犠牲にしなければ生き延びることができないという現実がある以上、誰しもがどこかにそのラインを引かねばならないのだな、自らの主観によって。

もっと飛躍し極論してしまえば、ペットを家で飼うという行為自体がその生物の幸福を損なっている、という考え方もある。
どれだけお金や手間を掛けてもその生き物が野生の状態で生きている環境を完全に再現できるはずはないのだから、スケールの差こそあれすべてのペット飼育は箱庭飼育でしかない、という見方。
つまり、アマゾン川に棲んでいるナマズを日本の家庭の水槽で飼ったり、アフリカにしか棲息していないカメをわざわざ加温したケージ内で飼うのは広義の意味で虐待である、ということ。
品種改良によって純野生のものがいなくなっている、ほとんどのイヌやネコだってもちろん例外ではなく、たとえばロシア原産のシヴェリアンハスキーを高温多湿の日本で健康に飼えるはずがない、とか、温暖な地中海沿岸で生み出された小型犬たちを、ニットを着せてまで冬寒くなる日本で飼うのはバカげている、なんて意見も実際にある。

突き詰めていけば本当にきりがなくてまったく先が見えなくなるし、そうなると僕たちはペットを買うことも肉を喰うこともできなくなりそうなので、せめてその一つ一つの振る舞いや行為に心を込め、無駄な生命はできる限り奪わないように努力するとしよう。
カとかゴキブリは別ね。


♪ I Will Get By - The Grateful Dead


2006年7月 1日(土)

揺れないけれど活きた心はどこにあるのか?

 『雨ニモマケズ』

 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 欲ハナク
 決シテ瞋ラズ
 イツモシズカニワラッテヰル
 一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ
 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニ
 ヨクミキキシワカリ
 ソシテワスレズ
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
 東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ
 行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
 北ニケンクヮヤソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒデリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニ
 ワタシハ
 ナリタイ

  宮沢賢治


拙ごときが思いつき考えるようなことはたいてい偉大な先人の誰かがすでに著して世に送り出しているわけで、こんな気分の金曜から土曜日。
主に負の感情を背負うフィールドにおいては極めて鈍感かつ無神経な反応を自らに求めながら、正方向に働く感性はヴィヴィッドなままでありたい、と欲することは果てしなく矛盾するものであり、成就不可能な雲上の目標であるからこそ、我々は現世を溺れながらも泳ぎ続ける意味がある。


うちの玄関には今までずっと姿見というものがなかったんだが、先日一念発起して特注していた総鏡張り仕様の玄関クローゼット扉が今夜届けられ、設置された!

玄関のクローゼットに取り付けられた鏡張り仕様の扉

僕はともかく、妻などにとってはこれはだいぶ重宝するだろう。


♪ New World Man - Rush


2006年6月29日(木)

宗教と科学の両立に関するちょっとした疑問

数日前に映画を観に行った「ダ・ヴィンチ・コード」、その時にも書いたように映画は若干説明不足のために楽しみきれなかったところはあるけれど、原作の小説は巧妙に読者の興味を一歩先一歩先へと導く良質のエンターテインメントになっていて、充分に満足した。
その「ダ・ヴィンチ・コード」を読んでいた時にも改めて感じたし、まあ以前からもたびたび思っていたことではあるんだけど、西欧その他のキリスト教文化圏の人たちって、よく「信仰心」と「現代科学社会に生きること」を器用に両立させているなあ、と感心してしまう。

かつてガリレオ・ガリレイやコペルニクスといった過去の人物が天が動いているとか地球は丸いとか言って教会に迫害を受けたなんて話は子供の頃に学校の授業でも習うが、いくら敬虔なカトリックの信徒でもそのような前提的摂理を疑う人は21世紀の今は皆無。
それと同様に、一番好きな本は聖書ですなんて信者でも、「人間は神が創りたもうた」と心の底から信じている人はまあいることはいるらしいが、それでも割合的にはごく少数、一応ほとんどのキリスト教信徒たちは、なんらかの進化過程を踏んで人間は別の生物から派生して生まれてきた、という現代の保守本流を占める科学的仮説は支持しているみたい。
新約聖書に書かれてあるイエスの行った奇蹟にしても同様で、描写されている通りの出来事が実際にそのまま起こったと考えている人はマイノリティ、多くの人たちは、書かれている奇蹟はイエス・キリストの神性を抽象的に表現したものである、なんてスタンスをとっているらしく、そもそも聖書学という学問は旧約・新約聖書に著されている「科学の常識とマッチしない数々の出来事」をいかに矛盾や破綻なきように現代の価値観と重ね合わせるか、ということに腐心するものだろう。

実はここらへんが根っからの無神論者、無宗教バンザイの僕としては昔から若干引っ掛かっているところ。
普段から日曜には教会に通って祈りを捧げ、イースターやクリスマスには神に感謝し、打席に入る時やPKを蹴る際には胸の前で十字を切るような生活を送りながら、聖書に出てくる秘蹟や奇蹟を「何かの喩えだ」と割り切ってしまっているところが。

ちょっと大仰な言い方になってしまうけれども、神への帰依とか信仰心ってそういう類のものなのかな?
無条件に神の存在を信じ、ことあるごとにその神に祈り、自分の属する宗派が定める戒律には従うけれど、人間は進化によって誕生したし、杖をかざしたら海が2つに割れたは信じないし、処女のまま女性が受胎するなんてありえないし、人が死んだ後に神として復活するなんてナンセンス、と思うことは自己の内で矛盾はしないのか?
暴論してしまえば、聖書の中に書かれてあることは本当のこともあればウソも混じってますよ、っていうことになるんじゃ?
そういった明確な一線を引いてしまうことができるんだろうか、信仰心の中に。
そうだとしたら、カタコンベの時代じゃあるまいし、そもそも現代の彼らの持つ信仰心を支えているもの、礎となっている源泉は一体何なのだ?
そもそもの信仰の始まりに別に確固たる理由はいらないのか?

僕には生涯理解も感得もできない感覚なんだろう。


♪ Only The Good Die Young - Katmandu


2006年6月23日(金)

おそらくあんまり書かない方がいいだろうことを書いてみた

高校卒業までの18年間を過ごした名古屋から関西に出てきて15年目ぐらいになる。
そんな時分になってようやく分かりかけてきたのが、この地方にはいかに同和、いわゆる部落が様々な形態で様々な問題に影を落としているか、ということ。

かなり大きく捉えてしまえば、ここ数年声高に語られることが多くなった大阪市の財政にまつわる不正や汚職の多くに関わりを持っている。
例の飛鳥会にしたって、それに代表される土地活用を巡る不可思議な状態にしたって、交通局や給食センター職員などの度を超えた厚遇にしたって、食肉業界が絡んだ不透明な金の流れにしたって、広域暴力団の発生源にしたって、そう。
京都や奈良だってもちろん例外じゃない。

そもそもが関西地方の小学校では「同和教育」なる授業が普通にある、ということを学生時代に初めて聞き知って驚き、そして関西で育った友人には僕がそれを知らないことに驚かれた記憶がある。
東海地方では少なくとも僕が小学生だった時代にはそのような教育はなされていなかった。
また、同じく大学生の頃に、当時住んでいた京都市内のとある地区を通りがかったらそこら中ビッシリと路上駐車の列、列、列、にも関わらずその一角には普段決して警邏の警察官が立ち入らないため絶対に駐車違反の切符は切られないのだ、という事実を知った時も同様に驚いた。

長きに渡って彼らに色々な手枷足枷をはめてその生活を封じてきた“平民”たちが今まさに手痛いしっぺ返しを喰らっている、という表現が適切なのかどうか分からないが、とにかく“臭いものには蓋”的な発想で以ってこうした経緯にまったく触れずしてただ一方的に地方自治体の歪みだ何だを舌鋒鋭く批判している様には何となく違和感を覚えるのだ。
今そこに確実にある、横たわっていることが誰の目にも明らかな関係事実を無視しタブー視することは、何も溶解には導くことはないような気がした。

何の問題提起もできないし、ましてや解決策を示すことができるわけなんかないけれど。

話は少し変わるけど、「油かす」という食材が被差別部落社会発信の食べ物であるということを最近知った。
油かすラーメンは美味いよなあ。


♪ Slip Of The Tongue - Whitesnake


2006年6月22日(木)

FIFA ワールドカップの最中にNBAは幕を下ろした

今しがたNBA ファイナル第6戦のヴィデオを観終わった。

試合終盤、ダーク・ノヴィツキーに対して吹かれた、ドウェイン・ウェイドへのファウルがすべてだったような気がする。
あの時間帯、あの点差で、そしてダラスのホームであのコールはちょっと厳しかったなあ…。
自画自賛ながらシーズン前に予想していたファイナルの組み合わせがピタリ的中、さらにはヒートが優勝するとまで当てていたにもかかわらず、なぜかマーヴェリックスが不利になるにつれ無意識の内にマヴスを応援していた。
不思議なもので。

それにしてもアロンゾ・モーニングの鬼神の働きぶりはすごかった!
まさしく全盛期を髣髴とさせる信じられないブロックの連発。
実は彼に関しては僕はどちらかというとネガティヴな印象を持っているんだけど、あれだけ切望していたチャンピオンリングを獲得できてよかったね。
リング獲得といえば一昨シーズン、なりふり構わずレイカーズに移籍してまで手に入れようとしていたゲイリー・ペイトンもついに悲願を叶えた。
本当にうれしそうだった。
ルーキー時代から好きなジェイソン・ウィリアムズが獲れたことも個人的に喜ばしい。

3年目でファイナルMVP。
すでにリーグトップクラスの実力と神性をその身につけていたD.ウェイドだけど、これで明確に目に見える形で同期のレブロン・ジェイムズを引き離したように思われる。
と言ってもウェイドにあってレブロンに欠けているものは決してスキルではなくてただ一つ、リングだけであることは確かなので、必ず来季以降、レブロンも巻き返してくるはず。
今後10年間のNBAはこの2人がリードしていくことになるのかもしれない。
カーメロ・アンソニー、頑張らないと埋もれちゃうよ…。


♪ All Tomorrow's Parties - The Velvet Underground


2006年6月17日(土)

適切なスケールで捉え有機的に結びつける理解力がようやく少しずつ

今日の「世界ふしぎ発見!」はオーストラリアのタスマニア。
アフリカのマダガスカルや南シナのボルネオのように、元来の環境が多く残っている比較的大きな島というのは、非常に独特な生態系が出来上がっていたり、ダイナミックな固有原生種が多数棲息していたりして個人的に素晴らしく興味をそそられるものだが、このタスマニアもその例に倣ってとても面白かった。
あれだけたくさんの有袋類が棲んでいるとは知らなかったし、アマゾンのネグロ川のようにタンニンが溶け込んで赤い海があるなんてことも初めて知った。
欲を言うならば絶滅してしまったタスマニアンタイガーの説明もちゃんと見てみたかった。
いやー、行きたい。
余談ながらミステリーハンターの宮地眞理子さんという人も絶妙にマッチしておりとても観やすい。

乖離、乖離。


♪ Smoke Screen - Michael Monroe


2006年6月16日(金)

文庫版礼賛

ご周知のように文芸本には単行本と文庫本という2つの主とした形態がある。
僕は以前は「気に入った作家や作品ならやっぱり単行本でしょ」という固定観念で以って、せっせと重くて固くて高価なハードカヴァーを買い揃えていたものだが、最近になってその感覚がちょっと変貌してきた。
価格やサイズや重量などの要素を除外した上で、「文庫本って結構いい、いや、文庫本の方がかえっていいんじゃない?」という気持ちが強くなってきたのだ。

書き下ろしにしろ連載ものにしろ、まとまった形で書籍として初めて世に出る単行本の場合、当たり前のことだけど制作者側が抱く種々の気合が随所に込められることが多くなり、すなわちそれは凝った段組みであったり美麗な表紙画であったり創造的な装丁であったりといった様式に現われる事例が少なくないように思われる。
それはそれでもちろん好ましくないことでもなんでもないし、そういった工夫も含めてその文芸作品の一部たりうる場合もあり、読者である僕も手間隙掛けた装丁やハッと目を惹く扉画に触れると「おお~」と口を開けて感嘆したりもしばしばする。
だけどそういった“中身”以外の諸々の要素は、時として純粋な鑑賞やイメージングを助ける代わりに邪魔をしてしまうことがあるということも、残念ながら皆無ではないと思う。

本にとって最も重要なものは言うまでもなく、本文。
作家によって紡がれた文章群こそが心臓であり、脳であり、目であり耳であり口であり手足である。
装丁や扉画や挿絵や文の組み方は服であり靴でしかありえない。
それらは確かに見た目上、その本に“個性”を与えるかもしれないが、ただひたすらその本の中身が持つ世界に浸りたい時、あるいはその“個性”が邪魔に感じられることも、なくはない。

その点文庫本は、そういった中身以外の装飾が単行本に比べると相対的に少ない。
もちろん各社各書表紙には凝っているだろうし、フォントや段組みなどで少しでも小説の持つ世界観を表現しようとしているのかもしれないが、単行本よりは圧倒的にその余地は狭い。
ものすごく極端で乱暴な言い方をしてしまえば、文庫本は皆同じ顔を持った画一的な書籍スタイル。
だからこそ、その作品を味わう時により純粋な感性で文章群の海を泳ぐことができるような気が僕はする。
パッと見の印象というものは、意外にいろんなところに影響を及ぼす。

そしてさらに大きな特典として、文庫版には巻末に解説が載っているということも挙げておかなければいけない。
外見上の装飾に惑わされることなくその中身を存分に味わいきった後に、その小説の書き手ではない客観的な視点を持った日本語のプロが書く解説を読むことができるなんてなんて幸せな!
皆川博子が書く恩田陸の作品の解説や、山口雅也が書く京極夏彦の作品の解説や、宮部みゆきが書く高野秀行の作品の解説を読むことができるなんて!
単行本が文庫化されるまでの数年は確かに考えようによっては長いが、値段が数分の1に落ちた上にこんな豪華なおまけがついているのだから相殺か。

でもやっぱり「どうしても単行本が欲しい!」という本はハードカヴァーを買うんだけどね…。


♪ Spirit - R. Kelly


2006年6月11日(日)

ケニアで、そして神戸で

昨日、担当している生番組の放送を終え諸々の業務を終えた後の夕刻、急いで向かった先は神戸にある「ユニセフ兵庫支部」。
3年半前にケニアに新婚旅行に行った際、現地でお世話になったナチュラリストの加藤直邦さんがアフリカの自然と動物に関する講演会を行うという情報を数日前にキャッチしたので、これはぜひとも駆けつけなければと思い至った次第。

