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2005年10月31日(月)

分厚い本バンザイ

端的に言うととにかく僕は本が好きである、といった旨の内容を少し前の本欄に書いたわけだが、中でも長編小説が好きである。
短編ももちろん優れた作品ならば読んでしまえばしまったで面白く読めるのだが、好んで読むのはもっぱら長編。
長編といっても、さらに言及するならば、書き下ろしに限る。

一概には言えないとしても、小説は長くなればなるほど枝葉分かれは増えていくし、つまり張られた伏線や設置された仕掛けなども増えていく傾向。
特に僕の好きなミステリーやそれに類する分野においては、そうなればなっていくほど、連載作品と書き下ろし作品を比較した場合、やはりどうしても前者、連載作品の方が辻褄を合わせることが難しくなっていき、小説全体を構築する物語の理屈が破綻する可能性も高まっていくように僕は思う。
誰とは言わないけれど、とある高名な作家の某長編小説を読んだ時、「なななんだこの駄文駄作は!」と腰を抜かしたことがあるんだけど、それは果たして新聞連載作品を単行本化したものだった。
ちなみに書き下ろし長編小説の体を為していた同作家の別作品は充分に面白かった。
毎日連載というとても限られた紙幅の中で、毎回それなりの山と谷を作りながらストーリーを組み上げていくという作業によって傑作が生まれる可能性というのは、やっぱりとんでもなく低いのだと思う。


♪ Time Is On Your Side - Earth, Wind & Fire


2005年10月30日(日)

「恐竜博2005」など

ここ最近の寝不足と心身疲労がたたってか、どうにも体調が芳しくなく大好きな草野球もパスさせてもらった今日だけど、1日ずっと家でウジウジしているというのもあまりにも哀しい事態なので、午後から妻と出掛ける。

まずは苦楽園口にある「カフェ サヴーレ」に行き、サンドウィッチで腹ごしらえ。
たかがサンドウィッチというなかれ、この店のそれはかなり有名な一品。
僕は“カツと野菜のサンドウィッチ”を、妻は“エビフライと野菜のサンドウィッチ”をそれぞれ頼んで食し、良質の食物で腹はいっぱいに満たされた。


それから「恐竜博2005」を観るために阪神高速に乗って大阪市内へ。
会場は長居公園内にある大阪市立自然史博物館。

少し前の本欄にて、「ジュラ紀 大恐竜展」というイヴェントに行ってきた旨を書いたが、このたびの「恐竜博2005」は実はそれとはちょっと比べものにならないくらいのレヴェルとスケールを誇る恐竜展示催事。
目玉は何といっても、アメリカで1990年に発見された世界最大のティラノサウルスの全身(ほぼ)標本、“スー”!
それだけを観に行くのだといってもそれほど言い過ぎではない。

長居公園の周辺道路がもうバカみたいに混んでいて、とにかく参った。
今日は長居スタジアムではJリーグのセレッソ大阪vs鹿島アントラーズが行われており、さらにサブ競技場でも高校生かなんかのラグビーの試合が行われていたみたいで、当然周辺駐車場も満杯の大渋滞。
時刻はすでに14:30、「恐竜博2005」が催されている自然史博物館は16:30閉館なので、こりゃまずいと、普段はそんなことはしない主義なのだがやむなく路上駐車をして早足で会場に向かった。

自然史博物館にようやく近付いたところでさらに驚愕、メチャクチャ人が並んでるじゃないか!
「恐竜博2005」の入場待ちかこれほんとに? と思って今一度確かめたが、間違いなかった。
見えるだろうか、係員が持つ札には「45分待ち」の文字が。

なんと驚異の45分待ち! まさか

このようなイヴェントは、僕みたいな嗜好の輩には垂涎ものなわけだが、それが必ずしもたとえば僕の妻のような多数の人たちにとっても同じように価値のあるイヴェントかと問われれば、たぶんそんなことはないでしょうなあ、と答えるぐらいの分別は僕も持ち合わせているつもりなので、正直この入場待ちの長蛇の列には心底驚き、そして焦燥を覚えたのだった。
みんな結構恐竜好きなんだなあ、思ったよりも。

やっぱりイヴェントの性格的に子連れが多いので、待っている間元気なキッズどもに足を蹴っ飛ばされたり体当たりを喰らったりしながら、15:15頃、ついに会場内に入ることができた。

当然、中もものすごい人の数だ。
人波をかき分けながら、ふうむ、ほお、おお、などと一つ一つ標本を見つつ進んでいくと、じきに見えてきました、ドデカい肉食竜の全身骨格が!

ぬううこれが“スー”か! なぬなぬ大きさは…12.8m! と若干の感動を覚えつつ近くへ、隣の妻ですらやや興奮しているようだ。
だけどだけど、あれ? なんだ…? ちょっと待てよ…?

なんか“スー”の横に並べられているタルボサウルス(これも10m近いのでかなりの迫力)の標本と少し質感が違う。
解説プレートを再び読んでみると、え? 複製?

一気にテンションが落ちた。
もちろん事前の告知などでも、今回展示される“スー”の標本は実物じゃなくてレプリカだ、という主旨のアナウンスはあったはずなので、僕が勝手に勘違いして思い込んでいただけのことではあるんだけど…。

これが“スー”の全身骨格(レプリカ) こちらは実物の標本 タルボサウルス

よくよく情報を確認し直してみると、“スー”の化石は、法廷闘争の末所有者と認められた発掘地の地主から、シカゴのフィールド博物館が1997年、オークションにおいて約10億円で落札、それ以来フィールド博物館外で展示されたことはないそうだ。
今回もレプリカの全身標本の横で申し訳程度に、実物の“スー”の肋骨の化石が展示されていたのだった。

一旦家に戻り、夕食をとりに近所の「ビストロ ベーアッシュ」に行く。
今日食べたのは“野菜と生ハムのサラダ”、“ヒラメのポワレ”、“アンガス和牛の赤ワイン煮込み”、“フレッシュ・ポルチーニ茸のクリームソース・スパゲティ”など。

妻はこういったお店でシェフが調理をしているところを見るのが大好きなので、今日もキッチンがよく見えるカウンター席に座ることができて喜んでいたわけだが、確かにプロの熟達した料理の技を近くで見ているのは僕ですら楽しめる。
見ているとここ「ビストロ ベーアッシュ」のシェフは、魚にしろ肉にしろ野菜にしろキノコにしろ、オーダーを受けてから生の食材を出して一から調理を開始する。
品によっては最低限の下ごしらえはしているのだろうが、大体は最初から手間隙かけてのスタートだから、各々の食材がまったくヘタっておらず、本当に美味い。

