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2012年2月21日(火)

左右

若い頃は左翼的な思想、思考に惹かれていたような気がする。
月刊「創」を購読し、「週刊金曜日」にも目を通し、どちらかというと朝日新聞に共感を覚えていた。
リベラル、という言葉に一定の価値を見出していたとも思う。
しかし、長じて社会に出て、さらに年を経るうちにそんな感覚は変わってきた。
体制は変えてこそのもの、という最低限の思いは保持しているものの、いろいろな報道に触れる折、活字を目にする折に抱く感慨は、あるいは青臭かりし当時の私が忌避していたいわゆるマジョリティとしてのそれに近くなっているように感じる。
旧姓福田某被告が、どうやら支援者の養子に入って姓を変えていたらしい、と聞けば「こんな奴にも支援者なんておんねんなあ」と"普通"の感想を漏らす。
北朝鮮など潰れてしまえばいいと思うし、憲法9条だって合理的に改憲すればいいとも思うし、あるいはこの世をやり過ごしていくためには清濁併せ呑むことも時には必要だ、なんて分かったふりもする。
この変化は何なのだろうか?
成熟なのか、それとも単なる俗化なのか?
もしくは、ある程度の経験と知識を身につけた結果、自分が生来持っていた本質的な人格に回帰しただけなのだろうか?


♪ Hit The Road Jack - Arrested Development


コメント

失礼を承知で、勤め先の影響もあるかも。いや、もっといえば、職場を選んだ時点ですでにその変化はあったのでしょう。

若いときのふるまい、年を取ってからの感覚は私も同様ですが、国の機関にいると国寄りの考え方に反発より共感することが多いと自分でも感じます。

いずれの立場にせよ、ある程度オープンであることが大事かと。

そもそも何も背負っていない身分でいる時と、良くも悪くも企業体に身を置いて生計を立てていかねばならぬ状況とでは自ずと思考も変わってきますな。
乱暴に言うなら、日和ました。
オープンでいることは大事ですね。
可能性を絞ってはいけない。

同級生の言葉は説得力がある。

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