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2005年10月17日(月)

ヴォランティア活動に僕が付けてみている意味

この間当然のように「ヴォランティア活動をしている人は、他人のためじゃなくて自分のためにやっているんだ」という旨の発言をしたら、何だか非国民的な目で見られたような気がした。

人間として生きているからこそ、誰にでも必ず自我というものがある。
誰もが自分と他者を明確に区別し、自らのアイデンティティをどうにかして確立しようとしながら生を送っている。
だからこそ、自分というものを完全に滅しきって、100%混じり気なしで他人のために行動するということは、動物としても、動物の中の人間としてもありえない、と僕は思うのだ。

決してヴォランティア活動そのものを僕は否定的な見解で捉えているわけじゃないし、それができる人は本当にえらいと思っている。
その上で、ヴォランティア活動をする人としない人との違いは、“人生のどこに幸福を見出しているか”というところにあると思う。

つまり突き詰めて考えていけば、人のために無償で働くヴォランティアという行動を進んでとっている人は、それによって自らも幸福感を得ているのである。
他人のために動くことによってその人が喜ぶ姿を見ることが自分の幸せでもある。
誰にだってそういった感情はあると思うが、たいていの場合その対象は家族であったり親しい知人などに限られる。
ヴォランティア活動を常日頃している人はその相手が身近な人ばかりではなく、たとえ見ず知らずの人に対してであっても奉仕している自分が好きな人、それによって幸せを感じることができる人だと思う。
言い方は決して良くないかもしれないが、とどのつまり自己満足に他ならない。
だからエッセンスだけを抽出して言うならば、ヴォランティア活動も窃盗行為も、さらに立ち返ってすべての人が行う行動はすべて等質のものなのである。
“幸福を得るために生きている”、という点において。

たいていの人間はなぜ窃盗行為をしないのかというと、倫理的、法規的な自制や制限といったものももちろん影響しているだろうが、それよりも何よりも、その行為によって幸福を得られないから、である。
金品を窃盗することによって得ることができる物質的メリットと、同時にそれによってもたらされる良心の呵責、犯罪行為露見の恐怖感などとをすべて併せて総合的に判断した時に、“自分は幸福にはなれない”と結論付けるからである。

他の人から見たら理屈が通っていようがいまいが、どんなに浅薄であったり筋道を間違えた振る舞いであっても、人間の“ほぼ”すべての生活行動はすべからく“自分が幸福になるため”のものなのである。
“ほぼ”とつけた理由は、たとえば例外的行為として、“種の保存”を目的とするものもあるだろうと考えてみたから。

“個”と“種”。
…。


♪ Birdland - Weather Report


コメント

自分も同じように感じますよ。
「自分のためにやっている=他人に対してネガティブな事になる、又は他人の気持ちをおざなりにする」
という短絡的な考えが出たときが危険だと思います。

ボランティアが『自己満足』である……という考えは、私も以前からそう思ってました。
でも、それを口にすると冷たい目で見られるから言いませんが(笑)
私に言わせれば、自己満足の何が悪いの? 自分が充実したいからボランティアをするって、別に全然イイコトじゃないかって思うんですがネ。
むしろ、人のために「してあげる」っていう思考の方がよっぽどイヤ。善行を押し付けている気がしてしょうがない。

ま、それでも、ボランティアをしている人は偉いと、素直に思います。私はとてもそんな心のゆとりがないもので……(^_^;)
自分カワイイからなぁ、私……。イカンですね。とても福祉科出た奴の言葉じゃないな、トホホホ。

私も全く同じ事を高校生の頃から思ってました。
さらには、ボランティアされる側からしたら弱いモノ扱いで屈辱的とさえ…。
けれど、阪神大震災のドキュメントを見てから価値観が変わりました。
そして、阪神大震災の被災者の方が、新潟地震のとき、いてもたってもいられなくなってボランティアに参加した方も多いと聞きました。それは自己満足というより、痛みを知っているからこその行動では?
 また、以前編集長から聞いた、増えすぎると集団自殺する動物や、こないだTVでみた、集団でいる時敵が近づくと、自ら集団から飛び出し、犠牲になる牛など、、、生き物には無償の自己犠牲の精神が備わってるのかも…と思うこの頃です。

>Mitsu
結局はバランスなのですよね。
自我を1から10まで通しても幸せになるどころか普通の神経なら逆に参っちゃうし、だからといって自分という個をひとつも主張しないわけにはいかない。

>ヒ~
同じく、理屈は分かっていても自分じゃできないタイプの人間です(笑)。
っていうかヒ~ちゃん、福祉科出てたの。
そっちに驚いたで。

>まゆまゆ
無論やっている人たちからしたら偽善的な気持ちを意識的に持ちながらやっているわけでもないと思うけど。
確かに震災なんかの時は僕の言っている例は当てはまらないかもしれない。
なんと浅はかな考察だ。
人の命、というものが目の前で失われんとする時に助けようという行為は、どちらかというと僕が末尾に書いている“種の保存の本能”みたいな感覚に近いのかもしれない。
そして前にお前に話したレミングの集団自殺の話だけど、あれはどうやらディズニーが作ったフィクションだというもっぱらの噂。
まったく人騒がせなねえ。
その牛なんかも“個”じゃなくて“種”を優先しての行動の表れなんだろうね…。

レミングの集団自殺にそんな噂が??
種という意味では、戦争の特攻隊や、宗教団体など…精神的なものの繋がりでの自己犠牲は人間だけですね。

まあ噂というかそれが真相らしいよ。

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