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2011年3月19日(土)

試練

3月11日以来、もちろん業務が激しい日が続くが、こんなことは被災地の人々の苦労を思えば何ということはない。
今後東北では多数の仮設住宅の建設が見込まれるため、いろいろな資材が関西でも調達困難になっており、私の計画にも支障を来しているが、これも被災地の状況を鑑みれば無論致し方ない。
花粉症の状態が本当に酷く、鼻も目もえらいことになっているが、もちろんそんなことも被災者たちが強いられている艱難辛苦に比べたら取り上げるにも及ばない鼻くそのような悩みである。
当分の間、この思考回路で大抵の人たちが大抵のことを我慢できるだろう。

今は、何万人もの人が生命を失い、何十万人もの人が極めて劣悪な環境に置かれて苦闘している状況が誰の目にも鮮明に映っているから、皆が彼らに対し寛容な気持ちになり、思いやることができている。
だけどふと思うのは、このような国難に見舞われている時に限らずとも、同じように苦しみ、悩み、絶望と戦っている人たちがどこかに必ずいる、ということ。
テレビや新聞で報道されなくても。
数が多い少ないの問題ではなく。

16年前の震災の後も、関西を中心に人々の心は復興に向けて一つにまとまり、いろいろなところでたくさんの人たちの思いやりが示され、助け合いが見られた。
果たして、その心は今年の3月10日までも継続して保たれていただろうか。
他人のトラブルに共感し、気遣うことができていただろうか。
その答えを知っている私たちは、今こそ試されているのかもしれない。
時が経ち、たとえテレビの画面や新聞の紙面から被災者たちの姿が消えたとしても、どこかで誰かが悲しんでいるということを、私たちはイメージすることによって知る必要がある。


♪ 僕にできるすべて - THE BOOM


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