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2006年5月 6日(土)

自分に重圧

かつてアフリカ大陸に旅をした際、彼の地の人々の価値観やライフスタイルに触れ、またそれまでの生涯では決して目にしたことのない無辺際の大地を眺めているうちに、「日本で慌ただしく暮らしている我々は日頃なんと小さくつまらぬことを気にして腹を立てているのだろう、この人たちのように鷹揚に構えて生きた方がいくらも幸せなのではないか」と強く思い至ったという経験があるわけだが、いざこのせせこましく狡猾な利害関係と権謀術数の渦巻く日本社会で一社会人として闘いながら生きていくとなると、やはりどうしたって日頃小さくつまらぬことを気にして腹を立てることなく暮らしてゆくことは甚だ困難である。
そうして今日もつまらないことだけれど業務上は意味のある事柄に腹を立てて小さな器から水が溢れたとするならば、たとえそれが筋道的に真っ当であるという確信は持っていても、ある種の後悔や自己嫌悪に似た複雑な感情を抱えることは否定できない。

どこをどうとってどう考えてみても、今回に限っては理屈の上では自分の主張したことは間違いではないはず、客観的な第三者も自分の言い分を支持しているということは信じられていたとしても、その正論を正義の盾あるいは剣と振りかざして他者を攻め立てるということは案外に難しい。
特にその対象が社会的関係上において俗に先輩や上司と呼ばれる立場の人間だとすればなおさら。
もちろん社会人として最低限の理性と気遣いは動員するけれど、正論を振りかざす側としても一時の感情にある程度人格を支配されてしまっているという点は否めないし、アメリカ合衆国張りに“正義の鎧を身にまとっている”という傲慢な自己陶酔が多少なりとも作用するから、たいていは「言うべきことの2倍ぐらい言葉が口をついてしまった」とまさに後の祭りとなって真摯に反省してしまうほど自己主張を果たしてしまうことになる。
そして、正論という盾と剣を振りかざすことがなぜ難しいのかといえばその最大の理由は、他者を理論で批判し屈服させるという行為には、翻って自らには常に理論的に正しいスタンスを取り続けることを強いるという大きな意義が含まれているからである。
人の理屈の上での誤りを糾す以上、自分が理屈の道を踏み外すことは恥ずべき事態につながる。

「雄弁は銀、沈黙は金」という慣用句もあるように、不言実行ももちろん賞賛に値するが、有言実行はそれに遥かに優るスーパープレイである、と僕が思う所以。

そんな込み入ったドロドロした感情をいつも抱えつつ、21世紀の日本社会に棲む我々は決してアフリカ大陸の人々のように振る舞うことはできぬまま、毎日を生きている。
本当に欲しいものは、大洋のように、大地のように、いかなるものにも惑わされることのない心、かもしれない。


♪ If I Could Turn Back The Hands Of Time - R.Kelly


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