加藤直邦さん講演会場入り口

残念ながら講演本編には間に合うことができなかったが、終えた後の加藤さんを捕まえてしばしお話をすることができた。

現在34歳の加藤さんはケニア、マサイマラのロッジでナチュラリストとして1999年~2004年まで働き、その後中南米を約1年かけて回られ、今は日本に戻ってきてしばし腰を落ち着けておられるそう。
余談ながら今年3月に放送されたテレビ東京「TVチャンピオン」の“野生動物発見王”で、見事優勝されてもいる。

2003年に遠く離れたアフリカの大地の一点でお会いしてお世話になった人に、今日本の神戸に在る古い建物の小さな会議室で再び見えているという奇跡的な状況に一人高揚した。

自然や動物などといった、自分の好きなことばかりにまつわる仕事をして、一見自由気ままに一度きりの人生を謳歌しているように我々一般社会人には感じられる加藤さんのような人は、しばしば「羨ましい」と他人から思われがちだし、また実際にその言葉を掛けられることもあろうが、本当は彼のような人たちに対して「羨ましい」という言葉を用いることはひょっとしたらおこがましいことなのではないだろうか、と僕は少なからず思う。

「羨ましい」という言葉は“恵まれている”人を表現する時に本来使われるべき。
しかし加藤さんの場合、もしかしたら運に恵まれていたような部分も少しはあったのかもしれないが、本質的に今の彼が生きる環境を作り出したのは、彼の努力であり決断であり行動であったことは間違いない。
僕たちのような歯車的サラリーマン人種はたとえば加藤さんのような類の生き方を選択している人を目の当たりにすると、「いいなあ、自由で」とか「好きなことやって生きていけるなんて羨ましい」とかついついこぼしがちだけど、それは実は“やりたいことをできるのにしない、する勇気がない”小市民の愚痴にしか過ぎない。

誰だって“好きなことをやって生きていく”人生を選択するとこはできる。
だけど“できる”と“する”の間には、大きくて深いクレヴァスが横たわっているだけで。

経済的な不安、家族のこと、異なる環境に飛び込む勇気、オンリーワンの道を歩む行動力。

いろいろな要素が手枷足枷となって“好きなことをやって生きていく世界”に一生を賭けて踏み込むことができないだけに過ぎない。
だからそうしたとても深く、そしてとても高い数々の障壁をクリアして自分の本当に好きな道を歩いている加藤さんのような人は決して「羨ましい」のではなく、「すごい」っていうことなんじゃないだろうか、一言で言うと。
誰もが論理的には“できる”んだけど、実際にはほとんどの人が“できない”ことをするすごさ。

とにかく昨日再び加藤直邦さんに会うことができて僕にとってはとてもよかった。

夜、「イングランドvsパラグアイ」の後半をそっちのけで、宮沢和史の新バンド、Ganga Zumbaの初ワンマンライヴをNHK BS2で放送していたので一心不乱に視聴した。
まったくカテゴリーは異なるが、宮沢和史もまた加藤さんと同様に、自分の好きなことを追求する人生を地に足つけて歩んでいる“すごい”人間である、なんて無理矢理つなげてみる。

宮沢の他に、女性ヴォーカル、ギターの高野寛、ベース、ドラム、パーカッション×2、トランペット、キーボード、ヴァイオリンの10人で編成されるこの新ユニット、さすがに宮沢和史が呼び集めた面子だけあって皆いろいろな面においてとてもレヴェルが高いが、あえて技術的なところだけでいうと宮沢さんの歌唱だけが少し遅れをとっているのは確かかも…!
もちろん彼のアーティストとしての全人格はそれを補って余りあるものなので、形として結実しているものは最高に素晴らしいんだけど。

宮沢和史さんは間違いなく僕がこの世で最も好きなミュージシャンです、念のため。

世界的に見ればFIFA ワールドカップはもうグラグラと煮えて沸き立っているわけだが、NBAではひっそりと(?)ファイナルも始まっている。
まずはジェイソン・テリーの爆発でマヴス先勝か。
アトランタ時代に現所属チーム、ダラス相手に46点取った試合を少し思い出したよ。


♪ Habatake! - Ganga Zumba


2006年6月 9日(金)

夏が近付くと甦る

つい先頃も人に「よくそんなに体動かす時間ありますね」と少なからず驚かれたわけだが、僕はこう見えても相対的に言って他人よりも相当健康に気を遣っており、近年は食事も腹八分目、栄養バランスも常に意識し野菜多目の肉少な目を強く心がけ、業務終了後あるいは休日は草バスケットボールや草野球に汗を流し、その他筋トレやジョギングやスイミングなど、気が向き時間が空けば極力エクササイズをするようにしている。
その衝動はまさに強迫観念と呼んでも何ら差し支えない域内。
そしてこの僕の「運動しなきゃ、体鍛えなきゃ、健康を保たなきゃ」という強迫観念の礎には、明確なきっかけとなったある事象がある。

会社に入って数年が経過し、10代後半から20歳過ぎあたりまで維持していたはずの体力の衰えをそこかしこでようやく自覚し始めた頃。

あれ、おかしいな。
足がついてこないぞ。
ジャンプしても届かないぞ。
俺ってこんなに疲れやすかったっけ?

そんな時分に、当時担当していた番組内の企画において、富士山に登って何やかやをしようというロケを敢行することになった、自らの発案で。
季節はちょうどお盆の頃、最も登りやすい時候で、登山客の数も1年のうちで最も多い。

何の根拠もなく漠然と、富士登山なんてものはハイキングの延長みたいなもんでしょと、山登りを愛好する人たちからすれば極刑にも値するような大きな勘違いを以って臨んだロケ本番。
大方の想像通り、その甘過ぎた誤解は嫌というほどに正され、何じゃこりゃあなんて悪態も最早音声を伴って口から飛び出すことは金輪際ないんじゃないかと思えるほどに困憊した。

夏の盛りだというのに5合目から少し上がるとすでに半袖ではいられず、8合目に差し掛かる頃にはもう気温は摂氏10℃を下回っていたはず。
当然山の上だから天候もクルクル変わる。
高度が上がり酸素が薄くなるにつれ、都会で生まれ育った貧弱な体は疲労を溜め脳の働きは鈍る。

それでもどうにかこうにか、同行者に多大な迷惑を掛けることもおそらくなく登頂には成功、御来光も拝むことができ、撮影自体も一応問題なく終えて下りてくることはできたが、とにかくかなり肉体的に辛い経験であったことは事実である。

そんな辛かった富士登山の道中に強く心に刻まれたある想いがある。

先にも書いたが、時節は夏休みの真っ只中、同じように富士山頂を目指す登山客も周囲にたくさんいた。
そんな多くの巡礼者たちの中には、50歳代あるいはひょっとしたら60歳を超えているかと推測される初老の男女もたんまりとは言えないながらも相当数混じっていたのである。
ヒイヒイゼエハア喘ぎながら僕はそんな自分の倍以上は生きてきたであろう人たちが元気に山頂を目指して歩いている姿を見て、「果たして俺があの人たちの年齢に達した時、同じようにこうして富士山に登ることができるだろうか?」と反射的に自問してしまった。
「否」という回答はすぐさま導き出された。
自分が50歳になった時、再び富士山に登ることはきっと不可能だ。
富士山から大阪に帰ってきた僕をずっと捕らえていたのは、そんな暗澹たる絶対的予感。

無駄に説明が長くなってしまったが、今僕がエクササイズを続けている、食事に気を遣っている、病的なまでに体を動かそうとしているすべての衝動の根底にあるのは、「50歳になっても、60歳になっても、富士山頂に自分の足で歩いて登ることができる体力を保っていたい、いや、保っていなければいけない」という直截的な強迫観念なのである、要するに。
三浦洋一郎のように、とまではもちろん言わないが、このまま都市型利便生活満喫享楽的毎日を送っていれば俺はきっと還暦を迎える前に車椅子のお世話だぞ、と当時存分に恐れ戦いたのである。

以来毎年夏が近付くと、「俺は今年富士山に登ることができるか?」と自分の肉体に問うばかり。
まだ大丈夫。
まだ大丈夫だ。
来年はどうだ?
再来年もいけるか?

日本一の霊峰は、こんなところでもちっぽけな人間1人に意外な霊力を及ぼしている。


♪ 野垂れ死に - 人間椅子


2006年5月30日(火)

頭が痛くなる子供向けマンガに戦慄

遅ればせながら会社の後輩に「デスノート」というマンガを借りて読んでいたら、気が付けばAM5:30になっていた昨晩から今朝にかけて。

「ドラえもん」級なら単行本1冊10分ほどで読めるし、「ドラゴンボール」級なら20分ぐらいだと思うんだけど、「デスノート」というやつはコミックス1冊読むのに1時間近く掛かる!
紛れもなく「ゴルゴ13」級だ。
面白いけど、マンガ読んでて頭痛くなったっていうことにビックリした。

このマンガは「週刊少年ジャンプ」に載っていたんだが、ジャンプといえば小中学生あたりをメインターゲットに据えたマンガ雑誌。
近頃の小中学生はこんなに難しいマンガを読んでいるのだろうか?
これを読んで理解ができているのか?
恐ろしい。


♪ For Those About To Rock (We Salute You) - AC/DC


2006年5月12日(金)

「用心棒日月抄」を読んでいたら

最近また今時分までついつい起きてしまうという愚行を繰り返しがちなまずい日々。
一通りの所業を終えた後は大体本を数時間読んでいてこんな刻限になってしまうんだけど、やっぱり剣豪ものの時代小説って面白いなあ、と再確認。
時代小説というと一般的に現代小説よりもその根底に流れる価値観や独特の通念といったものを理解することが小難しく感じられることが多いが、それを差っ引いても剣士ものの展開の素直さと分かりやすさはすこぶる爽快である(剣士ものでなくともたとえば宮部みゆきのような“時代小説の形をとったエンターテインメント小説”は例外だけど)。
池波正太郎ももちろん極上だし柴田錬三郎もいいけれど、藤澤周平も相当単純明快でただただ楽しい。
それで思い出したけど、以前テレビ化された「用心棒日月抄」の主人公、青江又八郎を小林稔侍が演じていたのは一体どんな了見だったのだろう?
無論池波の「剣客商売」の秋山小兵衛、大治郎父子が藤田まことと渡部篤郎だったことも私見ながら一向に解せぬ。


♪ 書きかけの歌 - 宮沢和史


2006年5月 6日(土)

自分に重圧

かつてアフリカ大陸に旅をした際、彼の地の人々の価値観やライフスタイルに触れ、またそれまでの生涯では決して目にしたことのない無辺際の大地を眺めているうちに、「日本で慌ただしく暮らしている我々は日頃なんと小さくつまらぬことを気にして腹を立てているのだろう、この人たちのように鷹揚に構えて生きた方がいくらも幸せなのではないか」と強く思い至ったという経験があるわけだが、いざこのせせこましく狡猾な利害関係と権謀術数の渦巻く日本社会で一社会人として闘いながら生きていくとなると、やはりどうしたって日頃小さくつまらぬことを気にして腹を立てることなく暮らしてゆくことは甚だ困難である。
そうして今日もつまらないことだけれど業務上は意味のある事柄に腹を立てて小さな器から水が溢れたとするならば、たとえそれが筋道的に真っ当であるという確信は持っていても、ある種の後悔や自己嫌悪に似た複雑な感情を抱えることは否定できない。

どこをどうとってどう考えてみても、今回に限っては理屈の上では自分の主張したことは間違いではないはず、客観的な第三者も自分の言い分を支持しているということは信じられていたとしても、その正論を正義の盾あるいは剣と振りかざして他者を攻め立てるということは案外に難しい。
特にその対象が社会的関係上において俗に先輩や上司と呼ばれる立場の人間だとすればなおさら。
もちろん社会人として最低限の理性と気遣いは動員するけれど、正論を振りかざす側としても一時の感情にある程度人格を支配されてしまっているという点は否めないし、アメリカ合衆国張りに“正義の鎧を身にまとっている”という傲慢な自己陶酔が多少なりとも作用するから、たいていは「言うべきことの2倍ぐらい言葉が口をついてしまった」とまさに後の祭りとなって真摯に反省してしまうほど自己主張を果たしてしまうことになる。
そして、正論という盾と剣を振りかざすことがなぜ難しいのかといえばその最大の理由は、他者を理論で批判し屈服させるという行為には、翻って自らには常に理論的に正しいスタンスを取り続けることを強いるという大きな意義が含まれているからである。
人の理屈の上での誤りを糾す以上、自分が理屈の道を踏み外すことは恥ずべき事態につながる。

「雄弁は銀、沈黙は金」という慣用句もあるように、不言実行ももちろん賞賛に値するが、有言実行はそれに遥かに優るスーパープレイである、と僕が思う所以。

そんな込み入ったドロドロした感情をいつも抱えつつ、21世紀の日本社会に棲む我々は決してアフリカ大陸の人々のように振る舞うことはできぬまま、毎日を生きている。
本当に欲しいものは、大洋のように、大地のように、いかなるものにも惑わされることのない心、かもしれない。


♪ If I Could Turn Back The Hands Of Time - R.Kelly


2006年4月27日(木)

無間地獄

人間というものは誰だって一言や二言でその個性を表すことができるものではないし、1日や2日付き合ったところでその細かな内面などとても掴みきれるものではない。
四六時中顔をつき合わせて、飽きるほど会話をして、いろいろな共同活動をして、様々なイヴェントを経験して、ことごとく価値観に触れて、初めて相互理解することができるか、もしくはそれでもできない。
ということは頭では分かっているつもりなのに、それでもごく限られたコミュニケーションによって相手に自分の人格が誤解されたと感じたり、限られた側面で判断されたと感じた時には相応のストレスがかかってしまうというのは、どこまでいっても自らの未熟さゆえ。

そう考えてみると、生涯において自分の人間性のすべてを理解してくれ、逆に自分がその人間性のすべてを理解することができる人というのは、家族以外には存在しえないのではないだろうか。
それも決して親兄弟ではなく、他人を経て家族になる配偶者のみ。

配偶者以外でも家族であれば、物理的なコミュニケーションの障害はクリアしうるかしれないが、「相手のことを知ろう、理解しよう」という相互理解を目指す志というものはやはり生まれながらの家族と配偶者との間には大きな隔たりがあるように思う。
恋愛や結婚という、形があるようでない不確かな理念は、そのような“相互理解に対する積極性”という要素においても一役買っているようだ。

もちろん言及するまでもなく、配偶者であっても“完全に近い形で相互理解が可能な存在でありうる”というだけで、皆が皆それをすることができるなどということはない。
所詮我々が持っているスタート地点としては、筆舌を尽くしに尽くしきったとしても他人に自分の思惑や人間性が伝わることなんてありえない、もし伝わったとしてもそれは限りなく奇跡に近いのだ、という認識でさえあれば、それが健全なスタンスである。
と、ここで話はまた冒頭に立ち返るのだ…。


♪ Peace Of Mind - Michael Monroe


2006年4月14日(金)

FIBA バスケットボール世界選手権決勝戦

今年は記念すべき第1回のWBCが開催され、6月にはサッカーのワールドカップも待っているが、もう1つ、バスケットボール好きには垂涎の超ド級ビッグスポーツイヴェント、世界選手権が夏に行われる。
しかも会場は日本!