サフランをベースにムール貝がブレンドされたソースがメチャウマのヒラメのポワレ、脂身が多いのになぜかスッキリサッパリしている和牛の赤ワイン煮などに舌鼓、そしてスパゲティを食べつつ、「こんなにデカいポルチーニ茸なんてそうそう喰えないよ」なんて話をしていたわけだが、妻に「去年もそんなこと言ってなかった?」と指摘されて、帰ってから昨秋の当コーナーを読み直してみたら、確かに書いてあったわ。


帰途、武庫川出口で降りて国道43号を西進していたら、道路沿いに大量の警官、パトカーがたむろしており、高速の入り口では検問の大渋滞、さらには周辺住民や店舗の従業員たちがなにやら野次馬らしく出張っているじゃないか。
そういえば出掛ける時、昼間もこのあたりには多くの官憲たちが右往左往していた。
誰が来てるんだろうな、と考えていたら、いいタイミングで対向車線からやってきた、白バイとパトカーを太刀持ち、露払いに従えた黒塗りセダンの一団とすれ違った。
帰宅後調べてみたら、どうやら皇太子だったようだ。
今日まで兵庫県を訪問していたらしい。


♪ Hold Me Down - Tommy Lee


2005年10月28日(金)

活字中毒者は禁断症状にいかに耐えうるか

いくら遅く帰ってこようとも、寝不足で目が真っ赤に充血していようとも、脳と肉体が安息を欲していようとも、疲労とストレスで吐き気を催していようとも決してやめられぬもの、それは就寝前の読書。

たいてい朝起きる時は「本なんか読まずに早く寝たらよかった…」って後悔するんだけど、それでも読んでしまう病。
中毒とはよく言ったものだ。
どうにかならんものでしょうか?

さあ、あと少しで読み終わるアレでも読みきってから寝るか…。


♪ Savoy - Jeff Beck


2005年10月26日(水)

もう1人、名シューターが

NBA雑誌をチェックしていたら、アラン・ヒューストンだけじゃなくってスティーヴ・スミスもいつの間にやら引退しているじゃないか。
キャリア終盤こそ半ばジャーニーマンのような存在になっていたが、ホークス、ヒート時代は高精度で安定したピュア・シューターで、デビュー当時なんかには長身ながらポイント・ガードもこなせるということで、かのマジック・ジョンソン2世なんて呼び声まで上がっていた。

スティーヴ・スミスといえば僕にとっては、1999年、「SUPER DREAM GAME」というイヴェントでシドニー五輪予選USA代表チームの一員として来日し、さいたまスーパーアリーナで生でそのプレイを観て感動した、という想い出がある。
彼のプレイに驚かされたのは実は試合中じゃなくて試合前のシュート練習の時。
3ポイント・シュートをひたすら撃っていたのだが、それがなんと優に8割方入る。
大げさじゃなく、10本中少なくとも8本は軽やかにネットに沈められてゆくのだ。
それも十分に時間を掛けて狙いを定めて撃っているわけじゃなく、いかにも練習って感じで無造作にポンポンと放りながら。

試合中とあらばいかに好シューターとはいえ、3ポイントを決める確率はせいぜい5割だが、それはディフェンスのプレッシャーを受けた状態でのこと。
フィジカル、メンタルともにまったくのフリーである練習時ならば、その確率はこれほどまでに跳ね上がるのだ、世界のトップリーグで活躍するシューターの力とはこれほどのものなのか、ということを目の当たりにして何だか子供のように興奮したことを覚えている。

こうして皆年をとっていくのだね。


♪ Lose Yourself - Eminem


2005年10月25日(火)

入籍4周年をささやかに祝う

ふと気が付けば月日の経つのは本当に早いもので、今日で入籍してから丸4年。
さりげなくメールでそのことをあらかじめほのめかしてくれた妻の心遣いに痛み入る。

ささやかながら食卓に生花を飾り、ここ一番の大枚をはたいた上等のビーフ・フィレステーキでひっそりと祝す。

花と料理と水槽と

ほんのひと時。


♪ この広い世界で - The Boom


年末年始なんてカラーバー流してりゃいいじゃん

ここのところずっと、休みは取れても週に1日だし、週に1日は必ず完徹だし、週に2~3日は半徹だし、今日もやっと帰ってきたとこだし、明日(今日)も朝から仕事だし、うーん、眠い。
こんなんじゃ風邪なんて治るわけないし。
年明けしばらくまでこんなペースが続きそうなところがまたホラー。

プロダクションのエディターが身を粉にして嫌な顔一つせずに仕事してくれたり、咳き込んでいたら、番組をご一緒しているナレーターさんがのど飴をくれたり、タクシーの運ちゃんまでトローチをほれ、とくれたり、弱ってる時こそ人の優しさが染みる。

こんなん書いてる10分があったら早く寝ろって。


♪ Stormy Monday - B.B. King


2005年10月24日(月)

佐渡裕の「第9」を聴きに行った

陽の届かぬところに行けば薄ら寒いけれども明るく爽やかな秋の好日、小春日和となった昨日、阪急西宮北口駅前にオープンしたばかりの兵庫県立芸術文化センターへ、ベートーヴェンの交響曲第9番、いわゆる第9を聴きに妻と2人行ってきた。
指揮を執るのはこの劇場の芸術監督である佐渡裕。
特にクラシックのコンサートにこれまで足繁く通っていたわけでもない我々の目当てはもちろん彼だ。

一昨日、22日にグランドオープンの初日を同公演で迎えており、2日目の昨日も聴衆で溢れかえっていた兵庫県立芸術文化センターは、思った以上に美しく優雅で、洗練されていながらもとっつきやすい雰囲気に満たされた、とても良いホールであった。
パンフレットの造作やコンサートの値段設定、企画イヴェントの志向性や会場内の様々な趣向からも、オーケストラやクラシック音楽をより身近な存在として、地域の人たちの間に根付かせたいのだ、という意思が強く感じられた。

兵庫県立文化芸術センター正面前 正面入口入ってすぐの大きな階段 さすが杮落とし公演、広々としたホール廊下にも人がたくさん

肝心の演奏の方は、恥ずかしながら第9を生で最初から最後まで聴いたのは初めてだったが、大きく言って、当然ロックやポップスのライヴとはまったく異なるいろいろな楽しみ方が感じられた。
まずは場面場面に応じた起伏や展開がとてもドラマティックで、指揮者 佐渡裕の背中や全身が語る表情と相まってかなりの迫力。
特に最終楽章、もっとも有名なあの主旋律がチェロとコントラバスの静かな重低音で始まるところなんか鳥肌もんだった。
合唱付きっていうのも、クラシック音楽に対する理解が深いとはとても言い難い我々のような聴き手にとっては、変化が感じられるというか、楽曲の持つストーリーの展開が分かりやすくてよかったと思う。

