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2006年12月13日(水)

“神の領域”を決めるのは誰だ?

風邪が治った頃にまた外を出歩いたせいか、昨日もちょっと倦怠気味だったので会社の健康管理室に行って、注射を打ってもらい薬ももらってきた。

とまあ、人は体調が悪くなれば病院に行ったり行かなかったり、その都度適当と思われる方策を採って病魔の撃退に励むわけだが、そんな折に僕がしばしば思うのが、「医療行為はどこまでが是で、どこからが非なのか?」ということ。

分かりやすい例を挙げるなら、たとえばクローン生物を創り出す技術。
巷間にはそれ自体を、神の領域に踏み込んでいる、として批判する人もいるが、この技術を応用すれば将来、たとえばある人が事故や疾患で内臓の1つを失ったとしても、その内臓を患者自身のDNAを使って複製し治療に役立てる、なんて構想もあるらしい。
興味のみでこうしたバイオ・テクノロジーを研究している人ももちろん多いだろうが(もともと科学の進歩はただ純粋なる“興味”からこそ産み出されているものなので、こうした学者を僕は否定しない)、それと同時にれっきとした医療技術の1つでもあるということ。

また安楽死というものが議論される時には、必ず延命治療行為の意義が侃々諤々取り沙汰される。

こうした例のように、もしそれが生命の発生や尊厳(この言葉自体が実態のないものではあるが…)にかかわるような事柄であれば、その科学技術に生理的に反感を覚えてしまうということは感覚的に分かるのだが、でもそこからまた少し考えてみると、ちょっとした矛盾、というか、いくら突き詰めて思考しても決して解決しない疑問にぶち当たる。

「風邪を引いた時に薬を飲むことと、医療の進歩を目的としたクローン技術の研究は、一体どこが違うのだろう?」

究極的な結論(というか出発点)を言ってしまえば、「医療行為のすべては生命を維持するためのもの」である。
たぶん放っといたら50年やそこらが平均寿命になるであろう人類の実際の平均寿命は(現に高度の治療行為が受けられない発展途上国ではそれに近い)、医療の進歩のためそれよりも随分と長い。
骨が折れれば固定して再生を待ち、視力が悪くなれば眼鏡やコンタクトレンズで矯正し、歯が虫歯でボロボロになってしまえば代替歯を入れる。
それらすべての医療行為は、広義で「生命を永らえさせる」ために他ならない。

しかし同様の発想から始まった技術の進歩や研究も、それが高度になればなるほど、また生命活動の根元に近付けば近付くほど、“人が踏み込むべき領域ではない”といった類の批判も多くなる。
これはいかに。

人は自己を形成し保つために、必ず身内に指針を持たなければならない。
指針を作るためには、価値観や基準といったものを自分で決めなければならない。
つまり、人はどこかで“線”を引かなければならない。
ならばしかし、「どこまでの医療行為が是で、どこからが非か」といった命題に対し、我々はどこに線を引けばいいのだろう?
皆目それが分からんのだ。


少なくとも短絡的には必ずしも生命の維持を目的にしているものではない、という点で少し本題から逸脱するが、もう1例、不妊治療。
帚木蓬生氏の「エンブリオ」などでも紹介されているように、様々な事情によって不妊に悩むカップルにとってはまさに救世主とも言えるような最先端の不妊治療だが、ここにも“倫理”という大きな障害物が存在している。
複数の受精卵の中から1つを選択する男女産み分け、他人の子宮を借りる代理出産や他人の精子を使う人工授精…。
そもそも、子宮外で受精を人為的に行うことすらがすなわち人道にもとるという見方もある。
最近では凍結精子を使うのは提供者の夫の存命中に限る、なんて見解の発表が日本産科婦人科学会からあったりした。
我々は“不妊治療”のどこにどう、線を引いたらいいのだろう?

品種改良や新種作出といったテーマなどもある。
食用の家畜動物をより生産性の高い品種に改良する、より見栄えが美しい花を咲かせるように遺伝子レヴェルで操作する、愛玩動物をより飼育がしやすいように意図的な交配を進める…、などといった行為に対し、人はしばしば批判的になる。
しかしそうしたバイオ・テクノロジーを一時の感情で否定してしまったら、現在のこの世における生活はことごとく成り立たなくなる。
そしてえてしてそうしたクリティカルな人々も、競馬なんかを声高に攻撃しているさまはとんと見たり聞いたりした記憶はない。
ただ速く走る馬を作るためだけに、奇形や変異体が多くなるインブリードを繰り返し、そしてレースに勝てなければ、2度と走れないような怪我を負えば「引退」という名の、そして「予後不良」という四文字熟語を隠れ蓑にした安楽死処分。
こちとら公営ギャンブルという娯楽のためだけに過ぎないものだから、医療の進歩を目的とした動物実験などよりもよっぽど悪虐である、と個人的には思うのだが、動物愛護団体は後者は批判しても前者はあまり槍玉に挙げないよな…。

そうそう、動物実験だって本当にそうだ。
動物たちの命の犠牲なくして新薬の開発などできるはずがないのに、盲目的に批判する人たちはそれが分かっているのだろうか?
実験動物たちに対する扱いを改善しろ、という言い分はよく分かるが、動物を殺すな、という意見は(もちろん感情的には理解できるが、理屈の上では)ちょっと受け容れがたい。
「たぶん効くであろう薬を開発したが、哺乳類に投与したことはない。じゃああなた、最初に飲んでください」と言われて誰が飲める?
輸血を拒否するエホバの証人の信者を超越して、すべての薬を拒絶するか?


…で、いつも同じ行き止まりに僕は突き当たるんだけど、人がどこかに線を引くということ自体が、身にあまりに過分な行為なのかもしれないな、という袋小路。
それでも僕もみんなも、今日も明日もそれからもどこかに線を引き、いびつながらも芯を体幹に突き通して生きていかなければいけない。


♪ Piano Man - Billy Joel


コメント

神、とはキリスト教では創生主であり、生命を作り出す能力のある者。

ですから、生命を弄ぶことは、人間はしてはイカンのではないだろうか。
そっから生物/非生物の線引きが議題となる。

クローンで”製造”された肝臓は自己で生命活動や生殖を行えないから生物でない?
いや、肝細胞一個一個は生きているんでやっぱ生物ちゃう?とか。

君も、999に乗って機械の身体を手に入れに旅に出よう!^^

>ろぺーす・りー
「生命を弄ぶ」という定義がまた非常に難しいんですね。
医療目的としている場合、少なくとも「弄」んではいないし…。
いやあ、実に難しい。

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