これはもう何が何でも観に行くしか道はないということで、9月3日(日)にさいたまスーパーアリーナで行われる決勝戦のチケットを入手することに成功した(この日に行われるもう1試合、7-8位決定戦も観戦することができる)。
もちろんお目当てはUSA代表、NBAのトッププレイヤーたちから選抜されたいわゆるドリームチームの末裔である。
ところが冷静に考えてみると、果たしてアメリカ代表が決勝に駒を進めている可能性はそれほど絶対的なのだろうか? という素朴な疑問がふつふつと沸き起こってきた。
というよりも、ひょっとしたら決勝に来る前に敗退している確率の方が高かったりしない…?

近年の国際大会における男子バスケットボールアメリカ代表の成績を振り返ってみると、2004年のアテネ五輪が銅メダル、2002年の世界選手権ではメダルにすら遠く及ばない6位だった。
もちろん両大会ともNBAプレイヤーたちから成る代表メンバーが出場して。
WBCではないけれども、1992年のバルセロナの時は相手チームから記念写真を求められるほどに(それも試合後ではなく戦う前に!)神格化され絶対的な強さをまとっていたNBAスターたちで構成された、バスケットボールの祖国を代表するチームUSAは、今や勝利を約束された存在でも、ましてや欧州や南米の国々に胸を貸す立場ですらない。
そして今回の代表候補の顔ぶれを見て、不安はさらに募った。
大丈夫か、このメンバーで?

コービ・ブライアントレブロン・ジェイムズ、ドウェイン・ウェイドといったビッグネームたちも名を連ねてはいるけれど、やっぱり誰がどう見てもビッグマンが絶対的に足りない。
というかいない。
純粋なセンターなんか誰一人いないじゃないか。
1人1人の能力は高いとはいえ所詮寄せ集め、合宿期間も短い付け焼刃のUSA代表が、個々のサイズも大きく高度に組織化されたヨーロッパや南米の強豪ナショナルチームの強固なゾーンディフェンスの前に脆くも敗れ去っていったアテネ五輪や2002年の世界選手権の時の光景がまざまざと甦るではないか…。
「身長はコーチすることができない」という有名な言葉があるように、長身が絶対的なアドヴァンテージと成りうるバスケットボールという競技において、地味だけど確実に計算できるセンター中心のポストプレイやビッグマンを起点としたセットオフェンスを持たない代わりに、個人のスキルに頼るストリート・テイストなオフェンスや3ポイントなどの水もの飛び道具を当てにしたゲームの進め方をもし採るのだとしたら、それはあまりに危険である。

何よりも寂しいのが、シャキール・オニールを始め、ティム・ダンカン、ケヴィン・ガーネット、ジャーメイン・オニール、ベン・ウォレスといった、支配的なビッグマンの役割を果たしうるアメリカ人プレイヤーたちが次々と世界選手権不出場の意思を明らかにしていること(ビッグマン以外にも、レイ・アレンジェイソン・キッドヴィンス・カータートレイシー・マグレィディといった面々が辞退を表明)。
だからこそあれだけインサイドが弱い布陣になってしまったんだけど…。
全員スコアラーや派手なスターたちで固める必要なんか全然ないけれど、確実に働いてくれるビッグマンは絶対に要るのに。
余談ながら「出たい」と言っているのに選から漏れたアレン・アイヴァーソンを外したのはどこの大馬鹿者だ?

嗚呼! こんなことなら札幌の予選の時にアメリカvs中国を観に行っていればよかった(でもヤオ・ミンの怪我は不安材料だな)! なんて後悔に僕が襲われないように頑張ってもらうしかない。
まあ仮に今回USAが観られなくても決勝なんだから世界最高峰レヴェルのバスケットボールを観ることはできるので充分有意義ではあるけれど。
それよりも、決勝の前に行われる7-8位決定戦の方にアメリカが出ていたらある意味もっと面白いな…。


♪ やつらの足音のバラード - ちのはじめ


2006年4月12日(水)

バスケの練習を終えて帰ってきたらNHKのプロデューサーが着服していたというニュースをやっていた

昨晩も昨晩とてバスケの練習を2時間しっかりと。
今回は部活なんかを思い出してレイアップやジャンプシュートのドリルもやってみたりしてみた。
3vs3の10分のミニゲームも都合4試合行い、相当汗をかいた。
先月あたりはまだ長袖長ズボンのジャージでプレイしていたけど、もうTシャツ短パンでも熱中症になりそうなぐらい熱くなる。
終わった後のアミノバイタルとバンテリンも欠かせない。
個人的には昨日はなかなか調子がよかった。

話は変わって、あまり同業他社のことをあれこれ言うのも若干気が引けるところではあるんだが、またも不祥事が発覚したNHKはとてもじゃないけど法的督促なんかする時合じゃないような気がする。
ごくごく限られたマイノリティの不良職員のせいで大多数のまともな人たちが割りを喰うのは気の毒ではあるけれど、やはり体制と体質とシステムに問題があるんじゃないかと責められても仕方がないこともまた確か。
このタイミングで督促状なんか送り始めたらさらにアンチNHKの機運が高まるんじゃないかな?


♪ Miss You - Rolling Stones


2006年3月19日(日)

WBC→桜肉しゃぶしゃぶ→北斗の拳→ケーキ→F1(予定)

今日は12時からテレビに張り付いてWBC準決勝、日本vs韓国を観戦。
前エントリーでは「韓国が優勝してもええよ」なんて主旨の発言を書いてみたけど、いざとなるとやっぱりそんなことは微塵も思わないもので、東京ドームに観に行った時に買ったJapanのバッティングジャージーなんか家で着ちゃって日の丸背負って応援だ。

立ち上がりから上原が完璧なピッチングをして頼もしいが、韓国の先発投手もものすごくいい球を投げている。
こりゃやっぱり投手戦だ。

またも韓国ライトのファインプレイに阻まれた小笠原の大飛球に、川崎のライト線ツーベース、それにレフトフェンス際で捕られた多村の打球、いずれも並の球場だったらホームランだったんじゃないだろうか?
デカい、ペトコパーク。
この辺で実はまたなんか嫌な気もしたんだけど、結果的には杞憂。

でも結果的に大勝したからよかったものの、7回表、先頭の松中がツーベースで出た後、ランナーも代えずに多村にまたもバントを命じた王采配は絶対におかしかった、と思うのは僕だけだろうか?
これまでさんざんバントを失敗している多村、しかも球界でも1、2を争う鈍足の松中がランナーなだけに、よっぽどいいバントをしないとサードでタッチアウトの可能性も高い。
ただでさえバントが下手なのに、相当なプレッシャーだったろう。
バントならランナーとバッターの両方かせめて一方を代えてほしかったし、代えないなら強行でいってほしかったなあ。
次の代打・福留が会心のホームランを放ったから本当によかったけど、あれは試合を左右しかねない重大な采配ミスだったと思うんだけど…。

でもあの回、韓国のリリーフに、実績があるとはいえここ2シーズンほどメジャーでの成績が振るわないキム・ビョンヒョンが出てきたから、お、いけるかも? と期待はできた。
精神面においても決して強靭とは言えないキム・ビョンヒョン、案の定福留に打たれてキレたのか、次の小笠原に死球を与えてそこから日本打線が爆発!

いやあ、よかった。
こりゃ明後日も仕事にならないかな…?


日本の勝利を見届けた後、妻と大阪の街へ出掛け、北新地の「馬春楼」という馬肉料理店でちょっと早めの夕食をとる。
馬刺しやしゃぶしゃぶがセットになったコース料理と、燻製とレバー刺しを食べた。
赤身の刺身の柔らかさに妻とともに感動。
これまでに食べた馬刺しの中で一番美味かった!
さすが。

それから梅田の三番街シネマで映画「真救世主伝説 北斗の拳 ラオウ伝 殉愛の章」を観る。
面白かったし概ね満足したけど、やっぱり知っていたことながら声優は…。
なぜオリジナル通りじゃいけなかったのかな?
最近のアニメ映画や洋画の吹き替え版でもこういった起用は目立つけど、名のある俳優を使えばいいというものではまったくないのに。
あれはラオウじゃないよ。
ケンシロウはそんなにおかしくなかった。
あと、予算とかいろんな制約もあったのかもしれないけど、110分という上映時間であのストーリーを描ききるのは少々無理があったようで、1つ1つのシーンにもうすこし時間を掛ければもっと分かりやすく深みのある作品になったのに、と思った。
詳しく書くとアレなので要注意だが、聖帝サウザーのあのエピソードをなかったことにしてしまわれたのは非常に残念だ。
それも含めて、今や3時間を超える映画も珍しくないのだからもうちょっと頑張ってほしかった、というのが個人的な想い。

映画を観た後、「NU chayamachi」に行ってみて、中に入っているお店「the earth cafe」でケーキを食べてお茶を飲んで帰る。
ショートケーキの生クリームがメチャメチャ美味く、緑茶ベースのSAKURAティーも香りよく美味かった。

さあまたこの後はF1だな。


♪ 雲の形が変わる前に - 宮沢和史


2006年3月18日(土)

ちょっと複雑な気分

WBC、日本が準決勝に進出できることになり、王監督や選手たちはもちろんうれしそうだったし、僕の周囲の人たちも概ねバンザーイと喜んでいたが、僕はいまいち手放しではやったあと言えない気分。
勝って掴み取った準決勝行きではなくて、転がり込んできたもの、という印象が強いことももちろんあるし、何よりも、仮に明日の準決勝で韓国に勝ち決勝進出を決めたとしても、何だか「韓国に勝った!」と胸を張って誇り切れないような気がするのだ…。
明日勝ったと仮定しても、今回のWBCでの対戦成績は日本の1勝2敗、韓国の勝ち越し。
それがリーグ戦とトーナメントとの違いなので、別に気にする必要はないのかもしれないけど…。
もし逆の立場だったとしたら、1次、2次ラウンドで日本が韓国に勝っていて、準決勝で負けたとしたら、「いやあ、韓国には完敗だよ!」とスッキリ負けを認めて送り出せないような気がするから、多くの韓国人もそのような気分になったりしないかな…?
もちろんその前に、これまでの2戦における、僅差ではあるけれども韓国の強さが際立った完全な日本の力負けを見る限り、次も勝てない可能性は十二分にあるし…。
このまま韓国に勝ち進んでもらっていっそ優勝してくれ、と言ったら非国民か?

それにしてもアメリカの不甲斐なさといったら。
“格下”のアジアやカナダ、メキシコのブロックに入り込み、2次ラウンドや準決勝でも中南米の強国たちとは当たらない特殊な組み合わせを勝手に決めて、“アメリカが決勝に進むため”のシステムを用意したにも関わらずこの体たらく。
決してアメリカという国が好きなわけではないが、野球というスポーツを愛するものとしてガックシってカンジ。
研究され尽くしていたのか相手のことを研究していなかったのか、ハナから列国を見下してなめてかかっていたのか。
NBAのスター軍団から選抜されたUSA代表、いわゆるドリームチームが屈辱の6位に沈んだ2002年の男子バスケットボール世界選手権が思い出された。

と言いつつ明日は日本vs韓国をバッチリテレビ観戦するために昼間の予定を外したんだけど。
ボブ・デヴィッドソンにも注目だな。


♪ Already Gone - Eagles


2006年3月13日(月)

放棄試合も辞さず! の覚悟で抗議に臨んでほしかった

3月も中旬だというのに大阪市内で吹雪いていたことにもビックリしたけど、何に憤ったかって、すでに憤懣百出のこととは思うけれど、改めて、WBC 日本vsアメリカのあのジャッジはいかんとも納得し難いではないか!
何度どう見たって捕球の後に西岡はスタートを切っている。

一部の訳知り顔した人たちは、「どっちにしろ9回裏にサヨナラヒット打たれてたんだから負けていた」という意見を持っているようだが、些細なワンプレイがその後の展開に大きな影響を及ぼすあのような行き詰る接戦にそういった見方は当てはまるまい。

あの間違ったジャッジ以外は本当に実力伯仲した好ゲームだっただけに、野球好きとして残念極まりない。
もちろん素直に負けたと思えないだけに、敗戦そのものはとても後味が悪い。

そもそもがWBCの審判はアメリカ人、それもギャランティーの面で折り合わなかったとかでメジャーリーグからではなくマイナーリーグから選出されたアンパイアたちが務める、という情報は開催前から届いてはいたが、それがどんなにおぞましいアクシデントを引き起こす要因なのかを、今日までついぞ知らなかった。
対戦国の一方の国籍を有し、さらにはとても世界トップクラスの技術を持つとは言えない主審が強大な権限を持ってゲームを裁くという事実がもたらす弊害を、よりによって日本が最悪な形で体験する羽目になってしまったではないか。

個人的にはシドニー五輪の柔道、篠原vsドゥイエ戦における誤審をはるかに超える激怒物件だ。


♪ 有害ロック - 聖飢魔Ⅱ


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2006年3月12日(日)

佐渡裕による「大澤壽人とその時代」

今日は兵庫県立芸術文化センターで行われた「大澤壽人とその時代」というコンサートに妻と行った。
指揮は芸術監督の佐渡裕、演奏は兵庫芸術文化センター管弦楽団。
曲目は組曲「路地よりの断章」(大澤壽人)、「パリのアメリカ人」(G.ガーシュウィン)、「ディヴェルティメント」(J.イベール)、ピアノ協奏曲第3番「神風」(大澤壽人)。
席はなんと前から1列目、もう1m先がステージというド迫力。