それにしてもオーケストラの生み出す音楽というものは本当に複雑でとてもたくさんの顔を持っている、ということが昨日は改めて感じられた。
全体を全体として、1個の楽曲として聴くのももちろん心地良いし、それに対して、たとえばヴァイオリンが奏でるフレーズだけを耳で追ったとしても、それはそれで充分に楽しく、また全体を聴いていたのでは気付きえないいろいろなことが分かったりもする。
リズムとテンポの変化に聴覚を集中させていても飽きることはない。

たぶん言い換えるなら、どんなに短くてシンプルな曲でも、明確な目的意識を持って何十回と繰り返し聴かなければ、きっとその曲について理解することなど到底できない、ということになるのだろうと思う。
それを前提とした上で、各パートすべてを瞬時に聴き分け修正しコントロールし、自分の理解するものをオーケストラを使って表現する指揮者という立場の人間はまさに超人だ。


家に帰ってから、忙しくてついついできなかった水槽の水換えを2週間ぶりに行った。
3ヶ月ぐらいしか経っていないのに早くも切れてしまった35cm水槽用のライトも交換する。

実はかれこれ2週間ほど僕は風邪気味なのだが、昨日は妻も発熱しているようだったので、帰途「いかりスーパー」に寄って買ってきたお惣菜などで夕飯。
といってもさすがのいかり、カニグラタンや鹿児島産赤鶏の照り焼き、サーモンのサラダなどをおかずに、ネギトロをごはんに載せて丼にして、鬼神のごとき強さを見せる千葉ロッテマリーンズを観ながら食べたが、なかなか美味しかった。


♪ In Trance - Space Age Playboys


2005年10月22日(土)

ある友人からの電話

プロ野球日本シリーズ第1戦、もうすぐ里崎が阪神を突き放すスリーランをレフトスタンドにかっ飛ばそうかという頃、僕の携帯電話に掛かってきた1本の電話。
それは友人のTからだった。

Tは僕と同い年、元々は放送作家をやっていたのだが一念発起、暫くの店舗修業を経て昨年、見事自分の店をオープンしたラーメン店主である。
ところが今日の電話で彼が僕に伝えたのは、「来月いっぱいでラーメン店を閉める。また放送作家に戻ることにした」という言葉だった。

元来が極めて楽天的な性質であるTだけど、妻と子2人を抱えてこれからの人生を送っていくことを考えると、他人からは想像もつかないほどに思い悩んだ末での結論であることに違いはない。
電話の声は明るかったし、神妙な報告が終わった後は「来週の草野球来れるの?」とかたわいもない話を振ってきて、何だかいつもの普通の会話みたいではあったけれども、たぶんTは今、迫り来る非日常の感覚をどうにかして日常に転換させてまるでなんでもない事だよと感じる風に持って行こうとしている最中のはず。
そんなことが伝わってくるような、明るい声だった。

彼は放送作家としても能力があり、ラーメン店主に転身する時も惜しまれながら、未だ放送作家として請われながらの職替えであったから、きっとすぐに仕事は決まると思うし僕もぜひ声を掛けたいと思っている。

個人の力ではきっとどうしようもない大きくて強い流れの中に呑まれながら、時には精一杯逆らいながら、そしてそれが必要ならば時機が到来するまでジッと死んだふりをしてパワーをためながら、勤め人には無縁のリスクをしょって自分のしたいことに勝負を賭けている身近な人間の存在に、会社員10年目の僕はまた得も言われぬある種の憧憬を禁じえない。

心から応援しよう。


♪ Religion Buzz - Kory Clarke


2005年10月21日(金)

今のタクシーは俺のアルファよりもハイ・パフォーマンス

仕事で遅くなって深夜帰宅する時はタクシーに乗って帰ってくるわけだけど、何がすごいって最近のタクシーに標準装備されているナヴィゲーション・システム。

さっきもタクシーの後部座席でポケーっとしていたら、何やら急に機械がしゃべり出した。
なんだなんだとナヴィのモニターに注意を向けたら、電子的女声が「甲子園球場が左側にあります」とかしゃべって、同時に甲子園球場の写真がペカっと画面に出たではないか。
まるでバスガイドだ。

先日乗っていた際も何気なくモニター画面を見ていたら幾本かの道路が何やら緑にチカチカ光っている。
はて?
それは何ですかと訊いたら、今現在空いている道はそうやって緑色に点滅するんだとか。
そして逆に混んでいるとナヴィが判定した道は赤く光るというじゃない。

え? これって常識?
自分の車にナヴィを付けていないものでまったく現状が分からない…。


♪ 島人ぬ宝 - Begin


2005年10月20日(木)

気付けば

このところレギュラー番組のリニューアルに加えて年末年始特番の仕事もちらほら立て込んでき始めてなかなか忙しい。

ふと気付けば僕もいつの間にやら入社10年目、もうすぐ32歳。
スポーツ選手でいったらそろそろ引退も考え始める年頃、会社でも最早若手とは言い難く、ズバリ中堅社員にカテゴリー分けされるのだろう。
自分が会社に入った当初の感覚からすると、10年目の先輩社員なんて相当厚い壁の向こう、ああ大人だなあ、社会人だなあ、しっかりしてるなあ、なんて思っていたはずだが、果たして今の自分は…。

フリーランスとして、経営者として頑張っている人たちとは違い、我々会社員は年功序列の枠の中で集団の論理に従って動かなければいけないというストレスこそあるものの、よっぽどじゃない限り毎月の給金は保証されているわけで、ただただデスクでボーっとしていようがよだれを垂らしていようが鼻クソほじっていようが給料は支払われる。
社会にも家庭にも自らにも何も益をなさずに非生産的な生活を続けていようが、時が経過すれば腹が減って飯を喰うのと同じように。
何も産み出さぬ者が何かを喰い潰すことこそ無様。

せめて貰っている金の分ぐらいは働いていたい。


♪ Gypsy Road - Cinderella


2005年10月19日(水)

感情を隠し切ることも一つの小さな目標

一緒に仕事をするとして果たしてどんな人がご勘弁願いたいかと言えば、まずは合理的でない人。
別名、効率的でない人。
努力は必要だがポーズや見せ掛けの頑張りなど一切不要。

もう一つは、取り巻く環境や外的要因が何も変じていないのにも関わらず、判断基準がブレる人。
どうしたって仕事を進めていく上では周囲の状況もいろいろと変わっていくはずだから、それに応じてプランに修正を入れるというのはよーく分かる。
でも、そういった条件は何一つ変わっていないのに、自分が言ったことを忘れちゃったのかそれとも迷いのあまりおかしくなっちゃったのか知らないけれど、日替わりどころか1時間ごとに言うことがコロコロ変わるっていったいどういう了見。


