偏狭
今夜のスイムレッスンは個人メドレーのドリルとスイムで、1200m。
やっぱりバタフライは特にレッスン後半、腕がしんどくてたまらんが、全身心地よい疲れに包まれた。
丸19年が経った。
人の想像を超える大災害の記憶を風化させることなく語り継ぎ、また今後同じような天災に見舞われた時に被害を最小限に抑えるべく、何が起きたかを科学的に検証し、教訓として活かすことは必要不可欠だと思うが、殊更感傷的なレヴェルを広く拡大して描くことに関しては、個人的に全面的な賛意は覚えない。
そこに、被害規模の大小が拘わっているように見える、さらに端的に言うならば、死者の数の多寡がメディアでの扱いの大小に結びついているように見えるから。
身近な人を不慮の出来事で亡くした者にとって、その事故あるいは事件が、15000人を呑み込んだ津波であったとしても、もしくはニュース番組で放送すらされない1対1の交通事故であったとしても、悲しみの質や大きさに差異はない。
月並みな表現だが、一人一人、すべての死者に纏わるストーリーがあり、ドラマが存在する。
確かに大災厄の場合は、その悲哀を共有する人の数もまた多い、という特徴はあるけれど、これまた使い古された陳腐な言葉を使うようだが、人の死の重みというものは須らく等質であるはずだ。
報道媒体にとって、卑しくもこのような大きな災害や事故は、題材として"使いやすい"、という一面があることは事実だ。
そして同時にそれはおそらく、"伝わりやすい"。
どこまでいっても"マス"を対象にするメディアである、という枠組みから逃れることはできない以上、これは宿痾なのかもしれない。
繰り返すが、未曽有の大災害をいろいろな角度から分析、検証し、それを伝えていくことはメディアの重要な責務であることは重々承知の上、客観性と合理性を失うことのないよう、努めたい。
♪ I Believe I Can Fly - R. Kelly