大澤壽人(1907~1953)という人は僕は今回初めて知ったんだけど、神戸の裕福な家庭に生まれ、ボストンやロンドン、パリに留学した後帰国、当時の西欧音楽界最先端の作風を採り入れた、交響曲を含む数々の作品を日本で披露するもあまりにも先を行き過ぎていたためか充分に評価されず、映画音楽やラジオの仕事、宝塚歌劇団た松竹歌劇団のレヴュー作曲家として、またシンフォニック・ジャズ作曲家として活躍していたとのこと。
半世紀を経た今、当時は理解されなかったモダン・クラシックなそれらの作品群が陽の目を浴びているらしい。

今日のコンサートはNHK神戸放送局の岡愛子という女子アナが司会を務め、指揮者の佐渡裕の各曲についての解説や大澤その人にまつわるエピソードトークなどが随所に挟まれるという進行だった。
こういった構成はただ演奏のみをひたすら続けられるよりも僕たちのような素人にとってははるかに分かりやすくて親切だ。
地域社会に一つの文化を定着させ根を張ろうと試みている兵庫県立芸術文化センターの心意気がとてもよく表れていた構成だったんじゃないだろうか。

確かに当時としてはともすればエキセントリックでアヴァンギャルドであっただろう大澤壽人の曲ももちろん聴いていて面白かったが、楽曲的に僕が今日の演目の中で一番好きだったのはジャック・イベールの「ディヴェルティメント」。
わずか16人のオーケストラで演奏される、とても軽妙で小気味良い作品だった。

さすがに最前列、佐渡裕の飛び散る汗も見えれば気合とともに漏れる呻き声も聞こえ、とても小さなヴォリュームで奏でられるヴァイオリン・ソロのフレーズもはっきりと追うことができるし、最後のピアノ協奏曲の時にはピアニストの超絶的な手元も非常によく見えた。

かなりの紙幅を費やさなければ正確な意図を説明することはできないと思うので一言だけ書いておくと、確かにオーケストラという音楽演奏は様々な表現の可能性を内包していることには違いないだろうが、それでも僕が思うのは、そこには厳然と限界というものが存在するし、そしてその限界は飛び抜けて高いものではない、ということ。
ヴァイオリンやヴィオラやチェロやコントラバスやピアノやホルンやトロンボーンやファゴットやオーボエやクラリネットやフルートやティンパニなどなどで表現しうることはとても多様ではあるけれど、ある意味では画一的で単元的である、という私見。


帰ってから水槽の水換えと掃除をした。
ちょっと風邪気味のようで、咳と頭痛に加え、花粉症が重なってもう大変だ。

もうすぐF1開幕戦の放送が始まるな。


♪ Love Like A Man - Ten Years After


2006年3月10日(金)

眠るまでに必要な時間

少なくとも僕の場合、家に帰ってから寝るまでの間、必ず一定時間を必要とする。

仮に普段AM3時に寝ていたとして、多くの場合は22時や23時や0時には帰っているので3~5時間ほどは家でいろいろなことをする時間を持つことができる。
ただたとえば帰宅が2時になってしまった時。
風呂入って歯磨いてコンタクトレンズ外して、という物理的な寝る準備なんてものは1時間あれば充分に終えることができるので、普段寝ている3時に床に就くことは可能である、理屈の上では。
だけど実際の現実においてはそんな具合に事は運ばない。

僕は活動的でフットワークが軽い方ではあるけれど、同時に家がとても好き。
家で自分の興味のある事柄にまつわる作業や思考や研鑽に没頭することを好む。
そもそもが自分の家なんていうものは自分が過ごしやすいようにいろいろとカスタマイズされているものだから、居心地が悪かろうはずがない。

さらに、非常に月並みな表現ではあるけれど、家の外で業務に就いているモードから、仮面と鎧を脱ぎ捨てた無防備なモードに戻る時間というものが絶対に一定以上の長さ必要なのだ、僕の場合は。
妻相手に戯言を放射してみたり、PCをいじってサイト制作などを進めたり、好きな音楽を聴いたり本や雑誌を読んだりオタッキーな思考や作業に耽溺したり。

だから、たとえ体が疲れを訴えていようが多少の吐き気を催そうがまぶたがどうしようもなく重たかろうが、そして眠るための即物的準備が整っていようが、僕の剥き出しの精神が欲する各種活動を行ってその欲求を充足させなければ、それまで決して眠りに就くことはないのだ。


♪ Talk To The Hand - Hanoi Rocks


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2006年3月 4日(土)

明日は東京ドームへ!

WBC、日本vs台湾をテレビ観戦、一人で大いに盛り上がってしまった。
昨日今日と、後が怖くなるくらいの打線爆発ぶりでそれは結構なんだけど、イチローがちょっとおかしいなあ。
今オフあたりからのイチローって、マスコミに対する応対や取材の時に語る言葉、話し口などがとても柔らかく、ソフトな当たりに変貌したという印象がものすごく強いんだけど、何だかそれとともに神がかり的な打撃まで凡庸に変異…、なんてことにならなければいいんだが、そんな予感がしないでもない。
天才にはやはり孤高、偏屈、傲慢、不遜なんて言葉がふさわしいのかもしれない…。

明日の日本vs韓国は現地へ飛び(大げさだな)、東京ドームで観戦してくるで!
アジアラウンドの1次リーグごときで黒星をつけるわけにはいかないのでぜひとも3戦全勝してほしいというのは正直な願いではあったんだけど、明日の試合はすでに2次リーグ進出を決めているので日本にとってはいろんな意味で余裕を持って臨むことができるだろうから、考えようによっては今日台湾に負けてしまっといて、ヒリヒリピリピリした韓国戦の方が実は観衆としては楽しめたんじゃないかという見方も…?


♪ Fightin' The War - Warrior Soul


2006年3月 2日(木)

チャイニーズ・タイペイか台湾か

関西地方は昨日も雨。
雨の日はついつい車で会社に行ってしまいがちで昨日も例に漏れず乗って行ってたんだけど、やっぱりアルファのエンジンは気持ちいいなあ、とまたも再認識。
あまりにも気持ちいい音が抜けてくるので、こりゃ結構回してるかな、とタコメーターを見ても全然そんなことない。
体感として並のエンジンの回転数+1000回転分ぐらいの甲高い、それでいて騒音でもメカニカルノイズでもない、ちゃんと演出されたエキゾーストノートが…!

晩は会社でWBC前哨戦のラスト、日本代表vs巨人の中継をチラチラ観てたんだけど、審判団はアメリカンルールを相当意識しているのか、こりゃアウトコースに外れただろ、って球でもかなりの程度までストライクと判定していたな。
ボールも飛びにくいみたいだし、データの少ない初顔合わせの短期決戦にありがちな、1点を争う投手戦(拙攻戦?)が増えるような気がしている。
そうなるとスモール・ベースボールを標榜している日本にとっては有利に働くかな?

一つ気になったんだけど、いわゆる台湾のことを数日前のテレビ朝日の中継では“チャイニーズ・タイペイ”と表記し呼んでいたから、あれっ、今回はそういう取り決めなのかな、と思っていたら、昨日の日本テレビの中継では“台湾”と呼称していたな。
単なる政治的スタンスの違いから生じた差異のようだけど、こんなところにまで表れていてある意味面白い。
でも確認した限りasahi.comでは“台湾”となっていた。
足並みが揃ってないな…。

あとは蛇足ながらさすが日テレの中継、日本代表よりも対戦相手の巨人についてのコメントの方が多かったんじゃないか?
これまた面白い。


最近バスケットボールシューズを新調した。
アシックスの「GELHOOP-DUO」というモデル。

新しいバスケットボールシューズ

アレン・アイヴァーソンケヴィン・ガーネットヴィンス・カーターに心酔した者として、リーボックやAND1なども履いていたけれど、タウン履きならともかくプレイするとなるとやっぱり米国産ブランドのシューズはどうにも足に馴染まないものが多い。
その点、日本代表も履いている国産の雄 アシックスは実に万全だ。
試着の瞬間から実にピッタリシックリ、「おかえり」と優しく迎えられているかのようじゃないか。
動く時のシューズはアシックスに限る!


♪ High Enough - Damn Yankees


2006年2月18日(土)

「牢屋でやせるダイエット」、看板に偽りはありだが面白かった

最近、中島らもの「牢屋でやせるダイエット」を読んだんだが、この本に限らずジェフリー・アーチャーの「獄中記」といい、見沢知廉の「囚人狂時代」といい、沢井鯨の「プリズナー・イン・プノンペン」といい、どうして獄中体験記というものはかくも面白いのだろうか。
さらに言うなれば、「日本の公安警察」「刑務官」「警官は実弾を込め、撃鉄を起こした」 「死刑囚 最後の晩餐」などといった書籍たちにも、似た種の興味を強く惹かれてしまう。

こういったカテゴリーの本たちは、たとえ少々文章がまずかろうが翻訳者のセンスが欠けていようが構成が下手クソだろうがオチも山場もなかろうが、そんなことなどまったく気にならずに読み進むことができてしまう。
そこには我々凡百の一般大衆がおいそれとは体験し得ない(また体験したくはない)、それでいてその実態を覗いてみたくて仕方がないといった類の、とかく隠匿されがちな真実や事実がたくさん詰まっているからに他ならないんだろう。
拘置所や刑務所での具体的な生活の描写、国家権力に身も心も拘禁されることに対する素直な思い、とかく黒いドラマが尾鰭をつけて一人歩きしがちな警察組織や公安組織などに身を置いていた人物の吐露などなど、理屈抜きで圧倒的なカリスマ性を備えた魅惑的なテーマの数々が、作り事ではない厳然たるリアリティをもって綴られているからに違いない。

でもたぶんこういった題材に本能的に喰いついてしまうのって、ほとんどが男なんだろうなあ。
女の人の大部分はあまりこんな世界には興味を覚えないような気がする。
実際にここのところ巷間を賑わしているライブドアに関する事件やそれにまつわる政治家のスキャンダル疑惑、マンション耐震偽装問題なんかにしたって、その裏に潜む黒幕とは、とか、誰々は自殺じゃなくて他殺なのだ、とか、ああいった事件が起きてしまう背景にはね、とかいった分析の真似事や、それがエスカレートした妄想じみているとさえ言える物語の想像(創造)を行っているのは決まって男性ばかりだし。
どうも何かにつけて政治的経済的社会的に意味を持たせて大事に仕立て上げたいっていうのは、男の脳ミソ構造特有の性癖のようだ。
一方、女の脳は一般的に言ってワイドショーに代表されるようなゴシップの域を出ない具体的かつ事細かな想像を巡らすことを好む、というのは言を俟たないことについては異論はないのではないだろうか。

これだから奥さま向けの番組作りは難しい、と強引に仕事につなげてみた。


♪ NYC Girl - Warrior Soul


2006年1月22日(日)

土曜の晩のテレビ番組

昨晩、19:00から放送していた「極寒の死闘! マグロに賭けた男たち4!!」(テレビ朝日)という番組を観たんだけど、期待に違わず大変面白かった、引き込まれた。

青森県は下北半島の北端に位置する大間という海でマグロの一本釣りをする漁師たちの、それぞれのバックボーンを濃厚に絡めたライト・ドキュメンタリー。
ドキュメンタリーとしてはライト気味だけども、登場している各漁師たちが生きるストーリーはまったくライトなどという語感はそぐわないシリアスなもの。

ここぞという数ヶ所の盛り上げどころでは、サブちゃんの演歌が決しておふざけなどではなく大真面目にバッチリONで1コーラス流されていたが、その微妙かつ大胆な滑稽さすらも番組の完成のためには欠かすことのできないエッセンスだったのだ、ということが観ているうちに如実に理解されるほどの、海に生きる男たちのどうしようもない悲哀とつかの間の勝利に満ちたストーリー。
誇張じゃなく涙をも誘っていたじゃないか。
内海賢二のナレーションもはまり過ぎている。

子供の頃の夢はプロレスラーか漁師になることだったと公言する僕だけど、尻尾を巻いて退散せざるをえない。
迂闊に安易に口滑らせて申し訳ありませんでした。
というぐらいに大変だ、漁師。

とにかく、漁師や釣りや魚に人一倍興味を持っている僕のようなタイプの人間に限らず(と固く信じているのだが)、観衆を感情移入させるという点においては随一だったと思われるこの番組。
4というからには1~3があったはずだが、今回が初めての視聴だったことが残念だ。


対して「ジャリバラ!」(フジテレビ)は、制作者の端くれとして反面教師としたい番組である。
ジョディ・フォスター…。


♪ 釣りに行こう - The Boom


2006年1月20日(金)

福岡レッドファルコンズ解散

前々回のエントリーに記した福岡レッドファルコンズの問題だけど、なんとまあタイムリーなことに昨日になってJBLスーパーリーグ脱退とチームの解散が公式に発表された。
それもシーズン途中でという極めてショッキングなケース。
残念至極と言う他ない。

このたびの騒動とその結末を告げる報道に際して、僕が件のエントリーで述べた見解は少々修正されることとなった。

おそらく僕がこれまで漠然と思っていたよりも、JBLという鈍獣組織が抱えている病巣は深く、具体的に言うとこのたびの福岡レッドファルコンズ大炎上の責任はずっと大きい。

僕が前々回のエントリーで挙げた、福岡レッドファルコンズがJBLに宛てて送った質問書(pdfファイル)の中で「加盟金を支払った痕跡がありません」とか、「刑事告発も視野に入れて云々」とか、さらにはズバリと「弊社としても当事者としての責任を全うする所存です」とかいったくだりには、ただ単に福岡レッドファルコンズ経営陣の内部で不正があったとか運営が杜撰だったとかいう表層的な意味ではなくて(もちろんそういった現実はあっただろうが)、「うちはJBLに対して加盟金を払っていないはずですよ。そんなチームをちゃんとした審査も経ずに無理矢理スーパーリーグに入れたんです、リーグ内のチームの数合わせなどという目的のために、JBL主導で強引に、あるいは犯罪的に。うちは責任を取ります、だからJBLも相応の責任は取っていただけますよね」という、おそらくは船田社長代行の精一杯の抗議が込められていたんだな、と、血の巡りの悪い僕はやっと思い至った。

そもそもが収益分配やプロモーション、スポンサードなんかの様々な制度があくまでもアマチュアチームを想定して定められている現在のJBLにおいて、福岡レッドファルコンズのようなプロチームを1つだけ参加させること自体が今にして思えば、相当の暴挙でありまた愚行だったのだろう。
ハードウェアの整備が手付かずのところに、旧制度にはそぐわないテストケースのソフトウェアを組み込んで失敗してしまった、といったところか。