♪ Many Men - 50 Cent


2005年10月18日(火)

アラン・ヒューストン引退、新ドレス・コード

ニックスのアラン・ヒューストンがついに引退か。
晩年こそケガなんかもあって、その高給ゆえにいわゆる給料泥棒的プレイヤーの代名詞みたいに言われていた時期もあったけど、振り返ってみると20点オーヴァーの安定したシーズンもあったわけで、充分にオールスターに値するいいシューターであった。

さらにNBA絡みで言うと、昨年ヴィンス・カーターが試合前の練習中にいつも聴いていたiPodを「ドレス・コードに違反している」という理由でリーグに取り上げられたなんて出来事もあったけれど、このたびリーグが新たなドレス・コードを設定した、というニュースを目にした。
いわく、選手たちはチームやリーグの業務に関わっている時は(もちろん記者会見やシーズン中の移動なんかも含まれる)、“ビジネス・カジュアル”を着なさいとのこと。
このビジネス・カジュアルっつーのがイマイチよく分からないところもあるんだけど、スニーカーやTシャツ、ショーツやジャージーなんかは明確に禁止されている。
他にもケガなどのために試合には出場しないけれどベンチに入る時はチーム指定のスポーツ・コートを着ろだとか、アリーナに出入りする際はビジネス・カジュアルもしくはチーム指定のウォーム・アップ・スーツを着ろだとか、さらには室内ではサングラスをするなとか、服の上から見えるチェーンやペンダントをするななんてまるで小さい子に言い聞かせるようなアホらしい規定まで明記されているのだ。

つまり、今の若い選手たちが好んで着ているヒップホップ・ウェアは公の場では一切着るな、ということなのだろう。
もちろんNBAというリーグは様々なライセンスを様々な企業と締結しており、無論ウェアとて例外ではないから商業上の理由も少なからずは存在しているのだろうが、それにしてもちょっと行き過ぎの感は否めない。
B-Boyファッションを禁止してしまったら、NBA全チームのユニフォームを提供しているリーボックなんかも決して得はしないと思うんだけど。

ひょっとしたらこの服装規定の裏には、実は服そのものではなくてタトゥーをできるだけ子供たちの目に触れさせない、なんていう目的もあるのかもしれない(どちらにしろユニフォームになれば丸見えなんだけど)。
確かに猫も杓子もという状態の、昨今の若いプレイヤーたちの間ではびこっている数々のタトゥーはちょっとばかり目に余るかも。

まあアレン・アイヴァーソンを始め、このドレス・コードに対してやつらがどんなリアクションをするのか少し楽しみだ。
そういえばシャキール・オニールやコービ・ブライアントらが「試合中のショーツの丈が長い」なんてバカらしい理由で罰金を科されたなんてこともあったなあ。


それにしても案外こういった類の決め事や規制って、より個性を尊重する自由の国(と思われている)、アメリカの方が日本よりも厳しいところがあったりする。
MLBのニューヨーク・ヤンキースではチームの規定によって、選手はヒゲを伸ばすのは禁止、移動時や会見の時はネクタイ着用が義務付けられている。
さらには他者からの強制だけじゃなくって、実はアメリカ人は自発的にあえて皆で画一的な行動をとることによって団結の意志を固めたりすることも割りとある。
いつだったかボストン・レッドソックスがプレーオフの時に全員スキンヘッドにして闘志を鼓舞したなんて例もあった。

アメリカは元々が移民の寄り集まりの国だから、一つの共同体内に統一されたコスチュームを設定したりある程度の不自由さを強いる束縛を持たせることこそが、連帯意識を高める一番の早道だという要素もあるだろうし、また結局はなんだかんだ言ってやっぱりビッグ・ダディの論理こそがまかり通る「マッチョの国」なのかもしれない、本質的に。


♪ Southbound - The Allman Brothers Band


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「自然」という言葉

2つ前のエントリー、「ヴォランティア活動に僕が付けてみている意味」にいただいたコメントを読んでふと思った、というか連想したんだが、これまた僕が若かりし頃より抱き続け考え続けている命題、「“自然”の定義とは一体何だ?」。

残念なことながら僕が子供の頃より長い間信じていた「レミングの集団自殺」現象はどうやらガセだったようだが、それだけじゃなくても人間以外の生物が一見すると生存本能に反しているような、つまりパッと見「不自然」な行動を取る例は少なくない。
メスが産卵した後、その産後の肥立ちを助くる滋養となるべく自らの身を餌として捧げるあるクモの仲間のオスたち、などという分かりやすい例を始め、肉食動物に襲われた草食動物の群れの中から1頭、囮となるべく目立って捕まりやすい方向に駆け出る、なんて行為もあったりする。
でもそれら一見「不自然」な行動も、実のところその種族という単位での生き残りを企図した上での本能に則った行動なのだ、ということはおそらく誰もが少々考えれば解るだろう。

じゃあ我々人間というものに立ち戻って考えてみた時に、たとえば私欲のための殺人であったり、盲目的に快適さを求めるあまりの森林伐採や大気汚染であったりといった数々の「不自然」な行為は、よーく考えるとやっぱり動物として自然な行為なのだ、と思うことができる人は果たして少ないであろう、間違いなく。
それらはどこまで譲って考えても「自然」な振る舞いではなく、あくまで禁断の果実を口にしてしまった人間という卑しく浅ましい生き物だけが備えている悪業なのだ、と割と多くの人は思うんじゃないだろうか。

でも僕はこんな考え方や価値観こそが危険であり、そして傲慢なものなんだといつも強く感じる。
人間は「不自然」な生き物だ、環境破壊は「自然」を破壊することと同義だ、なんて捉え方、よくよく考えるとおかしくないだろうか?

人間もこの偉大な自然の一部に過ぎず、特別な生き物なんかじゃない、という認識さえあれば、人間の行う行為もまたすべてが「自然」な行為だと言えないだろうか。
そう考えた方がそれこそ自然な道筋じゃないだろうか。

たとえば、サヴァンナに住むライオンは1頭のオスと数頭のメス、そして仔たちで構成される“プライド”という群れ単位で生活しているが、オス同士の戦いが起こり、プライドのボスが交代すると、新しいボスであるオスは前のボスの仔を皆残らず噛み殺してしまう。
これは言うまでもなく自分以外のオスの遺伝子は残さない、という1種の本能に従った行動であるが、この行為は「自然」だとして、対して性根の悪しき人間が不倫相手の配偶者を殺したい、と考え行動することはじゃあ「不自然」なのか?