繰り返しになるが、何よりもかわいそうなのがプロ契約していた選手たちやスタッフたちとその家族である。

ただ、こんな暗く悲しいニュースの中で僕が見出した光明が1つだけあるとすれば、それはバスケットボールを愛し、日本のバスケ界を憂い、その発展を願っている人がたくさんいるということが分かったこと。

主にインターネットを中心に、この件にまつわる多くの人の意見を拝読したが、Sリーグだとかbjリーグだとかに拘らずに、というかむしろその両方を応援し成功を望み、NBAのキャッチフレーズ“I Love This Game."じゃないけれど、バスケットボールそのものを愛している人ばかりだった。

ひょっとしたら今回の騒動をきっかけに、JBLとbjリーグの対立構図はさらに際立ってしまうことになるかもしれないけれど(福岡レッドファルコンズは近い将来にbjリーグ参画を目指すとのこと)、おそらく日本のすべてのバスケットボールファンの願いは、一刻も早くいがみ合いなどやめてハイレヴェルでエキサイティングな統一プロリーグを設立してクオリティの高いエンターテインメントを提供してくれること。
その対価として見合うならば、高価なチケットだって僕たちはまったく惜しまない。


♪ Bootylicious - Destiny's Child


2006年1月18日(水)

福岡レッドファルコンズの惨状に始まり

JBLスーパーリーグに今季から参入した新チーム、福岡レッドファルコンズが極度の経営難に陥り、社長は交代、選手の給料の遅配や未払いにまで至っている、というニュースが流れたのは昨年末。

僕がこの雑記でも2度ほど観戦記(2005年11月20日2006年1月8日)を書いた、今季発足した日本初のプロバスケットボールリーグであるbjリーグは確かにアメリカを習ってよくショーアップされているし、そのチャレンジング・スピリットを含めて応援する気持ちはもちろん強く持っているが、やはり日本のバスケットボール・シーンの最上位に位置するリーグはJBLに他ならない。
これは間違いない。
プレイヤーをとってみても、日本最高のポイントガード、佐古賢一を始め、北卓也、折茂武彦、古田悟、外山英明、高橋マイケル、節政貴弘、宮田諭、渡邉拓馬、五十嵐圭、青野文彦、伊藤俊亮などいった、本当に日本のトッププレイヤーと呼べる(呼べた)人たちは皆JBLにいるし(新潟アルビレックスと行動を共にした長谷川誠は例外)、中にはスコット・バレルといった、NBAでバリバリのスターターを張っていた外国人なんかもいたりする。
こういった書き方をしてしまうのは本当に失礼なことかもしれないが、高校や大学でオールジャパン・クラスと言われた選手たちはまず最初の選択肢としてJBLスーパーリーグ入りを目指し、それに届かなかったらbjリーグのトライアウトを受ける、といった流れがもっともポピュラーで多数を占めるであろうことは想像に難くない。
それは仕方のないことだと思う。

前にもチラッと書いたことがあるが、bjリーグとは、もともとJBLに所属していた新潟アルビレックスとさいたまブロンコス(現 埼玉ブロンコス)が速やかなるプロ化をぶち上げ、なかなか重い腰を上げようとしないJBLに業を煮やしてケンカ別れという形で飛び出して設立したリーグ。
よってJBLとbjリーグは未だに明白な対立関係にある。
JBLが各都道府県のバスケットボール連盟に対し、「bjリーグに一切の協力をしてはならない」なんて、脅しともとれる通達を出すという子供じみた嫌がらせをするぐらいに。
話がややこしいのは、JBLとbjリーグというこの2つの団体は立場的には決して対等、同質のものではないということ。
どういうことかというと、日本という国体を代表してバスケットボールを司る組織は日本バスケットボール協会(JABBA)=JBLであり、bjリーグは今までのところどこまでいっても単なる独立リーグでしかない。

つまり、いわゆる“日本代表”と呼ばれる、公式な国際試合に参加するチームの一員になるためには、bjリーグではなくJBLに所属していなければならないということになる。
日本バスケットボール協会(JABBA)が選出する五輪代表(ここしばらくは出場すらできていないが)や世界選手権代表メンバーは、bjリーグの選手から選ばれることは絶対的にありえないのだ。
これをもって、その伝統や歴史やプレイレヴェルもさることながら、有望な学生プレイヤーが第一にJBLスーパーリーグを目標に定めることはとても自然なことなのである。

前置きが長くなってしまったが、今まで企業が母体の実業団チームが中心だったJBLスーパーリーグに、完全プロチームとして今季から参入したのが、冒頭に記した福岡レッドファルコンズ。
これまでも個人単位ではチームとプロ契約をしている選手は何人かいたし、旧大和証券を母体としていた新潟アルビレックスも実質的にはプロチームと言えたが、基本的にはJBLの選手たちは大部分、会社員という身分で各企業に属しながらバスケットボール活動を行っていた。
だから、選手全員がプロ契約、まさにバスケットボール活動のために作られた福岡レッドファルコンズは、新潟アルビレックスの後釜ということもあって、ファンや関係者からとても注目されたし、僕も気になっていた。
余談ながら日本バスケットボール協会(JABBA)は2007-2008シーズンよりJBLスーパーリーグをプロリーグ化することを決定しており、今季福岡レッドファルコンズの参入を認めた裏には、来々季のプロ化へ向けた布石、あるいは試金石としたかったという一面もあったのではないか、と個人的には思う。
そのプロリーグ化がもう3年早まっていれば新潟アルビレックスとさいたまブロンクスも留まって丸く収まったはずなのに…、と今さら嘆いてみてもそれはもう仕方がない。

そんな注目のJBL初プロチーム、福岡レッドファルコンズが財政難に陥り、チームはシーズン終了を待たずに解散か、なんて憶測も飛び出すほどの惨状だというではないか。
いろいろと報道を吟味したりチーム発表の声明などを読むにつれ、その経営のあまりの杜撰ぶりに半ば呆れてしまう。
チームがリーグに対して提出したというこの質問書(pdfファイル)を見ると、「加盟金を支払った痕跡がありません」だの、「当時の状況を把握しているスタッフがいないためスーパーリーグ参入の経緯を確認する資料がございません」だの、「過去の経営内容に関する諸件について、刑事告発も視野に入れて云々」だのといった、およそ信じられないコメントが書き連ねられているではないか。
たかだか半年前の参入の経緯に関する資料が見当たらず誰にも確認できないなんて、正気の沙汰じゃない。
異常だ。

今回のゴタゴタに関して、JBLの監督不行き届きこそが最大の原因であり責であるとする意見も少なくないようだが、やっぱりどう考えたって一番悪いのはチームの運営者側だと僕は思う。
確かに今までの数々の問題を見ても分かるように、ある意味お役所的、旧態依然としたJBLの対応はえてしてスムーズだとは決して言えない。
このたびの質問書に対するJBLのリアクションもまた、「またかよ…」と思うほどどうしようもないものであったりする。
微に入り細を穿ってその責任を追及していけば、もちろん新参チームにまかせっきりで財政面も含めたチェックを怠っていたJBLにもその一端はあると言えるのかもしれないが、そうはいっても相手は子供じゃなくって歴としたプロスポーツ団体。
当然その経営、運営に関しては一切の責任を負って然るべし。
件の質問書を読む限り、経営にまつわる犯罪行為が内部で行われていた可能性もあるようだし、意地悪な言い方をすれば、今回の問題は詐欺的ですらある。
どちらにせよ、とてもまっとうな営利団体の所業ではない。

まあそもそもが設立そのものがあまりにも急ピッチ、穿った見方をすれば、JBLスーパーリーグを脱退してしまった新潟アルビレックスの穴埋め? とも思われた福岡レッドファルコンズだから、そういった迂遠な意味では犠牲者とも言えるのかもしれないし、この点にこそJBLの犯した最大の失策があるのかもしれないけれど…。
もしチームが誕生した時からこの悲劇的な結末が予見されていたのだとしたら、それはあまりにも悲しい。

応援していた人たちももちろんだけど、何よりも気の毒なのは選手たちに他ならない。
特に福岡レッドファルコンズには、僕が大学生の時に生でそのプレイを目の当たりにしてド肝を抜かれた川面剛選手が所属している。
当時流通科学大生だった川面選手は僕より2つほど年下だったはずだが、僕と同じ175cmの身長ながら練習の時に繰り出したダンク!
こんな選手こそがオールジャパンと言われるのだろう、と呆然と見とれていたのを覚えている。
彼は松下電器パナソニックスーパーカンガルーズで一旦現役を引退しながらも、故郷福岡に新チームが誕生したということで翻意、希望を持って入団した(はず)。
他にも、新潟アルビレックスがJBLスーパーリーグを脱退してbjリーグを設立するに当たって、アルビレックスを退団してJBLに残るという選択をし、その入団先に福岡レッドファルコンズを選んだ選手も何人かいたりする。
憂き目を見てしまったのは彼ら以外にない。

ここにきてJBLに見切りをつけたのか? 福岡レッドファルコンズの船田幸夫社長代行がbjリーグへ移籍したいという申し出を行い、bjリーグの会長を務めるインボイスの木村育生社長がそれを歓迎する旨のコメントをしたという報道もある。
ひょっとしたらこんなことがきっかけになってJBLとbjリーグの距離は縮まるかもしれないし、あるいはより溝が深まることになるのかもしれない。

またしても日本バスケットボール界に差す暗い影。
2007年に発足するJABBAのプロリーグとbjリーグが1つになり、日本のバスケットボールファンに高い質のゲームとプレイとエンターテインメントを提供してくれることを切に願う。
河内さん、お願いしますよ。


♪ Epic - Faith No More


2006年1月14日(土)

こうして共産革命は生まれたのだ(?)

うちの120cm水槽には、スポッテッド・ナイフフィッシュ(約35cm)、ポリプテルス・デルヘジ(約25cm)、ブラックアーマードプレコ(約15cm)、レッドフィン・ホーリー(約15cm)という4種の魚がそれぞれ1尾ずつ棲んでいる。
この中で一番大きなスポッテッド・ナイフフィッシュは、購入した昨年6月当時はおよそ10cmと本当にかわいいサイズだったんだが、順調に成長を重ねて今や牢名主ならぬ水槽主。
生き物の世界においては往々にして“大きい=強い”という図式が成り立つものだが、うちの水槽とて例外ではなく、この120cm水槽で最も大きなナイフフィッシュがすなわち最強、給餌の際も我がもの顔で、他魚を何ら気にすることなく満腹になるまで喰いまくっている。
何事にも無神経気味で図太いデルヘジはともかく、ホーリーやアーマードプレコなんかは大げさに言うとナイフフィッシュの影をいささか気にしつつコソコソと餌を食べている、といった風。
だから一番大きくて強いナイフフィッシュが、自ずとさらに大きく成長していく。
ここに実は人間社会にも通じる大いなる摂理が隠されているのだ、というのがこのたびの主張なのである。

つまり、デカい魚=強い魚ほど物怖じせず満腹になるまでバンバン餌を喰うことができるから、その結果ますますサイズが大きくなる、という水槽内を支配する循環の法則は、我々が暮らす人間社会において、お金持ちの人ほどますます肥え太り、さらなるお金持ちへと進化を遂げていく、という貧乏人のひがみにも似た真理と極めて近しいのである、ということだ。

この世界は環境にやさしいのでもましてや弱者にやさしいのでもなく、金持ちにこそやさしいのである、と蛮境で叫んでみても、虚しいなあ。


♪ ゲバラとエビータのためのタンゴ - 宮沢和史


2006年1月13日(金)

隔世の感?

昨日の出勤途上、iPod nanoから流れてきた音を聴いていてふと思ったんだけど、Ten Yaers AfterとLynyrd Skynyrdの音ってものすごく似通っていないか、再結成後は(Ten Years Afterに関しては正確には再々結成か)。

オリジナルは全然違うはずなのに、Ten Years Afterの2004年発表のアルバム「NOW」と、Lynyrd Skynyrdが1991年に発表したアルバム「LYNYRD SKYNYRD 1991」を聴いてみると、極論すれば「同じバンドだよ」なんて言われても「ああそう」なんて納得してしまいそうな危うささえはらんではいないか。
どちらもちょっと泥臭くてブルージー、でも現代的でキャッチーなフレーズを取り込むことも忘れないハードロックってカンジ。
何だこの歩み寄りは。

そもそもが両バンドともに、それぞれAlvin LeeとRonnie Van Zantという一番大事な核となる人物なしで再(々)結成してるわけだから、変わってしまうことは仕方がないんだけど。
かつてRitchie Blackmore抜きで再結成したDeep Purple、最近で言えばFreddy Mercury抜きで再結成したQueenと同じ暴挙。
サザンオールスターズがたとえば解散したとして、桑田圭祐抜きで再結成しますか。
生き死にに関わらず。
「NOW」を初めて聴いた時なんか、だまされた、こりゃ同名の無関係バンドじゃないか、と思ってライナーの隅から隅まで目を通したもんな。
Lynyrd Skynyrdの方が弟のJohnnyが歌ってるだけまだましか。

でも両方とも嫌いじゃないんだけど、最近の音も…。


♪ Baby Won't You Let Me Rock 'n Roll You - Ten Years After


2006年1月 6日(金)

すべてが信じられぬ時に思うこと

自分は異常なんじゃないかと思う瞬間がある。
逆に、自分以外の皆が異常なんじゃないかと思う瞬間がある。

我々凡人にとっては単なるストレスの原料としかならないような、そんな出来事や気持ちを取っ掛かりにして、奔放な着想を正しい方向に展開していけばきっと面白い物語が紡ぎ出せるのだろう。

非常に残念ながら今の僕には、そのような娯楽性に溢れた文章を産み綴る力も、その努力を在らしめる時間と心の余裕も、ましてや剥き出しの自我を白日の下に曝け出すための、文学者を気取った勇気など備えているはずがない。


♪ Good Golly Miss Molly - C.C.R.