僕はそもそも「自然破壊」という言葉も好きじゃない。

モグラは自分の住むところを作るために土を掘り起こす。
シャチは満腹で食べる気もないのに遊び半分でアザラシを噛み殺すことがある。
それらは「自然」な行為。

人間は住むところを築くために木を伐り山を削る。
人間はゲーム・ハンティングと称してただ快楽のためだけに動物を殺すことがある。
これらは「自然」に反している行為?

人間の手など介在していなくても、生態系のバランスが崩れれば種は滅ぶ。
餌が増える→それを食べる生き物が増える→増えすぎて餌が喰い尽くされる→共倒れ、なんて例はおそらく有史以前からまさに枚挙に暇がないだろう。
それは極めて「自然」なプロセスである。
確かに特にここ数百年の人間は、他の動物を獲り尽くし、水を汚し、空気を汚し、緑を減らし続けている。
でも一見「不自然」あるいは「反自然」に見えるそれらの行為も、人間も単なる1種の動物だとするならばあくまで「自然」な一連の行動に過ぎないわけである。
たとえそれが滅亡に至る道程であっても、それは「自然」な成り行き。

そもそもが、近代になって声高に叫ばれてきた「自然破壊」や「環境破壊」なんて言葉も発想も、元はといえば自分たち人間のことだけを考えての産物に他ならない。
地球がどうだの動物が植物がどうだのと言っていても、それは決して地球や動物や植物のためなんかじゃない。
結局地球の環境が汚染され生態系が乱れゆけば、自分たち人間が困るから、ただそれだけ。

原油を始め化石燃料を枯渇させないように大事に使おう、でもやっぱり便利な生活は捨てられないから少々危険でも原子力が必要不可欠だな、植物を根絶やしにしてしまっては我々は生きてはいけない、緑を守り増やすのだ、でもやっぱり山を越えるのはしんどいからドカーンと切り崩してトンネルを通そう、動植物を絶滅させぬよう、そして虐待せぬよう大切に扱おう、でも必要ならば動物実験をして多少の犠牲は払っても医学の進歩を図って人間の病を治そう、このまま温暖化が進めばやばいぞ、CO2排出を抑えるエンジンを開発して冷房設定温度も上げるんだ、でもやっぱりモータースポーツって面白いよね、アホみたいにガソリン喰うF1も仕方ないよね。

矛盾していようが綺麗事だろうが欲望剥き出しの愚行だろうが、すべてが「自然」な出来事。
そこには善も悪も存在していない。


♪ Godzilla - Blue Oyster Cult


2005年10月17日(月)

パ・リーグ プレーオフを観て簡単に感想

パ・リーグ プレーオフ、実にすごかった。
第4戦と5戦だけでも地上波でやってよかった。

1試合もなかったワンサイドゲーム。
まるで高校野球のトーナメント戦を観ているかのような鬼気迫るプレイの一つ一つ。

かつてはセ・リーグの方がより守備的で緻密な野球を、そしてパは一発中心の豪快な野球をする、などと言われたものだが、今やパ・リーグ上位チームの投手力は素晴らしく充実している。
ソフトバンクももちろん安定した先発投手陣を擁していたが、ロッテはそれに加えてセットアッパーもさらにハイ・クオリティ。
これだけの投手陣を相手に果たして阪神がどう立ち向かうのか?

心情的には、プレーオフで敗退して日本シリーズに進めなかった昨年同様、レギュラーシーズンを1位で終えていたホークスが勝ってもいいんじゃないか、と少しは思っていたわけだが、あれだけの好ゲームを連日見せてくれたのだからどっちでもいい。

にしたってロッテの投手力は素晴らしいと書いたけれど、小林雅英はもうあまり過信しない方がいいと思うな…。


♪ Higher Ground - Red Hot Chili Peppers


ヴォランティア活動に僕が付けてみている意味

この間当然のように「ヴォランティア活動をしている人は、他人のためじゃなくて自分のためにやっているんだ」という旨の発言をしたら、何だか非国民的な目で見られたような気がした。

人間として生きているからこそ、誰にでも必ず自我というものがある。
誰もが自分と他者を明確に区別し、自らのアイデンティティをどうにかして確立しようとしながら生を送っている。
だからこそ、自分というものを完全に滅しきって、100%混じり気なしで他人のために行動するということは、動物としても、動物の中の人間としてもありえない、と僕は思うのだ。

決してヴォランティア活動そのものを僕は否定的な見解で捉えているわけじゃないし、それができる人は本当にえらいと思っている。
その上で、ヴォランティア活動をする人としない人との違いは、“人生のどこに幸福を見出しているか”というところにあると思う。

つまり突き詰めて考えていけば、人のために無償で働くヴォランティアという行動を進んでとっている人は、それによって自らも幸福感を得ているのである。
他人のために動くことによってその人が喜ぶ姿を見ることが自分の幸せでもある。
誰にだってそういった感情はあると思うが、たいていの場合その対象は家族であったり親しい知人などに限られる。
ヴォランティア活動を常日頃している人はその相手が身近な人ばかりではなく、たとえ見ず知らずの人に対してであっても奉仕している自分が好きな人、それによって幸せを感じることができる人だと思う。
言い方は決して良くないかもしれないが、とどのつまり自己満足に他ならない。
だからエッセンスだけを抽出して言うならば、ヴォランティア活動も窃盗行為も、さらに立ち返ってすべての人が行う行動はすべて等質のものなのである。
“幸福を得るために生きている”、という点において。

たいていの人間はなぜ窃盗行為をしないのかというと、倫理的、法規的な自制や制限といったものももちろん影響しているだろうが、それよりも何よりも、その行為によって幸福を得られないから、である。
金品を窃盗することによって得ることができる物質的メリットと、同時にそれによってもたらされる良心の呵責、犯罪行為露見の恐怖感などとをすべて併せて総合的に判断した時に、“自分は幸福にはなれない”と結論付けるからである。

他の人から見たら理屈が通っていようがいまいが、どんなに浅薄であったり筋道を間違えた振る舞いであっても、人間の“ほぼ”すべての生活行動はすべからく“自分が幸福になるため”のものなのである。
“ほぼ”とつけた理由は、たとえば例外的行為として、“種の保存”を目的とするものもあるだろうと考えてみたから。

“個”と“種”。
…。


♪ Birdland - Weather Report


2005年10月16日(日)

「吉原御免状」観劇

今日は芝居「吉原御免状」を観に梅田芸術劇場へ行ってきた。
原作は隆慶一郎、演出いのうえひでのり、そして出演は堤真一、松雪泰子、京野ことみ、藤村俊二、古田新太、梶原善他。

梅田芸術劇場正面前

総体的に言って、とても素晴らしい演劇イヴェントであった。

やっぱり予算的にもとても大きな芝居だから、まず舞台装置がとてもよい。
大仕掛けはもちろん、細かいところにもよく気を配られ手を入れられていたし、またその転換も妥協なし、隙もなく行われていた。
セット転換の無粋な行為の現場を決して観客の目に触れさせぬよう、細心の注意と創意工夫をもってプランニングされていた。

そして音響効果、SEもとてもよく考えられ、凝っていた。
こちらもどちらかというと小技が巧く効いていて、たとえば何でもない会話のシーンとかでも、ともすれば聞き逃してしまいそうな、それでいてあって然るべしというヴォリュームとトーンでほんのりと鳥の声や雑踏のざわめき、風の音などが流されていたり。

ストーリーも、ちょっと観る前に何となく想像していたよりは軽佻浮薄とも言えるノリもあった前半、そしてそれとは対照的な、時に切ないほど凄惨な描写をも盛り込んでスピーディに展開してゆく、一気に涙を誘う悲愴な後半、ある意味かなりの力技とも言えるその剛毅な物語と演出力と演技力に、芯から感動した。
感服、面白かった。
ヒステリックなフェミニストたちはこの演目を観てもその物語に心を動かす代わりに嫌悪感を覚えるのだろうか。
ふとそんなことを知りたいと思った。

役者に関しては、堤真一は思ったよりスタイルが良くて舞台映えしていたし、以前から綺麗だなあと思っていた松雪泰子はやっぱり生で観ても綺麗だったし、舞台役者としての経験と実力は折り紙つきの古田新太と梶原善は期待通り、主役を凌駕する才能と技量を存分に見せてくれた。
特に梶原善は、あのキャラクターと体躯ではちょっと演じるのは難しいんじゃないかな、と僕には思われた、迫力と膂力と胆力を必要とするような役柄も、体格のハンディを補って余りある卓越した演技力で見事にこなしていたように感じた。
甘く見過ぎ。
ただ老優藤村俊二は、いい味を出してはいるのだが随所でちょっと台詞が飛び過ぎだった。
完全に失念、という事態まではなかったが、言い直したり妙な間を空けてしまったりといった場面がいくつかあり、そこがやや残念。

終演後には佐賀県出身、松雪泰子の一人ライヴで「佐賀県の歌 松雪泰子ヴァージョン」まで聴けるというゴージャスなおまけ(と言うにはあまりに豪華な)つき。

そしてなぜか開演前のBGMはIron Maiden、第1幕と2幕の間の休憩中はEric Claptonの、どちらもライヴ盤がかかっていた。


主役の堤真一演じる松永誠一郎がクライマックスで、「俺は今まで人を斬ることは仕方がないことだと思っていた。それが剣士として生きていくことなんだと。だけど俺は今、心の底から貴様を叩き斬ってやりたい!!」と激すシーンがあるのだが、その瞬間が「北斗の拳」第22巻でケンシロウが「オレは今日まできさまらは降りかかる火の粉だと思って払ってきた だが……これからはちがう カイオウに与する者はこのオレ自ら戦いほうむってやる!!」と言い放つシーンと見事に重なったのであった。
修羅。


♪ 刀と鞘 - 人間椅子


2005年10月15日(土)

「ジュラ紀 大恐竜展」に行ってきた

今週はちょっと常軌を逸脱した殺人的激務が続き、水・木・金の睡眠時間はそれぞれ4時間、3時間、30分と、3晩合わせて8時間も寝られず、さらには咳が夜中止まらなくなって一層悶え苦しむなんて日々だったわけだが、それなのに今日の仕事終わり、混濁茫洋朦朧とする意識と水中を歩いているかのような重い肉体に喝を入れて、大阪・南港 ATCミュージアムで開かれている「ジュラ紀 大恐竜展」に独り行ってきた。
なんたって明日までの開催だから。
ちなみにこのイヴェントの主催者として僕が務める会社が名を連ねているからコソリと招待券をいただいたりなんかして。

会場入ってすぐ出迎えてくれるダトウサウルス 全長約12m 全長約8m 大型肉食恐竜のヤンチュアノサウルス

全長1.5m 大型魚類のレピドテス 触れるコーナーにあった恐竜の卵の化石 ちなみにスフェロウーリトゥス類の卵らしい

産経新聞社が企画・運営のこの展示会は中国の多大な協力を仰いでいるみたいで、実際に展示されている化石も中国産のものがほとんど。
ちなみに上の4枚の写真に写っているものもすべて中国で発掘されたもの。
日本で出土した恐竜の化石も、数こそ少なかったが恐竜博物館で有名な福井県からやってきてディスプレイされており、フクイサウルスなんかも鎮座しておったわ。


今度はあの世界最大のT-Rex標本、“スー”が来ている「恐竜博 2005」に足を運ばなきゃだな。
まあもうチケットは入手しているけど!


♪ Learn To Fly - Foo Fighters


2005年10月13日(木)

成熟する、大人になる

成熟するとはいったいどういうことなのだろうか。

自身を例にとってみると、僕は31歳現在の今よりも、たとえば15歳の時の方が口数も少なかったし、冗談もあまり言わなかったし、はしゃいだり騒いだりすることも少なかった。
裏を返せば、今の方がよっぽど見た目上の振る舞いは幼稚に過ぎるということである。
ティーンエイジャー当時、マンガ「北斗の拳」のケンシロウに心酔していたという驚愕の事実を横に退けておいても、そうである。

だからといって僕の場合は昔の方が精神的により大人で、年をとった今の方が幼いのだ、ということになるのか、という問題である。

断言はできないけれど、たぶんそうではないだろう。

おそらく若かりし頃は、自分を実際以上によく見せたい、かっこいいと思われたいという、思春期特有の背伸び感が多分に働いていたはずで、それによって本心も、さらにその奥にある本音も幾重にも包み込まれていたと思う。
だから比較的今よりも大人っぽく感じられるような言動をしていたに過ぎないだけ。

それに比して現在の方がもちろん知識も経験も微々たるものとはいえ積み重ねてきたはずのものがあって精神的にもタフにはなっているから、本質的には成熟している、と言ってたぶん差し支えないだろう。
少なくとも成長はしていると思う。

じゃあ何で見た目上の振る舞いはより幼児的に退行しているのかというと、自分を偽ったり飾ったりしなければいられないという、いわゆる虚栄心みたいなものが削ぎ落とされていったから、ということになるのだろうか。
自分はこれだけの人間です、コレとコレはできますけどアレとアレはできません、ということがこの歳になってようやく少しずつではあるけれど正直に世間に向けて公表できるようになってきた、とでも換言できるのか。