2006年1月 5日(木)

戌年 犬与太話

果てさて今年2006年の干支(こう言ってしまうと厳密には十二支だけじゃなくて十干も記さないといけないのだけれど干は割愛)は戌ということだが、3日のエントリーに書いたように我が実家の老ポメラニアンは今や13歳(ぐらい)にならんとし、すでに目も見えず耳も聞こえず歯も揃っておらず口を閉じていてもベロが出ている。

日向で気持ち良さそうに眠る実家のポメラニアン、ニル

だが先ほど帰宅する時に乗ったタクシーの女性運転手が飼っていたヨークシャーテリアは19年も生きたという。
小型犬としては実に驚異的な長命ではないだろうか。


また、昨年末にも行ったなじみの床屋には柴犬の母仔が飼われているのだが、昨年のお産は帝王切開だったらしい。
その時聞いてふうんと思ったのが、帝王切開だと母犬の愛情が薄い、と床屋の奥さんが言っていたこと。
その母犬は数年前にも一度仔を産んでいるのだが、自然分娩だったその時と比べて違いは顕著だという。
たとえば前回の時は3頭孕んでいたうちの1頭は残念ながら死産であったが、母犬は産後しばらくの間、“産んだはずのもう1頭”を懸命に探し回っていたらしい。
ところが今回は、前回と同じく3頭産み、今度は3頭とも元気だったが母親犬の下に残されたのはそのうち1頭のみで、あとの2頭は生後すぐによそにもらわれていったんだけど、前と違ってその2頭のことなどすぐに忘れてしまったかのようにまったく気にもしていない様子だそうだ。
そもそも、今一緒にいる1頭の仔犬にも母乳を与えることすら初めのうちは嫌がったんだとか。
なるほどね…、と思った。


♪ Blessed - Elton John


2005年12月10日(土)

つい吐露

そこに主観や、いくらかなりのクリエイティヴィティというものが込められている場合、すべての人を満足させられるものなどは存在しない。
さらに拡大して言うなら、100人中100人がいいと思うものなんてない。
万一あったとしてもそんなものは作品でもなんでもない。

それなのに批判が止むことはないのが世の常人の常。


♪ Piano Man - Billy Joel


2005年12月 3日(土)

日本-ペルー関係…?

ご周知のように例の広島の事件の犯人としてペルー人の男が捕まったわけだが、これによって、ただでさえ先日のフジモリ元大統領拘束を巡って緊張状態にある日本-ペルー関係が、より悪化の一途を辿ることは必至の情勢になってきたと言えるのだろうか。
事件そのものはもちろん異常かつ卑劣で到底許されるはずはないという性格のものだし、さらには栃木で類似の事件が後を追うように発生してしまったという憤怒爆発の事態もあるが、僕個人にとっては「今後ペルーに渡航しにくくなるんじゃないだろうか」という危惧もまた由々しき問題ではある。
僕が近未来的に訪れたい地として、ペルーのインカ帝国跡はかなりのトップクラスに長い間位置しているから。
ナスカの地上絵も見たい。
もしペルーに行ったとしたら、南米に渡ったついで(というにはあまりにも重篤な事柄だが)に、エクアドルのガラパゴス諸島にもぜひ上陸したい。
魚好き&飼いとしては支流も含めたアマゾン&ラプラタ水系にも足を運ばぬのは忍びない。
イキトゥス、ベレン、マナウス(含ブラジル)。
それらの目的地がより遠くなってしまうようなご時勢にもし将来的になってしまったとしたら、それはとても悲しい。


♪ If I Could Turn Back The Hands Of Time - R.Kelly


2005年11月29日(火)

同い年の友人たち、それぞれの…

今日の昼間、仕事仲間のぐっさんと僕の会社内で茶を飲みながら話をした。
ぐっさんは制作会社に所属しているディレクターで、僕と同い年。
一緒に仕事をした機会は数えるほどしかないのだが、何だか趣味などの感性が同志っぽくて、僕にとっては大事な友人である。

そのぐっさんは今年いっぱいで会社を辞め、有志たちとともに来年4月、新会社を立ち上げることになったという。
わざわざそれを報告するために、時間を割いて僕の会社まで来てくれた。

30を超えて若手から中堅と呼ばれるポジションに辿り着き、それに伴っていろいろと変わっていく周囲の状況や様々なタイミングが符合して、思うことがあっての決断らしい。

常々僕は思っているのだが、たとえそれが大きなものではなかったとしても、今ある経済的社会的な後ろ盾を放棄して、自分のよりやりたいことを実現するために茨の道に突き進まんとする人のことをとても尊敬するし、また心から応援したい。
極端なことを言えば僕たちのような会社員はたとえ仕事をしなくたって(できなくたって)、刑事罰を受けるような犯罪さえ犯さなければ、一定の給金は支払われ、その身分を追われることはそうそうない。
「漁師になりたい」とか、「温泉のある町でのんびり暮らしたい」とか、「野菜を作って自給自足の生活を送りたい」とかいった夢や目標は一見、荒唐無稽で実現困難なものに思われるかもしれないが、実はそれは僕たちが自らの価値観を少し変容させ、安定した現金収入を始めとした“保証された都市生活的基盤”さえ捨て去る覚悟があれば、とても簡単なことだし誰にだって実行できる。
でも僕も含めて、ほとんどの人はそんな勇気を持ち合わせていない。
だからテレビなどでそんな憧れの生活を送っている人を観ると、「いいなあ時間がある人は」とか「好きなことやって生きていけててうらやましいなあ」とか我々は思いがちだけれど、そういった感想は少し誤っているのかもしれない。

頑張れよ、ぐっさん!
今後ともよろしく。


晩、これまた同い年の友人 Tがやっているラーメン店に喰いに行った。
以前の当欄で記したように、Tは今月いっぱい、つまり明日をもって店を他人に引き渡し、それ以後は前職の放送作家に復職することを決めている。
今日行っとかなきゃもう行けないな、と急ぎ行ったのであるが、こんなことならば以前からもっと足を運んでいればよかった。

ラーメン店主 T、最後の勇姿…?

「俺の太麺」という屋号が表している通り、これはうどんかと見紛うかのような太い麺に醤油ベースの肉気たっぷりなスープが絡みつき、実に美味かった、お世辞じゃなく。
そして店内も失礼ながら立地などから漠然とイメージしていたよりもずっと小ぎれいでゆったりとしており、居心地も悪くない。
一念発起して立ち上げた店であろうに、現実はシヴィアで、そして少し残念でもある。
でも以前のエントリーでも述べたように、Tは有能でヴァイタリティ溢れる男だから僕はそれほど心配はしていない。

頑張れよ、T!
今後ともよろしく。


♪ Slave To The Grind - Skid Row


2005年11月27日(日)

祝宴の狂夜

たった今、帰還。

昨日、仕事が終わった後妻と合流し、19:00伊丹空港発の小さなJAC機に乗って鹿児島へ行ってきた。
僕の大学時代からの友人、カマQ(略称 Q)と彼の妻、ナツ(別称 なっちゃん、なっち)の結婚式がその日に鹿児島市内で執り行われており、2次会に駆けつけるためである。

このQという男は元々バンド仲間であり、僕が特に親しくしてきた学友の1人で、当然僕らの結婚式と披露宴にも出席してもらったやつなので本当に僕も彼の式と披露宴に出たかったのだが、土曜はどうしても仕事が夕方まで掛かってしまうのでまさに無念、涙を呑んで2次会から参加するよりなかった。

鹿児島空港からバスに乗って天文館まで行き、宿泊する「ホテル レクストン鹿児島」に取り急ぎ荷物だけを放り込んで2次会会場へ向かった。

21:30頃、ようやく主役のQ夫妻と対面を果たす。
今年の8月、入籍した直後に彼らは一度僕の家に遊びに来てくれているが、もちろんまたその時とはまったく違った気持ちで、このたびはおめでとう。

他の親しい学友たち、まん夫妻やM山くん、牛頭大王と愛娘 ムームーらの顔も見える。
もちろんその他、僕の知らない新郎新婦の友人たちや親族たちもうち揃って、まだまだ大盛況といった様相にホッと安堵する。
学生時代、鹿児島市内にあるQの実家に友人たちと遊びに行った時以来、12〜3年ぶりの対面となるQの美しい妹や、Qの従兄弟であるSブラザーズらといった親族関係の若者たちがこのパーティーの幹事的役割を果たしているみたいで、僕もさっそく交友を深めておく。
それに新婦 なっちゃんの妹と弟はおろか、お父上まで2次会に残っておられて、その剛毅な酔いっぷりに我々はいささか面食らいつつも、賞賛と爆笑を浴びせずにはいられなかった。

何だか睡眠不足と疲労の上にハイテンションだったからあまり細かい記憶を呼び起こそうとしても辛くなるので適当にしておくが、新婦の父の眼前での新郎新婦のディープキスなどといった非常に趣のあるアトラクション満載の楽しい2次会の後、近所のバーに場所を移しての3次会になだれこんだ。
そしてここにも新婦のお父様は当たり前のように来られており、新婦の妹と弟の優しい対応などと相まって非常に微笑ましい。
ちなみに新婦父の楽しげ姿も他の様々な状況とともに当然写真に収めたんだけど、新婦 なっちゃんが絶対載せないでと言うので載せない。

3次会の途中、牛頭大王の愛娘、小学校1年生のムームーがかなりダウン気味になり、牛頭大王ともどもホテルに退場。
つーか時刻は既に0時過ぎ、そんな時間に幼子をバーなんぞに連れて来ているという、落ち着いて考えれば結構非常識なその状況に今さらながら驚くのであった。

1時を回った頃に3次会も終わって何だか雰囲気は、帰りましょうか皆さん、てカンジになりつつもあったのだが、2次会から参加している僕としてはまだまだ遊び足りない気分、何より我が友 Qのめでたい日ではないか、さあ目の前に見えるカラオケ店に入ろう、みんな!
10名ちょっとの同志たちが意を一つにして4次会に突入。
もちろん新郎新婦もノリノリだ(たぶん)。

披露宴で歌えなかった分、僕が夫妻にここで祝いの歌を勝手に歌わせていただいたり、新郎 Qは大好きなアニメソングを悦に入って幸せそうに歌っていたり、新婦の会社の同僚であるIさんとその妹がすっかりクレイジー・シスターズと化してダンシングしていたり、最初から最後まで幹事としての責務を全うした新郎の従兄弟 Sブラザーズの兄 Hも完全燃焼した2時間であった、4次会は。

今回一緒に遊んで騒いだ面々の中には、当然僕たちにとっても初対面の人たちもたくさんいたんだけど、まるでそんなことは感じられない、とてもアットホームで気のおけないパーティーであった。
二言目にはもう呼称は下の名前を呼び捨てにし、誰も敬語などは使わない。
いやあ、楽しかった。


ちょっと真面目なことを考えてみたりすると、こんな雰囲気はおそらく現代の都市部に生まれ暮らす人たちの家庭事情や地域事情からはなかなか湧出しえない、鹿児島という地方に古くから続く家に生まれた新郎 Qの結婚パーティーだからこそ感じられた空気感であったのかな、とも思う。
そもそも今は東京で働き横浜に暮らしているQ夫妻が鹿児島で結婚式を催した事情というのも、やっぱりQの生家が鹿児島の旧家であったから。
行ってみて思ったのだが、僕はこれほどまでに親族や兄弟たちが仲良く協力的で楽しげで、そしてそのバックボーンにある強固な血族の絆を感じさせられた結婚パーティーに居合わせたことはかつてない。
盆暮れ正月には一族郎党が家長の下に集い、催事の際には支え合い協力し合いともに連帯する、そういった、大都市圏に住む若い世代にとって決して実感を伴うことのない旧来の風習や慣習が、彼らにとっては極めて当たり前のことなのだ。
たとえ大阪のキタやミナミ以上に人が溢れる鹿児島一の繁華街 天文館で行われている宴であっても、そこには僕たちが失ってしまった日本のエッセンスがあった、そんな気がする。


瞳孔の開ききった面差しでホテルに戻ったのがAM4時。
コンタクトレンズだけ外して寝た。


9時過ぎに起きてチェックアウトし、同じホテルに泊まっていた主役のQ夫妻や牛頭大王父娘、M山、後輩のT山、それに新婦 なっちゃんの同僚女子2名らとともに天文館にある「むじゃきっこ」に行って、朝から皆で名物かき氷、“白熊”を食べる。
僕は朝飯も食べていなかったので、正確な名前を忘れてしまったけど黒豚わっかなんとか丼というご飯も食べた。
美味かったけどちょっと朝から濃かったかな…。

余談ながら、飛行機をみんなと違う遅い便に変更して「かごしま水族館」に行こうかどうか相当悩んだんだけど、さすがに体調が万全ではないので断腸の思いで今回は諦めた。

14:10発のJALで帰阪。
M山と牛頭大王父娘とも伊丹空港で別れた。

社会に出てから社会人として知り合ったのではない友達というものは、本当にかけがえがない。
心から、おめでとう、そしていろいろとありがとう、Q、なっちゃん。
今後ともよろしく。


♪ 夢に消えたジュリア - サザンオールスターズ


2005年11月22日(火)

Amazonバンザイ

普段からインターネットを使用していて、今この文章を目にされているほとんどの人なんかはすでに知っているだろうし利用もしているだろうとは思うので今さら言うのも何なのだが、本やCD、DVDを中心とした商品の通販サイト大手、Amazonは実に便利であるなあ! ということ。

中でも僕が気に入っているのが“おすすめ商品”という機能。
今までそのユーザーが購入したり“持っている”とチェックした商品を覚えていて、それらの情報を元にさらなるおすすめ商品を次々と提示していく、という内容のサーヴィスなのだが、そこでサジェスチョンされる商品というのが当然のことながら当方の趣味嗜好と著しく合致しているので、ついつい“カートに入れる”をクリックしてしまうという商業上の罠にはまり込んでしまうことになるし、また購入にまでは至らなくともラインアップを見ているだけで結構楽しく、知らぬ間に、えっ、こんなに時間が過ぎてる、なんて思うこともしばしば。
また、新商品といえども多くのものが3%オフや5%オフになっていたりするし、購入金額1500円以上から送料無料となるのも、利用しやすい要因になっている。
CDアルバムなら1枚から送料は掛からないわけだし、書籍の場合なら送料をタダにするために欲しい本を無理矢理探して数冊まとめ買いすることも経験上多々ある。