そして僕はいつもここである意味根元的な、冒頭の問いに立ち返ってしまうのである。


それならば自分の心を覆い隠さずに、正直に素直に感情を表現できることがすなわち“成熟している”、と言えるのだろうか、と。

ちょっと違ったケースに当てはめて考えてみたとしても、事態はさらに混乱する。

たとえば言い方を変えて、じゃあ大人になる、とはいったいどういうことなのだろう。

個人によって程度の差こそあれ、純粋で真っ直ぐで素直で、矛盾や欺瞞や不正がどうしても我慢できなかった少年や少女も、やがて時が経ち歳をとり分類上は“大人”と呼ばれる人種になると、「社会で生きていく中ではこの程度の不条理は仕方がない」という“常識”を必ず身につけるようになる。
つまり、10代の頃はとても狭く小さかった“倫理的許容範囲”というものがより広く、大きくなっていく。

その過程は、果たして“大人になった”と言えるのだろうか。
言ってよいものなのだろうか。


自分ひとりの価値観だけを振りかざして我を張っていても人間社会を暮らしていくことはできない、多少の不条理には目をつぶっても、時には自分の本音を殺して他人と協調していくことこそが大人である、という見方は成立するだろう。
だが一方で、それは大人になるということではなくて、純粋だった心が汚れていくプロセスに他ならない、妥協するのではなくて、自らの主義主張を正しく明らかにできることこそが大人というものである、という見解もあながち間違っているとは言えないような気もする。


バランスだと言ってしまえばそれまでなんだけど。


♪ Breathe - Nickelback


2005年10月12日(水)

「読者登録」コーナーリニューアルのお知らせ

現在猛烈な勢いで睡眠時間を削りながらサイト改築を進めている最中なのだがここでちと告知でも。

このブログの上位サイト「海洋空間」内の「読者登録」というコーナーをリニューアルしました。
刹那的娯楽アンケート感覚もしくはプロフィール登録あるいは自動リンク代わりなんて具合に軽く投稿しちゃっていただけたら非常に楽しく思います。
こちらです→「読者登録」

皆様どうぞよろしくお願いします。


♪ タイムボカン - 山本正之


2005年10月10日(月)

「翠香」の料理に唸る

今日は午後に水槽4つの水換えを行った後、一シャワー浴びて外に夕飯を食べに行った。
夙川駅北西にある中国料理「翠香」へ。
正直言って外観などパッと見はあまりパッとしないカンジがするのだが、その実味には古くから定評があるようで、なかなかの有名店である。
今日も一応予約をして行ったからよかったけど、広くない店内は活気づいていた。

鶏のアーモンド揚げ、牛肉入りレタス炒飯、水ぎょうざ、芝海老と季節野菜の炒め物、葱入り細切り汁麺を注文して妻と2人食す。
本当に美味い。
うちの近所は何軒か中華も行ったけど、ダントツでここが一番美味い。
僕は濃い味というのがどちらかというと苦手で、薄味が好みなんだけど、ここ「翠香」は典型的な中華らしからず、炒め物はシンプルな塩味、スープの類もいたってアッサリとしていてそこがピッタシ。
ひょっとしたらドカーンと押し出しの強い中華味パワーを求めている人には少し物足りないかもしれない。

特に水ぎょうざのスープの強過ぎず弱過ぎない味わい、汁麺の麺に絡んだスープの度合いなんかが素晴らしい。
とにかく味付け全般がまさに絶妙の一言。


♪ Got The Life - Korn


近所で済ませる

割と久々の休みだった昨日は、F1日本GP生放送を観ていろいろガッカリしたり携帯電話にプリインストールされていたiアプリ「ドラゴンクエスト2 前編」などやったりしてから、妻と夕飯の買い物に出掛ける。
車で5分ほど走ったところにある関西スーパーへ。
駅弁フェアなるものが開催されていて美味そうだったので、それをそれぞれ買うことにする。
っていうか家出る前に広告チラシ見て当たり付けてたんだけど。
僕は北海道・小樽の「かきめし弁当」、妻は同じく北海道・釧路の「たらば寿司」というやつ。
弁当と言えど結構値が張るのね。

その足で甲陽園の有名店「ツマガリ」にケーキを買いに。
しかしここはいつ行ってもものすごい人手で、ただでさえ狭い店内は文字通りごった返し。
特に昨日なんか3連休の中日だからもう。

いつ行ってもツマガリはすごい人手


♪ Symphony Of Destruction - Megadeth


2005年10月 7日(金)

ネコ餌付け

うちはマンション1階の角部屋なのだが、部屋で静かにしていると時折窓の外から鈴の音がチリンチリンと聞こえてくることがある。
昨年住み始めた当初は、何だろな、と思っていたのだが、ほどなくしてそれは首輪に鈴をぶら下げているネコが歩き回っているのだと判明。
毛艶もなかなかきれいな、おそらく大事に飼われているのであろう茶色いネコだ。

昨晩遅く帰宅したら、エレヴェーターからうちに至る廊下でそいつと出遭った。
飼いネコの割りになかなか警戒心の強いヤツなんだが、その時は何だかいつもよりフレンドリーで、ついつい部屋から妻に持ってきてもらったハムの切れ端とミルクなんぞを与えてみたのだった。

ミルクを飲む孤高のイエネコ

しかし時刻はその時既に日付が変わってしまった頃で、普段はもっと遅い時間、たとえば2時3時とかにも寝室に面した窓の外から鈴の音が聞こえてくることがあるんだけど、そんな刻限に果たして自分の元々の家にはどうやって出入りしているんだろう?


♪ I Wannna Be Your Dog - The Stooges


2005年10月 6日(木)

行ってみると、大いに笑った

前々回放送分の視聴率がなかなかよかった、ということで昨晩はプロデューサーが番組スタッフの慰労親睦会を催してくれた。

自分の金で行くにはかなりの覚悟が必要であろう、大阪・北新地の名店「永楽町スエヒロ本店」で松阪牛のすき焼きという奢りっぷりに一同大満足。
その後は皆でカラオケに流れ、何だかいささかヘンながらも楽しげなノリで宴は続き、つい先ほど帰還という夜更かしっぷりに加え、もともとアルコールを受け付けない身に慣れぬビールを不可抗力で相当量飲んだため、今もまだ少し頭が痛い。

さらに付け加えておくならば、最年長、齢40を数えるプロデューサーがもっとも愉快に壊れていて、独り乳首を執拗に露出していたよ。


♪ Naked - Avril Lavigne


2005年10月 4日(火)

横になって寝る魚がいる

昨今の日本男児は便器に座って小用を足す輩も多い、と聞くと何やら意味もなく嘆かわしい気もするけれど、我が家には横になって寝る魚がいる、と聞くと人はどう思うだろうか。
細かいことは置いといて、まずは実録写真を。

あれ? あいつ横になって寝ていないか…?

さらに寄ってみると…。

見よ! 決して死んでいるわけではない

完璧に横たわっているでしょう!
知らない人が見たら十中八九死んでいると思うんじゃないだろうか?

実はこの魚は魚を飼っている人や好きな人の間では“横になって寝る魚”として比較的有名な種で、名前はクラウンローチ、東南アジア(主にマレーシアやインドネシア)原産の魚である。
ローチ Loach というのは英語でドジョウのことを指し、その名の通りこいつもドジョウの仲間で、口元にヒゲがあるのも見えるだろうか。
今うちにいるものは5~6cmほどとまだまだ小さいが、長命(10年以上は生きるらしい)で、20~30cmぐらいにまで成長するよう。

ちなみにこいつは横になって眠るだけでなく、時には下の写真のように縦になって水槽のガラス壁に張り付いて寝ることもある。

さらに縦になって寝ることも

まったく面白いヤツだ。

でも自然環境下の野生のものももしこんな状態で寝ているのだとしたら、果たしてどうやって生き延びているのだろうか…?


♪ Revolution - The Beatles


携帯電話を機種変更

自分では丁寧に扱っているつもりなんだけど実はそうではないようで、通話中に妙な雑音が入ったり僕の声が相手にまったく届いていなかったりという症状が頻発していたため、携帯電話の機種変更を衝動的に行った。
FOMA N900iからFOMA N901isへ。

今度の電話は青い

しかしPC用の携帯電話データ管理ソフトは誠に便利。
ほんの数年前ならすべからくショップ任せ、データ流出の危険も消失の恐怖もまさに両手を合わせて天に祈るのみだったのに、今や簡単に自宅でアドレスデータや画像データの移設ができるしバックアップも思いのままで精神衛生上もよい。


♪ Dude (Looks Like A LAdy) - Aerosmith


2005年10月 3日(月)

音が聞こえてくる写真、映像が見えてくる小説

写真を見たら音が聞こえてきた、という風な感覚にとらわれることが偶にある。
ネイチャー・フォトグラファーの内山りゅう氏が出ていた、昨日放送の「情熱大陸」(MBS)を観ていて、ふとそんなことを想起した。

内山りゅう氏は主に河川や湖などを戦場として“淡水”をテーマに様々な写真を撮って発表しているフォトグラファーで、アクアリウムをやっている者を始め、生き物や自然が好きな人間なら必ずその写真の10枚や20枚は見たことがあるはず。
学校や図書館など、どこにでも置いてあるようなメジャーな図鑑類にも彼の写真はよく採用されているから、特にそういった分野に興味がない人とて知らぬうちに少なからず目にしているかもしれない。
当然僕の家にも彼の撮影した写真が載っている書籍は多い。

彼の撮った写真を以前雑誌で見た時に、まるで自分が現場にいてその光景を肉眼で目の当たりにしているかのように、とても生々しい“音”が聞こえた(ような気がした)ことを、番組を視聴していて思い出した。

内山りゅう氏のものに限らず、本当に“一瞬の事象を切り取った”写真からは音が聞こえてくる、と僕は感じる。
ああきれいだなあ、とか、鮮やかな色だなあ、とか、構図が美しいなあ、とか、よくこんな瞬間を撮ったなあ、とか、もちろんそんなことも込みなんだろうけど、それだけではない写真。
雑誌「ナショナルジオグラフィック」なんか、その“音”が聞きたいがために購読している、と言っても過言では…、いや過言だなそれはやっぱり。


同様に、超絶的な筆力でもって紡がれた小説作品からは、音のみならず“映像”が見えることがある。

よくできた怪談や心霊譚がなぜ恐ろしいのかといえば、それは聞く(読む)人の想像力に強く訴えかけ、その人の脳内に具体的なイメージを結ぶからである。

『家族の皆が寝静まった深夜、ふと自室のベッドで目を覚まして天井を見上げると、そこにはこの世のものとは思えないとても巨大な女の顔が浮かんでいたのです…』なんて話をたとえば読んだり聞いたりした時、人が恐ろしいと思うのは、その光景を実際の“映像”として思い浮かべるからに他ならない。

言い換えると、物語として練り上げられていなかったり言葉の使い方が稚拙な怪談というものは、決して人を怖がらせることはない。

もちろんそれは怪奇譚に限った話ではなく、すべての物語にあまねく及びうる則の一つだと思う。
逆に、小説を読んでいて、あれ、と、少しでもその整合性や語彙の選択や登場人物の心理描写に疑いを抱いてしまった場合、もうそこから先は何ら具体的な“映像”を脳内に創出しながら読み進めることはできない。


文字通り寝食を忘れて夢中になってあなたが貪り読んだあの本は、あなたの内に“映像”を投影してはいませんでしたか?


♪ House Of 1000 Corpses - Rob Zombie


2005年10月 2日(日)

2夜連続

いやいや、またもなカンジで非常にアレなのですが、とてもとても希少な経験に血湧き肉踊るということでどうかご容赦を。

昨日の残りのマツタケを今日はマツタケご飯&ヒラメのホイル包み焼きにしていただいた。
後者の一品は、ヒラメと一緒にマツタケを包んでバターで。
マツタケご飯とヒラメのホイル包み焼き
本当に量が多かったので、これまたこんなにデカい切れ端が入ったマツタケご飯なんて見たことないよ、という壮観。
この秋一番の至福じゃった。


♪ シャララ - The Blue Hearts


2005年10月 1日(土)

新雑記始まる

2003年3月10日のサイト開設以来、htmlファイルの形で綴ってきた「編集長雑記」だが、近頃は社長も眞鍋も牛頭大王もすなるブログというものにて今日10月1日から当コーナーを引き継がん。

僕は現在、毎週土曜朝生放送の番組を担当しているのだが、ささやかな役得として、しばしば番組で使用した雑多な物品をいただくことができる機会がある。
本日も季節柄、なんとなんとマツタケを頂戴することができた。
妻と2人喰うには充分すぎる量である。
そして晩、鶏肉や白菜などとともに水炊きにしていただいた。

マツタケ鍋

はっきり言ってこんなぜいたくな食べ方(なにせ量が多かったので一切れ一切れがでかい)をしたのは記憶にない。
実際に美味いとかどうとかはひとまずおいといて(無論美味かった)、その大胆行動によって得られた脳内幸福感こそが!


♪ It's Tricky - RUN DMC