1ヶ月ほど前だったかの「日経ビジネス」に“GoogleとAmazonはネットビジネス上で大成功した企業”という内容の特集記事が載っていた。
それによると、今やこの世の謳歌を極めているかのようなイメージさえあるAmazonであるが、経営収支が黒字に転じたのは実はつい最近ことである、とあって、ちょっと驚いた。
しかしこの調子ならば、よほどのことがない限り業績はしばらくの間確実に右肩上がりで成長を続けるだろうし、ネットショッピング界のトップを走り続けるだろうと思う。
その記事中のインタヴューでAmazonの創設者が、「Amazonの最大の利点は宣伝費を掛けていないこと。テレビCMも紙媒体の広告も打たない代わりに、新製品も値引きするし送料も無料にする。さらにはユーザーがより利用しやすく、利便性を感じることができるようにWebサイトの構築にこそ金と時間を掛けている。そしてその高質のサーヴィスが口コミで広がっていく…」という内容の発言をしていたように記憶しているが、僕などはまさにその思惑に面白いように絡めとられてしまっている利用者の一人ということになるだろう。
確かに前述の“おすすめ商品”や“マイページ”を始めとした、購入サイトのインターフェイスは実にユーザー寄りに巧みに作られていて、本当に知らず知らずのうちに買わされてしまっている、という感もなきにしもあらず。

一つだけ、利用していて不満に思うのは、本を購入した時に書店のようにブックカヴァーが付いてこないことだけかな。

そして今日もまた千葉県市川市から発送された段ボール箱が我が家に届き、妻は「また買ったの」と、商品到着とともに事後報告を受け取る形になるのだろう…。


♪ Alright Now - Free


2005年11月11日(金)

それぞれに合った音楽

誰でも1曲や2曲ぐらいは、想い出の曲、と言えるものがあると思う。
その曲を耳にするといつも、「あー、部活が辛かったあの時を思い出すなあ」とか、「新入社員として右も左も分からんとあたふたしてたなあ」とか、「あの頃はあいつやあいつやあいつらとよく遊び回ってたよなあ」とかいった、特定の時期を想起してしまうような曲が。

地球が誕生してからこれまでの約46億年間を一日に喩える、なんて例はよくあるけれど、それと同じように、一人の人間の一生を一日に喩えることもできよう。
それと関連して、と言えるのかどうかは分からないが、先に挙げたように、高校生の頃、とか新入社員の頃、とかいった特定の時期といった単位ではなくて、「ああ、これは朝の目覚めの時に聴く音楽だ」とか、「彼誰刻にふさわしい曲だなあ」とか、「風呂上がりのまったりした時間帯にピッタリの音」とかいう風に、一日の中の特定の刻限を個人に思い起こさせる曲や音楽もあると僕は感じる。

そう漠然と思い描いていると、じゃあ一日の終わりたる夜、まさに入眠せんという時に聴きたくなる音というものは、人生の幕を閉じようとしているその時にも欲する音に相違ないのだろうか…、などとどうでもいいことを考えてしまう。

そんな僕が今聴いているのはアニメソング。


♪ 終わらない物語 - 森岡純


2005年11月 3日(木)

「民放大会」にスーツを着て、そしてNBA開幕

昨日はおそらく今年初めてとなるスーツを着て、「民間放送全国大会」というおカタく、そして大規模な催し事に式典運営スタッフの一員として出向いてきた。
何十年かに一度回ってくるかこないかという、我が社が幹事社を務める年なのだ。
この大会は今年ですでに53回目を迎える、ほぼテレビ放送の開始と同時に始まった由緒あるイヴェントで、テレビ、ラジオなどなど合わせ全国200社を超える加盟民間放送社による会合である。
会場は大阪・中之島にあるグランキューブ大阪(大阪国際会議場)。

日本民間放送連盟の会長として、例のライブドアがニッポン放送の株を大量取得した一連の騒動の際に一気に知名度が上がったフジテレビの日枝久会長が挨拶をされたのだが、そこでことさらに「放送」と「通信」の違いを強調していたのがとても印象的だった。
歴史、社会における役割、使命、ひいては存在としての重要度が違うのだ(もちろん放送>通信ね)、と言わんばかりの強弁に、堀江貴文氏、そして直接対峙していないとはいえ、広義の同胞たるTBSに現在牙を剥いている三木谷浩史氏に対する並々ならぬ怨嗟を感じた。

ただ一つ思うのは、そもそも民間企業とはいえ公共性の極めて高い放送局がなぜに株式上場せねばならぬ事態になったのかといえば、明確なヴィジョンなき旧郵政省(現総務省)のデジタル化ゴリ押し政策が最大の原因に他ならない、と僕などは思っているから、真に怨むべきは視野狭窄の政治家であり官僚である、と言っておきたい。

アメリカの真似だか何だか知らないけれど、法律で「いついつまでにデジタル化しなさいね」などと放送局に絶対服従の命令を下しておきながら、「でもそれに掛かる費用は自分たちで何とかしてね」ってそりゃないでしょう。
それで営業収入だけじゃにっちもさっちもいかなくなって苦肉の策で上場せざるをえなかったというのが実情なのだから。
それなのに言うに事欠いて、麻生太郎前総務相なんかは、ライブドアの時は免許事業たる放送局乗っ取りを企てるなんてけしからん的な発言をしておきながら、今回の楽天に関しては「民間企業が公開されている株を正規の方法で買っているだけなのに何が悪いんだ」などと180度あっち向いたこと言ってるんだから。
っつーかあんたに根回しがあったかなかったかだけでしょ。

所詮誰だって自分が生きている間だけ安泰だったらいいわけよね。
僕だってきっとそうだ。


話は変わって、ついにNBAが開幕した!
プレシーズンでそれなりの数字を残していた田臥勇太が最後の最後でカットされてしまったのは残念だけれど、なんにせよめでたい。

客観的にはやっぱりマイアミ・ヒートは強いんだろうなあ! と思わざるをえない。
シャキール・オニール、ドウェイン・ウェイドに加え、今季はジェイソン・ウィリアムズにゲイリー・ペイトンまで入団、まあそんなにポイントガード獲ってどうすんだ、って意見もあるけど、ゴージャスなメンツには違いない。
あ、アントワン・ウォーカーもいた。
普通にいけば優勝に一番近いチームだろう。
もちろんサンアントニオ・スパーズも強いし、フェニックス・サンズ、デトロイト・ピストンズ、インディアナ・ペイサーズもチーム力は高い。
クリーヴランド・キャヴァリアーズやヒューストン・ロケッツだって侮れないだろう。

でも個人的に何となく応援しているのは今年もケヴィン・ガーネット率いるミネソタ・ティンバーウルヴズ。
ビッグ3はあっけなく崩壊してしまったけれど(そもそも“ビッグ3”と呼ばれるユニットを抱えながら優勝できたチームはほとんどない…)、一人何役か、何でもできるスーパーマン、KGにそろそろ栄冠を勝ち取ってほしい、というのが僕の実感。
まあ今季も無理っぽいけどなあ…。

鈴木亜久里が来季から自らのチームを率いてF1に参戦することを発表した(しかも佐藤琢磨が乗るかも?)、なんてニュースもあったし、スポーツも熱い。


♪ Jelly Roll - Blue Murder


2005年10月31日(月)

分厚い本バンザイ

端的に言うととにかく僕は本が好きである、といった旨の内容を少し前の本欄に書いたわけだが、中でも長編小説が好きである。
短編ももちろん優れた作品ならば読んでしまえばしまったで面白く読めるのだが、好んで読むのはもっぱら長編。
長編といっても、さらに言及するならば、書き下ろしに限る。

一概には言えないとしても、小説は長くなればなるほど枝葉分かれは増えていくし、つまり張られた伏線や設置された仕掛けなども増えていく傾向。
特に僕の好きなミステリーやそれに類する分野においては、そうなればなっていくほど、連載作品と書き下ろし作品を比較した場合、やはりどうしても前者、連載作品の方が辻褄を合わせることが難しくなっていき、小説全体を構築する物語の理屈が破綻する可能性も高まっていくように僕は思う。
誰とは言わないけれど、とある高名な作家の某長編小説を読んだ時、「なななんだこの駄文駄作は!」と腰を抜かしたことがあるんだけど、それは果たして新聞連載作品を単行本化したものだった。
ちなみに書き下ろし長編小説の体を為していた同作家の別作品は充分に面白かった。
毎日連載というとても限られた紙幅の中で、毎回それなりの山と谷を作りながらストーリーを組み上げていくという作業によって傑作が生まれる可能性というのは、やっぱりとんでもなく低いのだと思う。


♪ Time Is On Your Side - Earth, Wind & Fire


2005年10月22日(土)

ある友人からの電話

プロ野球日本シリーズ第1戦、もうすぐ里崎が阪神を突き放すスリーランをレフトスタンドにかっ飛ばそうかという頃、僕の携帯電話に掛かってきた1本の電話。
それは友人のTからだった。

Tは僕と同い年、元々は放送作家をやっていたのだが一念発起、暫くの店舗修業を経て昨年、見事自分の店をオープンしたラーメン店主である。
ところが今日の電話で彼が僕に伝えたのは、「来月いっぱいでラーメン店を閉める。また放送作家に戻ることにした」という言葉だった。

元来が極めて楽天的な性質であるTだけど、妻と子2人を抱えてこれからの人生を送っていくことを考えると、他人からは想像もつかないほどに思い悩んだ末での結論であることに違いはない。
電話の声は明るかったし、神妙な報告が終わった後は「来週の草野球来れるの?」とかたわいもない話を振ってきて、何だかいつもの普通の会話みたいではあったけれども、たぶんTは今、迫り来る非日常の感覚をどうにかして日常に転換させてまるでなんでもない事だよと感じる風に持って行こうとしている最中のはず。
そんなことが伝わってくるような、明るい声だった。

彼は放送作家としても能力があり、ラーメン店主に転身する時も惜しまれながら、未だ放送作家として請われながらの職替えであったから、きっとすぐに仕事は決まると思うし僕もぜひ声を掛けたいと思っている。

個人の力ではきっとどうしようもない大きくて強い流れの中に呑まれながら、時には精一杯逆らいながら、そしてそれが必要ならば時機が到来するまでジッと死んだふりをしてパワーをためながら、勤め人には無縁のリスクをしょって自分のしたいことに勝負を賭けている身近な人間の存在に、会社員10年目の僕はまた得も言われぬある種の憧憬を禁じえない。

心から応援しよう。


♪ Religion Buzz - Kory Clarke


2005年10月20日(木)

気付けば

このところレギュラー番組のリニューアルに加えて年末年始特番の仕事もちらほら立て込んでき始めてなかなか忙しい。

ふと気付けば僕もいつの間にやら入社10年目、もうすぐ32歳。
スポーツ選手でいったらそろそろ引退も考え始める年頃、会社でも最早若手とは言い難く、ズバリ中堅社員にカテゴリー分けされるのだろう。
自分が会社に入った当初の感覚からすると、10年目の先輩社員なんて相当厚い壁の向こう、ああ大人だなあ、社会人だなあ、しっかりしてるなあ、なんて思っていたはずだが、果たして今の自分は…。

フリーランスとして、経営者として頑張っている人たちとは違い、我々会社員は年功序列の枠の中で集団の論理に従って動かなければいけないというストレスこそあるものの、よっぽどじゃない限り毎月の給金は保証されているわけで、ただただデスクでボーっとしていようがよだれを垂らしていようが鼻クソほじっていようが給料は支払われる。
社会にも家庭にも自らにも何も益をなさずに非生産的な生活を続けていようが、時が経過すれば腹が減って飯を喰うのと同じように。
何も産み出さぬ者が何かを喰い潰すことこそ無様。

せめて貰っている金の分ぐらいは働いていたい。


♪ Gypsy Road - Cinderella


2005年10月18日(火)

アラン・ヒューストン引退、新ドレス・コード

ニックスのアラン・ヒューストンがついに引退か。
晩年こそケガなんかもあって、その高給ゆえにいわゆる給料泥棒的プレイヤーの代名詞みたいに言われていた時期もあったけど、振り返ってみると20点オーヴァーの安定したシーズンもあったわけで、充分にオールスターに値するいいシューターであった。

さらにNBA絡みで言うと、昨年ヴィンス・カーターが試合前の練習中にいつも聴いていたiPodを「ドレス・コードに違反している」という理由でリーグに取り上げられたなんて出来事もあったけれど、このたびリーグが新たなドレス・コードを設定した、というニュースを目にした。
いわく、選手たちはチームやリーグの業務に関わっている時は(もちろん記者会見やシーズン中の移動なんかも含まれる)、“ビジネス・カジュアル”を着なさいとのこと。
このビジネス・カジュアルっつーのがイマイチよく分からないところもあるんだけど、スニーカーやTシャツ、ショーツやジャージーなんかは明確に禁止されている。
他にもケガなどのために試合には出場しないけれどベンチに入る時はチーム指定のスポーツ・コートを着ろだとか、アリーナに出入りする際はビジネス・カジュアルもしくはチーム指定のウォーム・アップ・スーツを着ろだとか、さらには室内ではサングラスをするなとか、服の上から見えるチェーンやペンダントをするななんてまるで小さい子に言い聞かせるようなアホらしい規定まで明記されているのだ。

つまり、今の若い選手たちが好んで着ているヒップホップ・ウェアは公の場では一切着るな、ということなのだろう。
もちろんNBAというリーグは様々なライセンスを様々な企業と締結しており、無論ウェアとて例外ではないから商業上の理由も少なからずは存在しているのだろうが、それにしてもちょっと行き過ぎの感は否めない。
B-Boyファッションを禁止してしまったら、NBA全チームのユニフォームを提供しているリーボックなんかも決して得はしないと思うんだけど。

ひょっとしたらこの服装規定の裏には、実は服そのものではなくてタトゥーをできるだけ子供たちの目に触れさせない、なんていう目的もあるのかもしれない(どちらにしろユニフォームになれば丸見えなんだけど)。
確かに猫も杓子もという状態の、昨今の若いプレイヤーたちの間ではびこっている数々のタトゥーはちょっとばかり目に余るかも。

まあアレン・アイヴァーソンを始め、このドレス・コードに対してやつらがどんなリアクションをするのか少し楽しみだ。
そういえばシャキール・オニールやコービ・ブライアントらが「試合中のショーツの丈が長い」なんてバカらしい理由で罰金を科されたなんてこともあったなあ。


それにしても案外こういった類の決め事や規制って、より個性を尊重する自由の国(と思われている)、アメリカの方が日本よりも厳しいところがあったりする。
MLBのニューヨーク・ヤンキースではチームの規定によって、選手はヒゲを伸ばすのは禁止、移動時や会見の時はネクタイ着用が義務付けられている。
さらには他者からの強制だけじゃなくって、実はアメリカ人は自発的にあえて皆で画一的な行動をとることによって団結の意志を固めたりすることも割りとある。
いつだったかボストン・レッドソックスがプレーオフの時に全員スキンヘッドにして闘志を鼓舞したなんて例もあった。

アメリカは元々が移民の寄り集まりの国だから、一つの共同体内に統一されたコスチュームを設定したりある程度の不自由さを強いる束縛を持たせることこそが、連帯意識を高める一番の早道だという要素もあるだろうし、また結局はなんだかんだ言ってやっぱりビッグ・ダディの論理こそがまかり通る「マッチョの国」なのかもしれない、本質的に。


♪ Southbound - The Allman Brothers Band


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「自然」という言葉

2つ前のエントリー、「ヴォランティア活動に僕が付けてみている意味」にいただいたコメントを読んでふと思った、というか連想したんだが、これまた僕が若かりし頃より抱き続け考え続けている命題、「“自然”の定義とは一体何だ?」。

残念なことながら僕が子供の頃より長い間信じていた「レミングの集団自殺」現象はどうやらガセだったようだが、それだけじゃなくても人間以外の生物が一見すると生存本能に反しているような、つまりパッと見「不自然」な行動を取る例は少なくない。
メスが産卵した後、その産後の肥立ちを助くる滋養となるべく自らの身を餌として捧げるあるクモの仲間のオスたち、などという分かりやすい例を始め、肉食動物に襲われた草食動物の群れの中から1頭、囮となるべく目立って捕まりやすい方向に駆け出る、なんて行為もあったりする。
でもそれら一見「不自然」な行動も、実のところその種族という単位での生き残りを企図した上での本能に則った行動なのだ、ということはおそらく誰もが少々考えれば解るだろう。

じゃあ我々人間というものに立ち戻って考えてみた時に、たとえば私欲のための殺人であったり、盲目的に快適さを求めるあまりの森林伐採や大気汚染であったりといった数々の「不自然」な行為は、よーく考えるとやっぱり動物として自然な行為なのだ、と思うことができる人は果たして少ないであろう、間違いなく。
それらはどこまで譲って考えても「自然」な振る舞いではなく、あくまで禁断の果実を口にしてしまった人間という卑しく浅ましい生き物だけが備えている悪業なのだ、と割と多くの人は思うんじゃないだろうか。

でも僕はこんな考え方や価値観こそが危険であり、そして傲慢なものなんだといつも強く感じる。
人間は「不自然」な生き物だ、環境破壊は「自然」を破壊することと同義だ、なんて捉え方、よくよく考えるとおかしくないだろうか?

人間もこの偉大な自然の一部に過ぎず、特別な生き物なんかじゃない、という認識さえあれば、人間の行う行為もまたすべてが「自然」な行為だと言えないだろうか。
そう考えた方がそれこそ自然な道筋じゃないだろうか。

たとえば、サヴァンナに住むライオンは1頭のオスと数頭のメス、そして仔たちで構成される“プライド”という群れ単位で生活しているが、オス同士の戦いが起こり、プライドのボスが交代すると、新しいボスであるオスは前のボスの仔を皆残らず噛み殺してしまう。
これは言うまでもなく自分以外のオスの遺伝子は残さない、という1種の本能に従った行動であるが、この行為は「自然」だとして、対して性根の悪しき人間が不倫相手の配偶者を殺したい、と考え行動することはじゃあ「不自然」なのか?

僕はそもそも「自然破壊」という言葉も好きじゃない。

モグラは自分の住むところを作るために土を掘り起こす。
シャチは満腹で食べる気もないのに遊び半分でアザラシを噛み殺すことがある。
それらは「自然」な行為。

人間は住むところを築くために木を伐り山を削る。
人間はゲーム・ハンティングと称してただ快楽のためだけに動物を殺すことがある。
これらは「自然」に反している行為?

人間の手など介在していなくても、生態系のバランスが崩れれば種は滅ぶ。
餌が増える→それを食べる生き物が増える→増えすぎて餌が喰い尽くされる→共倒れ、なんて例はおそらく有史以前からまさに枚挙に暇がないだろう。
それは極めて「自然」なプロセスである。
確かに特にここ数百年の人間は、他の動物を獲り尽くし、水を汚し、空気を汚し、緑を減らし続けている。
でも一見「不自然」あるいは「反自然」に見えるそれらの行為も、人間も単なる1種の動物だとするならばあくまで「自然」な一連の行動に過ぎないわけである。
たとえそれが滅亡に至る道程であっても、それは「自然」な成り行き。

そもそもが、近代になって声高に叫ばれてきた「自然破壊」や「環境破壊」なんて言葉も発想も、元はといえば自分たち人間のことだけを考えての産物に他ならない。
地球がどうだの動物が植物がどうだのと言っていても、それは決して地球や動物や植物のためなんかじゃない。
結局地球の環境が汚染され生態系が乱れゆけば、自分たち人間が困るから、ただそれだけ。

原油を始め化石燃料を枯渇させないように大事に使おう、でもやっぱり便利な生活は捨てられないから少々危険でも原子力が必要不可欠だな、植物を根絶やしにしてしまっては我々は生きてはいけない、緑を守り増やすのだ、でもやっぱり山を越えるのはしんどいからドカーンと切り崩してトンネルを通そう、動植物を絶滅させぬよう、そして虐待せぬよう大切に扱おう、でも必要ならば動物実験をして多少の犠牲は払っても医学の進歩を図って人間の病を治そう、このまま温暖化が進めばやばいぞ、CO2排出を抑えるエンジンを開発して冷房設定温度も上げるんだ、でもやっぱりモータースポーツって面白いよね、アホみたいにガソリン喰うF1も仕方ないよね。

矛盾していようが綺麗事だろうが欲望剥き出しの愚行だろうが、すべてが「自然」な出来事。
そこには善も悪も存在していない。


♪ Godzilla - Blue Oyster Cult


2005年10月17日(月)

ヴォランティア活動に僕が付けてみている意味

この間当然のように「ヴォランティア活動をしている人は、他人のためじゃなくて自分のためにやっているんだ」という旨の発言をしたら、何だか非国民的な目で見られたような気がした。

人間として生きているからこそ、誰にでも必ず自我というものがある。
誰もが自分と他者を明確に区別し、自らのアイデンティティをどうにかして確立しようとしながら生を送っている。
だからこそ、自分というものを完全に滅しきって、100%混じり気なしで他人のために行動するということは、動物としても、動物の中の人間としてもありえない、と僕は思うのだ。

決してヴォランティア活動そのものを僕は否定的な見解で捉えているわけじゃないし、それができる人は本当にえらいと思っている。
その上で、ヴォランティア活動をする人としない人との違いは、“人生のどこに幸福を見出しているか”というところにあると思う。

つまり突き詰めて考えていけば、人のために無償で働くヴォランティアという行動を進んでとっている人は、それによって自らも幸福感を得ているのである。
他人のために動くことによってその人が喜ぶ姿を見ることが自分の幸せでもある。
誰にだってそういった感情はあると思うが、たいていの場合その対象は家族であったり親しい知人などに限られる。
ヴォランティア活動を常日頃している人はその相手が身近な人ばかりではなく、たとえ見ず知らずの人に対してであっても奉仕している自分が好きな人、それによって幸せを感じることができる人だと思う。
言い方は決して良くないかもしれないが、とどのつまり自己満足に他ならない。
だからエッセンスだけを抽出して言うならば、ヴォランティア活動も窃盗行為も、さらに立ち返ってすべての人が行う行動はすべて等質のものなのである。
“幸福を得るために生きている”、という点において。

たいていの人間はなぜ窃盗行為をしないのかというと、倫理的、法規的な自制や制限といったものももちろん影響しているだろうが、それよりも何よりも、その行為によって幸福を得られないから、である。
金品を窃盗することによって得ることができる物質的メリットと、同時にそれによってもたらされる良心の呵責、犯罪行為露見の恐怖感などとをすべて併せて総合的に判断した時に、“自分は幸福にはなれない”と結論付けるからである。

他の人から見たら理屈が通っていようがいまいが、どんなに浅薄であったり筋道を間違えた振る舞いであっても、人間の“ほぼ”すべての生活行動はすべからく“自分が幸福になるため”のものなのである。
“ほぼ”とつけた理由は、たとえば例外的行為として、“種の保存”を目的とするものもあるだろうと考えてみたから。

“個”と“種”。
…。


♪ Birdland - Weather Report


2005年10月13日(木)

成熟する、大人になる

成熟するとはいったいどういうことなのだろうか。

自身を例にとってみると、僕は31歳現在の今よりも、たとえば15歳の時の方が口数も少なかったし、冗談もあまり言わなかったし、はしゃいだり騒いだりすることも少なかった。
裏を返せば、今の方がよっぽど見た目上の振る舞いは幼稚に過ぎるということである。
ティーンエイジャー当時、マンガ「北斗の拳」のケンシロウに心酔していたという驚愕の事実を横に退けておいても、そうである。

だからといって僕の場合は昔の方が精神的により大人で、年をとった今の方が幼いのだ、ということになるのか、という問題である。

断言はできないけれど、たぶんそうではないだろう。

おそらく若かりし頃は、自分を実際以上によく見せたい、かっこいいと思われたいという、思春期特有の背伸び感が多分に働いていたはずで、それによって本心も、さらにその奥にある本音も幾重にも包み込まれていたと思う。
だから比較的今よりも大人っぽく感じられるような言動をしていたに過ぎないだけ。

それに比して現在の方がもちろん知識も経験も微々たるものとはいえ積み重ねてきたはずのものがあって精神的にもタフにはなっているから、本質的には成熟している、と言ってたぶん差し支えないだろう。
少なくとも成長はしていると思う。

じゃあ何で見た目上の振る舞いはより幼児的に退行しているのかというと、自分を偽ったり飾ったりしなければいられないという、いわゆる虚栄心みたいなものが削ぎ落とされていったから、ということになるのだろうか。
自分はこれだけの人間です、コレとコレはできますけどアレとアレはできません、ということがこの歳になってようやく少しずつではあるけれど正直に世間に向けて公表できるようになってきた、とでも換言できるのか。


そして僕はいつもここである意味根元的な、冒頭の問いに立ち返ってしまうのである。


それならば自分の心を覆い隠さずに、正直に素直に感情を表現できることがすなわち“成熟している”、と言えるのだろうか、と。

ちょっと違ったケースに当てはめて考えてみたとしても、事態はさらに混乱する。

たとえば言い方を変えて、じゃあ大人になる、とはいったいどういうことなのだろう。

個人によって程度の差こそあれ、純粋で真っ直ぐで素直で、矛盾や欺瞞や不正がどうしても我慢できなかった少年や少女も、やがて時が経ち歳をとり分類上は“大人”と呼ばれる人種になると、「社会で生きていく中ではこの程度の不条理は仕方がない」という“常識”を必ず身につけるようになる。
つまり、10代の頃はとても狭く小さかった“倫理的許容範囲”というものがより広く、大きくなっていく。

その過程は、果たして“大人になった”と言えるのだろうか。
言ってよいものなのだろうか。


自分ひとりの価値観だけを振りかざして我を張っていても人間社会を暮らしていくことはできない、多少の不条理には目をつぶっても、時には自分の本音を殺して他人と協調していくことこそが大人である、という見方は成立するだろう。
だが一方で、それは大人になるということではなくて、純粋だった心が汚れていくプロセスに他ならない、妥協するのではなくて、自らの主義主張を正しく明らかにできることこそが大人というものである、という見解もあながち間違っているとは言えないような気もする。


バランスだと言ってしまえばそれまでなんだけど。


♪ Breathe - Nickelback


2005年10月 3日(月)

音が聞こえてくる写真、映像が見えてくる小説

写真を見たら音が聞こえてきた、という風な感覚にとらわれることが偶にある。
ネイチャー・フォトグラファーの内山りゅう氏が出ていた、昨日放送の「情熱大陸」(MBS)を観ていて、ふとそんなことを想起した。

内山りゅう氏は主に河川や湖などを戦場として“淡水”をテーマに様々な写真を撮って発表しているフォトグラファーで、アクアリウムをやっている者を始め、生き物や自然が好きな人間なら必ずその写真の10枚や20枚は見たことがあるはず。
学校や図書館など、どこにでも置いてあるようなメジャーな図鑑類にも彼の写真はよく採用されているから、特にそういった分野に興味がない人とて知らぬうちに少なからず目にしているかもしれない。
当然僕の家にも彼の撮影した写真が載っている書籍は多い。

彼の撮った写真を以前雑誌で見た時に、まるで自分が現場にいてその光景を肉眼で目の当たりにしているかのように、とても生々しい“音”が聞こえた(ような気がした)ことを、番組を視聴していて思い出した。

内山りゅう氏のものに限らず、本当に“一瞬の事象を切り取った”写真からは音が聞こえてくる、と僕は感じる。
ああきれいだなあ、とか、鮮やかな色だなあ、とか、構図が美しいなあ、とか、よくこんな瞬間を撮ったなあ、とか、もちろんそんなことも込みなんだろうけど、それだけではない写真。
雑誌「ナショナルジオグラフィック」なんか、その“音”が聞きたいがために購読している、と言っても過言では…、いや過言だなそれはやっぱり。


同様に、超絶的な筆力でもって紡がれた小説作品からは、音のみならず“映像”が見えることがある。

よくできた怪談や心霊譚がなぜ恐ろしいのかといえば、それは聞く(読む)人の想像力に強く訴えかけ、その人の脳内に具体的なイメージを結ぶからである。

『家族の皆が寝静まった深夜、ふと自室のベッドで目を覚まして天井を見上げると、そこにはこの世のものとは思えないとても巨大な女の顔が浮かんでいたのです…』なんて話をたとえば読んだり聞いたりした時、人が恐ろしいと思うのは、その光景を実際の“映像”として思い浮かべるからに他ならない。

言い換えると、物語として練り上げられていなかったり言葉の使い方が稚拙な怪談というものは、決して人を怖がらせることはない。

もちろんそれは怪奇譚に限った話ではなく、すべての物語にあまねく及びうる則の一つだと思う。
逆に、小説を読んでいて、あれ、と、少しでもその整合性や語彙の選択や登場人物の心理描写に疑いを抱いてしまった場合、もうそこから先は何ら具体的な“映像”を脳内に創出しながら読み進めることはできない。


文字通り寝食を忘れて夢中になってあなたが貪り読んだあの本は、あなたの内に“映像”を投影してはいませんでしたか?


♪ House Of 1000 Corpses - Rob Zombie